第2話「あなたは誰……?」

 群れのボスと思われるひときわ大きな狼が、わたしを正面から値踏みするように睨みつけている。

 大きな牡牛でも引きずり倒しそうな、大きな牙を持つ大きな口。

 ボスの両脇にひかえた二頭が息を合わせて、ぞっとするようなジャンプ力でわたしに襲いかかって、わたしは思わず目を閉じた。


 何かがぶつかる音と、地面に落ちる音が響いて、わたしはそっと目を開けた。

 わたしの目の前に、背の高い灰色の人影があった。

 その人影が、襲い来る二頭の狼を、左右の拳で殴り飛ばしたのだ。


 わたしはハッと息を飲んだ。

 何度も瞬きをして、目をこすった。

 その人影は、人ではなかった。


 顔はどう見ても狼だった。

 鼻も口も狼。

 全身は灰色の毛皮で覆われていて、服は着ていない。

 だけど二本足で立つ姿勢や、肩や肘の関節は、人間のものにしか見えなかった。

「お、狼男……ッ!?」

 わたしの震え声に、彼のピンと立った三角の耳がピクリと揺れた。


 突然現れた半人半獣の怪物を前にして、狼たちは目に見えて困惑していた。

 わたしに向けたのとは明らかに異なる声で吠える。

 脅えている。


 その中で一頭だけ冷静なボス狼からの、問いかけるような低音の唸りに、狼男は牙を剥き出すことで答える。

 狼男の方が上背があるので、狼たちを見下ろす格好。

 月下に光る爪と牙の鋭さは同等。

 そして狼も狼男も、人間が鍛えてもこうはならない野生動物の筋肉をそなえている。

 ただ、数では、狼男は圧倒的に不利だった。


 取り巻きの中の血気盛んな一頭が、ターゲットをわたしから狼男に切り替えて跳びかかり、それに仲間が三頭続く。

 それは呼吸を一つするぐらいの間だった。

 狼男の伸びやかな蹴りが、最初の一頭の鼻にヒットし、続く二頭目を拳でねじ伏せながら重心を整え、三頭目の脇腹に回し蹴りを決めて、勢い良く吹き飛ばされた三頭目の体が、四頭目の狼の上に落ちる。

(今のうちに……!)

 わたしは足音を忍ばせて狼の輪から抜け出そうとしたけれど、別の狼に回り込まれてしまった。

(でも……この仔……)

 他の狼よりも体が小さく、耳の先だけ白い毛には何だかヌイグルミめいた雰囲気があって、他の仲間に比べてずいぶん弱そうに見える。

 わたしは足下に落ちていた木の枝を拾って、耳の白い狼に殴りかかった。


 そして次の瞬間に、わたしは星空を眺めていた。

 小さな狼に、あっけなく押し倒されてしまったのだ。

 木の枝がどうなったのかはわからないけれど、少なくともわたしの手の中にはなかった。

 耳の白い狼の生暖かい息がわたしの顔にかかる。

 小さくても、一頭だけでもこんなに強い。

 狼とはそういう生き物なのだ。

 その狼の群れに、わたしは取り囲まれている……


 ボスが吠え、小さな狼がさっと身を引き、次の瞬間、狼男の爪が空気を切り裂いた。

「あなたは誰……?」

 どうしてわたしを助けてくれるの?


 ボスが再び吠えた。

 今度のは号令だ。

 狼の群れがわたしたちから離れ、茂みの向こうへ消えていく。

 最後の一頭、耳の先の白い狼だけが不満げにこちらを振り返ったけれど、結局は仲間とともに立ち去った。


「逃げ……た……?」

「引いたんだ。狼は、仲間を危険にさらすような狩りはしない」

 獣の牙が邪魔しているのか、言葉はもそもそしていて聞き取りにくいし、声も低くてくぐもっている。

「怪我はないか?」

 その茶色の瞳は穏やかで優しげで、間違いなく人間のものだった。

「は、はい! 大丈夫です! 転んだ時にちょっと擦り剥いただけで……あの……」

 わたしは彼の瞳を見つめようとしたけれど、できなかった。

 ドキドキ、したから。


 狼男さんは近くの茂みにかがみ込み、何かを拾ってわたしに投げ渡した。

 ダイアナさまの雫形のイヤリングだった。

「あ、ありがとうございますっ。でも、どうして……?」

「……ニオイだ」

「あの、その……ほ、本当になんてお礼を言ったらいいか……」

「ついて来い。屋敷はこっちだ」

 そう言ってクルリと向けた狼男さんの背中では、わたしを助けるために狼に噛まれ引っ掻かれして負った傷が赤く口を開いて、青白い月光に照らされていた。

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