第2話 ある日、カッパに連れられる

「坊っちゃん、坊っちゃん。目をお開けなさい」


 その声にぼくはハッと目を開きました。

 気がつくとぼくは、水中を、船に乗って進んでいました。文法的な間違いはありません。船が『水中』を進んでいるのです。

 不思議なことに、水の中にいるというのにぼくは呼吸が出来ていました。いえ、呼吸が出来る、という表現は正しくないかも知れません。呼吸をしているのかどうか判断がつかないのです。

 しかし、とにかく苦しくはありませんでした。

 水がぼくの口の中や耳に入っているのですが、あの、水が鼻に入ったときのようなツンとする痛みもありません。


「坊っちゃん、気がつきましたか?」


 その声に目を向けると、先ほどの彼が、船の櫂を漕いでいました。



「ここは……」

「ええ、そうです。ここが妖怪の世界です。どうですか?」


 ぼくは周囲をぐるりと見回して、上と下も見て、それから思った通りに答えました。


「何もないのですね」

「人の世にも山や川といった建物のない場所があるように、わたしたちの世界にもそういう場所があるのです。ここは妖怪の世界の川ですから。今、わたしたちの町へ向かっているのです」


 キーコ、キーコ、と櫂を漕ぐ音だけが響きます。

 ぼくはぼーっとその音を聞きながら上を見上げていました。水中と同じように、上の方が明るくきらきらと輝いて見えます。ちらちらと降ってくるように見えるのは、いったいなんでしょうか。

 そうしていると、首が痛くなってきたので今度は船縁から下をのぞき込んでみます。下はどこまでも深く、暗い海の底がどこまでも広がっているようでした。


「坊っちゃん、お気を付けてください。あまり下ばかり見ていると、あの世へ引き込まれますよ」

「あの世!」


 すー、と引き込まれるように見ていたぼくは驚いて大きな声をあげました。


「では、ここから落ちたら死んでしまうのですか?」

「いえいえ、すぐにあの世、ってわけじゃあないですよ。足のつく底がちゃーんとありますから、ご安心なさい。ネノ国というところですがね」

「ネノ国……」

「はい。ですが、ネノ国とあの世は隣り合っていて非常に近いところですからね、坊っちゃん。決して引き込まれないように、気をつけてくださいよ」


 ぼくは重々しくうなずきます。死にたくはありません。

 そういえば、と思いぼくは彼に尋ねます。


「あの、おじさん、ちょっといいですか?」

「その『おじさん』と呼ぶのはやめてもらえませんかね。どうにも落ち着かなくて」

「ではなんと呼べば?」

「カッパ、とそう呼んでください」


 さん付けでも構いませんよ、と彼は笑った。


「はぁ……ではぼくのことも坊っちゃんと呼ぶのはやめていただけませんか?」

「ええ、わかりました。坊っちゃんのお名前は?」

「山田太郎です」


 それがぼくの名前です。


「山田、太郎、ですか」

「良い名前、ですか?」


 大体ぼくの名前を聞いた人は、みんなちょっと困った顔をしてそう言います。


「難儀な名前ですね」

「はぁ」


 なんと返せばいいのかわかりません。自分の名前に対して、好きも嫌いもとくに思ったことはありませんが『なんぎ』と言われたこともありません。そもそも『なんぎ』の意味もわかりません。


「それで、坊っちゃん、先ほどはなにを言いかけたんです?」


 名前で呼んで、と言ったにもかかわらず、彼は、坊っちゃんとぼくを呼びました。取り立ててこだわりがあるわけでもないので、とくに指摘はしません。


「はい、ええと……なんでしたっけ? 忘れてしまいました」

「ははは、そうですか。まぁ、そういうことはよくありますね」

「そうですね。ちょこちょこあります」


 それは嘘ではなくて、本当にちょこちょこあることでした。年々増えている気がしますし、先日、母親にも注意されたことです。


「さて、坊っちゃん、見えてきましたよ。あれが妖怪横町です」


 その声に、なにを言おうとしていたのか、思い出そうとしてぼんやりとしていたぼくが顔を上げると、前方のすこし離れたところに、明かりが見えました。

 最初ぼんやりとしていたその明かりに目をこらすと、それがいくつもの小さな明かりが集まったものだということがわかります。

 近づくにつれ、キーコキーコ、と櫂を漕ぐ音に混じって、ワイワイガヤガヤという騒がしい音が聞こえてきました。

 だんだんと建物が見えてきます。

 水中に、町がありました。

 町と言っても、ぼくの住んでいるような町とは違います。それは時代劇で見たような、木で建てられた家が並ぶ、古くさい町でした。

 町の入り口には、よく神社の入り口にあるような、朱色の門みたいなものが立っています。

 そこには様々な生きモノがいました。

 見知ったところでは、犬や猫、たぬきやきつね、といった動物。

 見知らぬところでは、変なものがとにかくたくさん。ぶよぶよとした肉の塊みたいなのがいれば、毛むくじゃらの動く雑巾があり、ひらひらと宙を舞う布があったり、顔の巨大な三ツ目の犬みたいなものがいたり、消しゴムほどの小さな人がいたり。

