第十七話 凍てつく時からの「解放」
その夜――正確には早朝、ラッセルはなんとはなしに目が覚めた。まだ窓の外も明るくなりきっていないが、妙に鳥の鳴き声が耳に着く。疑問に思って窓の下から見上げると、鳥にしては大きな影が白み始めた空を横切って行った。
――見覚えがある気がするな。
そう思いながらも、鳥が静かになったのもあり、睡魔に負けてベッドに戻る。
それでも、二度寝した割にいつもより早い時間に起きた。早いとはいえ、普段から早起きな者、備え役や、朝から業務のある教師や研究所職員などは半数以上は動き始めている。
『今日でここも最後だな』
すっかり荷物もまとめて準備は終えているのに、ウイングのことばで、ラッセルはようやくそれを思い出した。
「そうだった。朝食の前にちょっと見て回ろうか」
もう二度と来られないかもしれないのだから。
彼は朝食の前に、よく訪れた場所を見て回ることにした。誰もいない教室。本はすべて返却済みの図書館。すでに誰かが鍛錬に励んでいるらしい道場は、遠巻きに眺めるだけにしておく。その際、道場の建物の向こうに見えた塔に、ちらりと人影が見えた。
「あれは一体……?」
『わたしが封じられていた塔だが、階層は違うな』
人影は塔の横から空中へと飛び上がり去っていく。人影には翼がある。〈アクセル・スレイヴァ〉の上級士官のようだ。
何事なのか誰に質問すべきなのかもわからず、とりあえず食堂に足を向ける。この時間でもそれなりの人数が集まっている場所であれば、質問をぶつけるのに適当な相手も見つかるはず――という考えだ。
だが、食堂に行く前に相手は見つかる。シヴァルド学長が目に入ると、ラッセルは珍しく自分から挨拶を交わした。
「学長、さっき塔から〈アクセル・スレイヴァ〉の士官らしいのが飛び立っていったけど、あれはなに?」
挨拶を終えると、早速本題に入る。
「ああ。今朝、きみの剣を封印していた部屋を確認した士官が魔女の封印された部屋も見ていったのだが、封印が緩んでいるように感じられると言ってな。やはり、先ほどの士官も同じことを言っていた。封印の強化が必要で、昼前には封印部隊が派遣されてくるそうだ」
それは、ルフェンダの封印のことに間違いない。
どうして、と言いかけるのをとっさにこらえる。ルフェンダが封印された魔女であること、彼女の置かれた状況を知る者などわずかな人数だ。学長にとっても〈アクセル・スレイヴァ〉にとっても、厄介な魔女を再封印する、ただそれだけに過ぎない。
「そういえば、ルフェンダを見なかった?」
どうにか、取り繕うようにそうとだけきく。
「いや……昨日から見ていないな」
そう、とだけ言い残してラッセルは走り出した。今日の今まで見回った範囲でも、彼女の姿はなかった。とりあえず食堂を覗き、中庭を見渡し、よく彼女と出会った湖畔の木々の間を走っても見当たらない。途中に出会った備え役のジョーディとロイドに尋ねても見ていないと言う。
さらに廊下を上から下まで走り息が切れ、ラッセルは中庭の木を背中に座り込む。急に働かせた脚は重く、どこかでひねったのか足首は痛んだ。
『どうする。そろそろ時間が来てしまうぞ』
ルフェンダの再封印より先に、彼の迎えが迫っていた。
『キミはどうしたいんだ? ルフェンダを見つけてどうする?』
ウイングの問いに、昨日聞いた道化師の問いが重なる。
――ラッセルの卒業まで見届けたいと聞いたときには、彼女の願いを叶えたいと思った。でも、剣のことを知られて出発を受け入れた時点でそれは叶わない。兄を見捨てることもできない。ルフェンダの再封印を見逃すこともできない。
「……どうもできないよ。僕に何ができる。結局、代用品は物語の主役にはなれないんだよ」
『そうやって〈できない〉を受け入れ続けていくから、キミの物語は始まらないのだ。すべての望みを叶えるなど誰にもできないのだから、一番望むものだけを考えるんだ』
一番の望みだけ、ということは、なにかを切り捨てることでもある。
皮肉にも、ラッセルは一番切り捨てられるものを思いついて立ち上がる。脚はまだ重いが、足首の痛みはほぼひいていた。
目指す先はあの塔。
塔の入り口には見張りがいたが、学生が手を出せるはずのないものだからか、特に咎められることもなかった。
静けさの中、妙に靴音が大きく響いて聞こえる。空気は冷ややかでどこか張りつめていた。緊張を意識しないようにしながら、少年はウイングを右手に以前も訪れた部屋の前に立つ。
「おや……来るんだね、ラッセル」
少女がことばとは裏腹に、待ち受けていたように振り返る。顔には仕方なさそうな笑みを浮かべて。
「やめておいたほうがいい……と、一応止めてあげるよ。言われなくてもわかっているだろうけどね」
少年の両手が剣の柄を握りしめるのを見つめ、そう忠告する。
