第八話 仮面の下に眠る「牙」
「呪術の魔法具の中でも、仮面は直接人に作用するもののひとつです。直接対象魔法に近いものですね。なにかを塗り変えたり、隠す魔法で使われることが多く、主に術者自身に使われますね」
下に隈のできた目を眼鏡の奥で爛々と輝かせながら、『呪術の歴史』の授業を受け持つリョーダ・リアス教授はささやきに近い静かな声で説明した。否が応にも集中する学生たちの前で、彼はにやりと口の端をつり上げる。
「そう、真の姿を隠すのにもってこいなのです」
その指が顎のあたりをつまむと、べろりと皮のようなものがわずかにはがれた。不気味な光景に息を飲む一同の前で、はぎ取られた皮が一枚の薄い仮面となってその右手に掲げられ、顔には――その怪談じみた授業より怖いと定評のある、不気味な笑みがそのまま変わらず広がっている。
「まあ、誰でも見えない仮面の一枚や二枚、被っているものですけどね。それは人前では必要なものなのかもしれません。そう自覚している方は、仮面舞踏会でも羽目を外し過ぎないように」
白衣の教授は忠告しながら、なぜか事件を期待するかのようにくふふ、と小さく笑い、白衣の裾をひるがえした。
ネタンからの客人を迎えるにあたり、祝日に各地で行われる仮面舞踏会を大広間で開催することになっているのは数日前から学生たちにも知らされていた。参加は任意でありラッセルは当初不参加のつもりだったが、
「ほら、おまえの分も申し込んでおいたからな!」
舞踏会の前日の夕食時、セタンがそう言って
思わず受け取ってから、ラッセルは顔をしかめた。
「こんなものに出てなんの得があるんだ」
「おいしいご馳走食べ放題なんだぞ。貴族の人たちもシェフを連れてきて高級料理を振舞ってくれるとか。普段は食べられないようなものが食えるんじゃないかな」
ご馳走には惹かれるものを覚えたラッセルは、断るつもりだったことばを失う。
「それに、貴族のお嬢さんが衣装をたくさん持ってきて女子にドレスを貸してくれるんだってさ。普段は見られないものが見られるかもな」
そう言って少年が視線を向ける先では、彼の義姉が食器を運んでいるところだった。
しかし、ラッセルの視線はそこで止まらず、盆を手にカウンターの前に立つ栗色の髪の少女の姿を捉える。
「ま、ちらっと覗くくらいなら悪くないかな」
ラッセルはまるで自分に対する言い訳のようなことをつぶやいて、納得することにした。
大広間は飾り付けられ、いくつものテーブルに料理や飲み物が所狭しと並べられていた。魔法研究所への支援を行っている貴族や富豪、職員の関係者で位の高い者が首都ネタンから訪れ、その歓迎会を兼ねた仮面舞踏会が夕方から始まっていた。
ラッセルは一人、できるだけ目立たないようにしながら少し遅れて会場に入った。仮面を着け、服は初めてここへ来たときに持参した中から一番上質なものを選んで着ている。おそらく貴族の中に入っても
――へえ、服一枚で変わるものだ。
いつもはほぼローブ姿しか見ていないのだから、当然と言えば当然だった。しかし、華やかで色とりどりなドレスを身にまとい、髪を結い上げ簡単なアクセサリーを飾った少女たちは、まるで普段と比べると異世界の住人のようである。
そんな中、いつもと変わらない姿もあった。
「ドレスを着るんじゃなかったのか?」
長い前髪で片目を隠し、動きやすい道着のような服の少女。いつもと違うのは目の周囲を覆う白い仮面のみ。
「せっかく、大きさの合う綺麗なドレスを貸してくれるって言ってたのによ。ほんと、姉貴もちょっとは他の女子みたいにお洒落に興味を持てばいいのに」
後ろから、こちらも黒い仮面をつけただけのセタンがぼやく。
「ヒラヒラしたのは動きにくいので苦手だ」
イトリは無関心な様子で言い、片手に持った皿に集中している。皿の上には、種類の違う小さなケーキが五つ以上は載っていた。
いつもの夕食時間は過ぎている。ラッセルも思い出したように積まれた皿を一枚取り、料理を巡ることにする。楽器演奏による音楽が流れ、開けた中心部では男女が何組も踊っているが、そちらには見向きもしない。
「ふうん。高級料理が恋しくなったか、坊ちゃん」
最初に目についた料理を取り分けたところで、聞き覚えのある声。目をやると、ウィーバとハイドラの青と緑の仮面の奥の挑戦的な目と視線が合う。
「だったらなんだ」
どうせここでは暴れられないだろうと、ラッセルは適当に流すことにした。
「お前にはわからないだろうな。毎日の食い物に困る生活なんか」
――なんでそんなことを?