 不可思議な生きモノがたくさんいるその様子に、自然とぼくの心が弾みました。


「さて」


 町へ近づくと、彼は一度船を止めました。


「坊っちゃん、横町に入る前に、注意しておくことがあります」

「なんですか?」


 不意に彼は、真面目な顔をして言った。


「ご自分の名前とお姿を、決して忘れないようにしてください」

「はぁ?」


 意味がわからず、きょとんと、ぼくは首を傾げます。そんなものをいったいどうやって忘れるというのでしょうか。


「ここは妖怪の世界。人の世とは理が違います。うっかりすると、坊っちゃんは死んでしまうかも知れません」

「え!」

「怖いことはない、と言っておいて申し訳ない。ですが、これはとても大事なことなのです」


 いいですか、と彼は確認します。


「坊っちゃん、あなたは非常に危うい人だ」


 難しい顔をして彼は言いました。

「いえ、もともとその歳でわれわれが見えている時点で危ういのですが、それだけではない……坊っちゃん、あなたは非常にわれわれに近い、人のようです」

「おじさんに、近い?」


 首を傾げるぼくに、ええ、そうです、と彼はうなずきます。


「山田太郎、というお名前は、よく人の世で『例』として使われる名前ですね?」

「そうかもしれません」


 たしかに、中学校に上がるときの入学志願書などの例にも、ぼくの名前は使われていました。なんとなく恥ずかしい気持ちになったのを覚えています。


「ええ、そうです。ですから人の世において、山田太郎、という名前は、坊っちゃん一人のことを指すわけではなく、代替可能な人、というものを指してしまっているわけです」

「はぁ」


 彼の話している意味がよくわからず、首を傾げます。さっきから傾げてばかりで、すこしばかり首が張ってきました。


「でも、同姓同名の人は多くいますよ?」

「そうかもしれません。ですが、カッパにまで知られている、名前となるとそうはいないですよ」

「そうなんですか」


 そうするとぼくは有名人と言ってもいいのかもしれません。


「ですから、もともと坊っちゃんはご自身の名前であるにもかかわらず、その名前がご自身を指していない、もっと大きななにかに取り込まれてしまっているのです」


 難儀なお名前です、と彼は繰り返しました。


「それは、われわれ、妖怪と近いのです」

「そうなんですか?」


 はい、と彼はうなずきます。


「わたしは、カッパです。ですが、カッパはわたしの他にもたくさんいます。それぞれは違いますが、みんなカッパなのです。そして、カッパ、という名前のもつ非常にあやふやで雑多なイメージに縛られているのです」


 自分の手足を見ながら、彼は言います。


「わたしたちはカッパです。そして、カッパという言葉が持つあやふやさゆえに、存在があやふやなのです……おわかりいただけますか?」

「……なんとなく」

「坊っちゃんもそうです。坊っちゃんには名前がある。けれどそれは坊っちゃんを指していません。それによって、坊っちゃんは輪郭がふやけやすい人になっているのです」


 ぼくは自分の体を確認しました。とくに、ふやけた様子も姿が変わった様子もなく、そのことにすこしばかりほっとします。


「まぁ名前が全てというわけでもありません。坊っちゃんの素質、とでもいいましょうか。そういったものもあるのでしょう」


 困ったような笑顔を彼は浮かべました。


「さんざん、おどかしておいてなんですが、まぁ、ふつうにしていれば問題ありません。もしも、万が一、なにかがあると困りますので、口うるさく言わせていただきました」


 よいしょ、と櫂を持ち上げて、彼は、笑います。


「危ない、と思ったら、とにかく自分の名前を思い出して、ご自身の姿を思い描いてください。そうすれば、大丈夫。あとはわたしがなんとかします」


 彼は、胸をぽんとひとつ叩きました。


「では、ややこしい説明はここまで。妖怪横町へ入ります。どうぞ、妖怪の世界をお楽しみください」


 船が町に入っていきます。

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