第十三話 正当品の「欠落」
緩やかな雨が金属板の屋根を叩く、心地良いとさえ思える音が曖昧に覚醒した意識に滑り込んでくる。
急激に現実感が戻り――少年は目を開いた。木造の、屋根の梁が十字に組み合わされているのが見える。
「ラッセル……?」
寝ているならそれを妨げないようにという風に、少女の小さくひそめた声が恐る恐るかけられた。覗き込むのは、もうだいぶ見慣れた、栗色の髪に水色の目。
ラッセルはベッドから身を起こし、手を上げ自分の顔に触れる。手も腕も肩も、どこか筋を傷めているようなこともなく違和感なく動いた。頭も顔も特におかしな感触はない。怪我はあったとしても、すでに魔法で治療されたのだろう。
脳裏に途切れ途切れで逆順で浮かび上がる、意識を失う前に目にした光景。
「イグニスは?」
まず、脇のサイドテーブルに置かれた美しい剣の柄を確認してから、当時すぐ近くにいた黒衣の姿を思い出す。
「ああ、無事だよ。健康体とは言えないけど……あれは生まれ持ったものらしい。だから、もういつも通りだ」
ふと、しばらく前に聞いたことばの記憶が甦る。『イグニスは宮廷魔術師の内定を取り消された』――それは、ウィーバのことば。あれはもしかしたら、病気が原因だったのかもしれない。
「もう、ってどれくらい時間が経ってるんだ?」
「あれから二日ほどだよ。順を追って説明しよう」
ラッセルが意識を失ったのが、一昨日のこと。その直後、駆けつけたルフェンダや魔法研究所の備え役たちにより夢魔は消し飛ばされ、怪我人たちは治療された。盗賊は死亡したが、盗賊に斬りつけられ倒れていた男性は治療魔法によりどうにか命を取り留めたという。
一方、孤児院の少年リッキーも川べりの土手を滑り落ち足を痛めたが、それも魔法で治療されるとほぼ無傷の状態で、孤児院に送り届けられていった。
ロイン、ジョーディ、道化師の三人はその後、森の中の盗賊たちの住処を探し五人の盗賊を捕らえた。彼らはやはり〈黒龍の牙〉の構成員であり、そこを拠点にして計画を練っていたという。目標はエレオーシュ魔法研究所だ。
「なに……財宝のため?」
研究所の敷地内には、まだまだ魔法の道具やかつて住んでいた貴族が残した財産が開かずの扉の奥に隠されているという噂はあった。実際、封印された塔や隠し扉から続く地下室などは存在する。そして盗賊たちは一度、盗みに入ろうと
「懲りずにまた盗みに入ろうとしたのかもね。でも、目的は資料からはわからなかったらしい。尋問が始まれば時間の問題だと思うけどね」
体力回復効果があるというハーブティーをカップに注ぎながら、ルフェンダはドアの向こうに目を向けた。盗賊たちはすぐにエレオーシュの警備隊に引き渡され、そこで厳しい尋問を受けることになるだろう。
ハーブティーを飲むと、ラッセルは胃にものが入る感覚を思い出したように、しばらく忘れていた空腹感を覚えた。なぜかむしょうに魔法研究所の食堂の特製スクランブルエッグが食べたくて仕方がない。
「キミが大丈夫そうなら、昼食を食べて出発になるだろうね」
どうやら、盗賊に斬りつけられ倒れていたのをイグニスとラッセルが見つけ、後に道化師により治療され命を取り留めた男は、この村唯一の食堂兼宿屋の主人だったらしい。ここ二日、宿の主人の妻が毎食食事を届けてくれているという。
それがいつも美味しいんだ、というルフェンダのことばに期待を寄せつつ、ラッセルは美しい剣の柄を懐にしまい、立ち上がってドアをくぐった。
すでにテーブルに料理が並べられている途中で、それを見慣れた顔が囲んでいる。
「おー、思ったより元気そうじゃねえか」
「大丈夫か? 無理するなよ」
「とりあえず、おいしいご飯食べて元気出そうぜ」
少年の姿を目にした皆が口々に反応する。しばらく前ならただうるさいだけにしか思えなかったそれが、今は心地良いものに聞こえた。
同行者たちの反応のあとに、料理の乗った皿を用意していた女性が頭を下げる。彼女が宿屋の女将らしい。