この二人には何かしら突っかかってくる理由があるらしい、と一瞬思うものの、それほど興味も向かない。どんな生活環境に生まれるのかは誰も選べないからだ。
「わかるわけないだろ。僕は日々の食事に困ったこともない、寝床や着るものに不自由したこともない。そんな家に生まれたんだ」
言いながら、皿に取った山菜のハム巻きをひとつ摘まむ。
開き直ったようなことばに一瞬気勢を削がれたようだが、二人はすぐにさらに目を細め、ウィーバが続ける。
「なんでお前なんかが恵まれていて、魔力もあって頑張ってる連中が報われないんだ」
「誰の話?」
と訊いてはみたものの、それも大した興味を引かれたわけではない。そろそろ離れようとすぐにまたことばを続けようとしたとき。
「世間への恨みをラッセルにぶつけても仕方がないだろう。キミたちみんな同じ、世間に対して無力なヒヨッコだよ」
ふわり、と今までと違うそよ風が吹いた。
ドレスの左右を寄せるようにして上手く狭い隙間を通り抜けてきたルフェンダは、大きな草色のリボンで髪を頭上にまとめ、リボンと同じ色のドレスを身にまとっていた。ドレスは襟元が広く細い肩がのぞき、胸には木の実をあしらったような赤い宝石が輝いている。長い袖や幾重にも布を重ねたようなスカートの裾は女性のたおやかさを表わすように柔らかく広がっていた。
古い記憶の中の彼女からは温もりよりも冷たく暗い印象を受けるラッセルだが、目の前に立つ彼女は今まで見たことのないほど明るく瑞々しい。
ハイドラとウィーバもぽかんと口を開けたまま、ほほ笑みを浮かべてドレスを両手に摘まみ挨拶をする少女を凝視する。ルフェンダがラッセルの袖を引いて離れても、その格好のまま見送るのみ。
「この不完全な代用品の身体でも、いいことがあるものだね。元の身体は、似合う服が少なくってさ」
「
目の前の少女からやっと顔を逸らして、ラッセルはつぶやく。それを聞いた少女は眉をしかめた。
「キミは本当に素直じゃないねえ。褒めことばのひとつも出ないのかい?」
綺麗だ、とは思っていた。しかしそれを口に出したとして、周囲の人間が聞いていないとも限らない――ラッセルは素直な感想をここで言うのははばかられた。
「まぁ……後でな」
人前でないところで感想を言おうという意味なのだが、これはこれで、周囲で耳をそばだてていたらしい学生たちがびくっと驚いたように肩を震わせる。
その意味を認識する前に、白い突風が吹きつけてきた。
「美しいお嬢さん、ボクと一曲踊ってくれませんか?」
普段よりさらに高価に見える服をまとい、金色の豪奢な装飾付きの仮面を着けた貴族出身の魔術師、シェプル・ドワール。差し出された手に、少女もやはりまんざらでもないほほ笑みを口もとに浮かべている。
「どうしようかな。ほら、ラッセルはここは止めるところだよ?」
「なぜ?」
と言うと、ルフェンダにジロリと睨まれ、思わず立ちすくむ。その少年の存在に、シェプルは初めて気づいたようだった。
「むう……その服、ネタンでも長年愛されている名ブランドのもの。さすがは聞きしに及ぶジェルフ家の者だ」
「ジェルフ家を知ってるのか?」
「ネタンの家からの手紙で知るくらいだけどね。最近は〈黒龍の牙〉とかいう盗賊に狙われているとかで、我がドワール家の者も警護に駆り出されているからね。多少の付き合いはあるさ」
ラッセルは知らない情報だった。ジェルフ家の近況など新聞でしか届かない。
「相手に不足なし。どちらがこのレディの心を射止めるか勝負しようじゃないか!」
「勝負って……」
たじろぐうちにシェプルは膝をつき、まるで姫に結婚を申し込む王子のように手を差し出している。
――付き合いきれん。
勝負、と聞いて一瞬迷ったものの、ラッセルには到底真似できないことだ。周囲の視線を感じながら、少年は一歩後ずさる。
「あいにく、踊るのは苦手でね。それに誰と踊るかはルフェンダが決めることだろう」
僕は踊るよりこっちの方がいい、と続けながらテーブルの上の皿から鳥の燻製入りのサラダを取り分ける。
「子どもめ……」
しばらく固まっていたルフェンダが洩らしたつぶやきを、ラッセルは聞こえなかったふりをして流した。
仮面舞踏会は夜遅くまで続いていく。ラッセルは早めに切り上げたが、それでも窓の外は完全に闇夜に染められていた。
『たまにはああいう人混みに入るのもいいものだ。多種多様な情報が手に入るからな』
周囲に人の気配のない通路で、少年の上着の裏に収まっているウイングが言う。この魔剣は相当耳がいいらしい。
「噂話なんて大半嘘だろ」
『わかっている。中には興味深い話もあったが。どこかの備え役から洩れてきた話らしいが、どうやら、あの封魔迷宮を呼び起こした盗賊はキミの家と縁があるらしいぞ。その盗賊団の名は〈黒龍の牙〉らしい』
その名を聞いて思わず足を止める。
――それは偶然? それとも、なにか意味があるのか?
『大きな盗賊団ならそういうこともあるかもしれないがな。まあ、近いうちに詳しいこともわかるだろう』
今は新しい情報を待つしかないと知りながら、ラッセルは不気味さを感じざるを得なかった。
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