「無駄と分かっているはずなのに言うんだな」
「止めないと、後でなにかあったときにわたしのせいにされちゃあ敵わないからね」
そのことばに、ラッセルは苦笑した。
「誰も責めやしないだろう。もともと、きみがいなければ僕はとっくの昔に死んでいたことだし」
封印の前まで進み出て、剣の柄を握った両手を差し出す。その柄の端から光が走る。
しかし少年の目には一瞬、水底の闇がちらつく。自分の身体が沈んでいく水中の冷たさ、暗さ。だがあのとき見上げたその目には、まばゆいばかりの光と白い少女の姿が揺らめいていた。
――ラッセルが最も簡単に切り捨てられるのは自分の命の安全だった。あの海中で死ななかったことを、この瞬間に一番感謝しながら。
「はぁっ!」
多少は剣術の鍛錬が身になっているのか、以前よりも堂に入ったかまえから、刃を振り下ろす。
音もなく。
なんの手応えも伝わることもないが、一筋の線が少女を内包する封印を一刀両断していた。
「どう……」
言いかけて、ラッセルはのしかかる重さに気づき、慌てて力の解放を止める。束の間、呼吸するのを忘れていたのに気づき、堰を切ったように肩で息をする。
ルフェンダは自分の本体を凝視し――数歩近づくと、恐る恐る、といった様子で手を伸ばす。まるで見知らぬ子どもをあやすかのように。
指先が触れた――そう見えた途端、少女は光となって本体に飲み込まれる。
『やったか?』
「ルフェン……ダ……?」
もし、失敗していたら。本体ごとルフェンダを失うかもしれない。傷つけてはいないはず――と、ラッセルは思うが、例えば、なにかの状況の変化で封印が彼女の存在を支える一因になっていたとか、あるいは封印には罠が仕掛けられており力づくで封印を解こうとすると滅ぶようになっていたとか。
短い時間ではあるが、色々な悪い可能性が少年の脳裏に浮かんでは消えていく。
実際には数条秒だろうか。その程度の間をあけて、少女は目を開けた。
目覚めたときには人格が変わっているかも、あるいは仮の姿で過ごした間の記憶は残っていないかも――そんな、とりとめのない不安もよぎるが、すぐに少女の顔に浮かんだほほ笑みは見慣れたもの。ほほに朱がさすと、一気に存在の現実感が増す。
「久々過ぎる……この感触」
よろめきながら前に出る。白銀の髪の少女は見慣れた〈ルフェンダ〉よりは少し大人っぽく見えるが、口から洩れた声はいつもの彼女そのままのものだ。足取り同様、舌の回りも少し頼りないが。
「長い間で慣れきっていて、そういうものだ、とすっかり忘れていたけれど……こうして戻ると思い出すね。やっぱり、今までのつくり物の身体の感覚はふわふわしていて、五感も曖昧だったってことが」
それでも、完全に身体を動かす感覚を忘れないための役には立っていたらしい。ラッセルの前まで歩いてきたときには、かなり少女の足取りはしっかりしていた。
軽く屈伸して、くるりと一回転。
「よし。さあ、望みを言うんだ少年。もうなにも怖いものなんてない。こうして封印を解いてくれた褒美に、ひとつだけ望みを叶えてやろう!」
胸を反らし偉大な魔女ぶってから、
「あ、でもちょっと待って。身体の感覚よりこっちの方が大事だし」
と、急に早口言葉を言い始める。
本体を取り戻して最初にすることが早口言葉か、とラッセルはおかしくなった。
「ま、確かに魔法のためには必要だけどね……」
「そうだ。きみは大丈夫なのか、その剣を使って」
一通り早口言葉を終えたところで、思い出したように言う。
「短い時間なら大したことないらしいね。どちらかというと、走り回ったせいで脚が痛い」
生命力を吸われた消耗は、まだ自覚がないだけかもしれないが。
「でも、歩くことくらいはできる。空は飛べないんだろう? どうやってここを出る?」
「それは簡単さ。幻術で姿と気配を消して普通に歩いていけばいい。でも、どこまで行くんだい?」
兄の捕らわれている場所まで――の前に、寄るところがあった。
「まずは僕の部屋で荷物を回収して、どこかで腹ごしらえがしたいな。エレオーシュの街だと見つかってしまうだろうか」
「幻術で変装しておけば平気じゃないかな」
聞いてラッセルは安堵する。
『言っておくが、この研究所には伝説級の魔術師が何人もいるからな。学長や道化師は幻術を見破るかもしれない。あまり時間はかけられないぞ』
ウイングの忠告で、急に焦りを覚える。
ラッセルの迎えが来る時間までわずかしかない。ルフェンダはまず、少しは時間稼ぎになるかもしれないと解かれた封印に幻術をかけ、次に自身とラッセルに幻術をかけ、二人で急いでラッセルの部屋へ歩き出した。
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