手作りらしき料理は今も湯気を立て、食欲をそそる匂いを漂わせていた。もちろん、匂いだけでなく見た目にも惹かれる。つややかなたれをかけた肉団子、薄いクレープ生地にたっぷりの野菜と味付け豆を磨り潰したソースをからめた具を包んだ〈メルニカ〉という郷土料理に、やや小ぶりな川魚のムニエル、小エビのフライ、自家製チーズとカナカル果のカプレーゼ、焼き立ての握りこぶし大の円形パンと自家製ジャム、研究所の食堂のものより柔らかそなスクランブルエッグ、おそらくこの村では貴重であろう、鶏肉の燻製。
どれも早く口に入れてみたくて、ラッセルは適当な挨拶を返して空いている椅子に座った。ルフェンダもそれに続く。
「いただきます!」
セタンやルフェンダらの食前の挨拶につられて同じようにそれを口にしてしまうのにも、すでに慣れつつある。
一行はじっくりと昼食に舌鼓を打った。ただ居合わせただけなのに幸運だ、とラージェスは料理を褒めちぎった。どれも美味しく、内心ラッセルは彼の少し大げさにも思えることばに同意する。肉団子も柔らかく味はくど過ぎず、パンはジャムをつけても鶏肉の燻製を挟んでもよく合い香ばしい。野菜はどれも新鮮で、チーズは濃厚でさっぱりしたカナカル果とのハーモニーは高価な料理として出しても良さそうだ。ムニエルも、かつて外食した数少ない記憶の店のものより高級料理に思える。スクランブルエッグは別の種類の卵らしく研究所の食堂の味とは違ったが、これはこれでとろけるように柔らかく旨味が効いている。
料理だけでなく、飲み物もいくつか用意された。コーヒーにハーブティー、果物のジュースが二種類。セタンや女性陣がジュース一種類を半分入れて飲み切ってはもう一種類をお代わりする、とやっているのを少し羨ましく思いつつ、ラッセルはコーヒーを受け取っていた。なので、
「良かったら、ジュースは水筒でお持ちになってください。家にはまだ沢山ありますし、なくなってもまた仕込めばいいので」
女将がそう笑顔を見せたとき、少年はひそかに深く感謝した。
「ジュースもいいが、ラッセルはこれも持ってけよ」
まるで心を読んだように、ロインが脇に置いてあった細長い包みを突き出す。
それは、夢魔との戦いのさなかに投げ捨てた模造刀だ。刀身にはところどころ傷がつき、一部は革で巻かれ補強されていた。
――夢魔には役に立たないが、一応剣を振るう練習にはなったかな。
とはいえ、ほとんど〈生命の剣〉を振るっていたときの記憶はなく、剣術の型に則っていたのかも怪しい。
「ま……あんな化け物もそうそう出ないだろうし、獣くらいは追い払えそうだからね」
まるで言い訳のようなことばに、誰からとなく苦笑が洩れたのだった。
またあの長い道のりを行くのか、と思い込んでいたラッセルは目を見張った。
村を出てほんの少し歩いたところ。目に入ったのは、縄で硬く拘束されまとめられた盗賊たちに、その脇の広い地面に描き出された魔法陣。
「まさか……」
「この盗賊たちを連れて歩くのは苦労するだろう」
確かに言われてみればその通りだと納得しつつも、道化師が呪文を唱え小型の飛竜を召喚するのを見上げると、初めてではなくてもつい圧倒されてしまう。それ以上に、吊るされると理解した盗賊たちは驚き青ざめるが。
「二度目とはいえ、またエレオーシュがうるさくなりそうだ」
「気になるなら、『我々は敵ではありません。魔法研究所の者です』という紙でも吊るしておけばいいだろう」
「それは、遠慮しておく」
冗談を言っていると思えない顔で言う道化師にそう返して、ロインは苦笑しながら盗賊たちの縄を竜の脚に縛り付け始めた。
騒がしさの中エレオーシュ近郊に降り立ち、待ち受けるように待機していた警備隊に盗賊を渡したその直後。
すぐにある報せがラッセルの耳に入る。
ニットン・ジェルフが盗賊団〈黒龍の牙〉に誘拐された――と。
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