第五話 深き山の「魔封迷宮」 後編

 赤黒い空間を眺めながら、ラッセル・ジェルフは本の中で見た一文を思い出していた。

 魔封迷宮――強力な魔術師が作り出す亜空間の迷宮。財宝を隠すため、あるいは古代の怪物を封印するため、あるいは秘密の通路として使うため。用途は様々だが、迷い込んだ者には大抵ろくでもない結末が訪れるという。

 だが、危機感はさほど感じない。それは、前を行く組が一組も帰ってきていないことを思い出したからだ。

 ――これは、先生方が作り出した帰還用の道なのでは?

 そう考えれば説明がつく。ただ、それならなぜ同行した三人の姿はないのか、というのが不安材料だ。

 この真四角の部屋には誰もいないと確認し、通路に出る。いくつもある真四角の部屋を通路がつなぐ、というのがこの迷宮の基本構造のようだ。壁は古いレンガで、ぼんやりと赤く光る霧が周囲に満ちていて床は見えない。

 通路の出口が見えてきたとき、踏み出したつま先に何かが当たる。

「なんだ……?」

 思わず後ろに跳んで声をかけると、小さな呻き声が耳に届く。聞き覚えのある声。

「きみは……ミッシェか?」

 屈みこんで手を伸ばすと、確かに人の感触があった。どうにか手探りで身を起させ、壁を背に座らせる。見たところ怪我はなさそうだったが、ぐったりとして力がない。

「大丈夫か? ほかのみんなは?」

「奥に……怪物が」

 肩で息をしながら指先を奥に向ける。

「そこにみんなが?」

 あの怪物が皆とともにいて、ミッシェはそこから逃げてきた――と、ラッセルは理解する。

 どうすべきか、少しの間迷う。わざわざ危険な場所に向かうのか。しかし、このまま二人が帰って来なかったら?

 ――行こう。

 決心はすぐについた。動機はほとんど好奇心だ。自分の命など最初から、どうにかなるときにはどうなってもかまわない。

「ここにいろ」

 言い残して、赤い霧の中を行く。

 歩き出して間もなくだった。漂う霧が一瞬だけ視界を埋め、わずかに目眩を感じた途端、急に視界が開ける。

 通路を出たのか、という考えはすぐに消える。円形の部屋の周囲の壁は明らかに今までと材質が違うし、並ぶ窓から空が見えた。何より、ドアもないのに霧が影も形もなくなったのだ。

 振り返ると、壁に赤い光が長方形に口を開けている。

 ――迷宮を出たのか?

『盗賊には見えないな。少年、なにをしにここに来た?』

 自問していたはずが頭に直接響くような声に遮られ、ラッセルは目を見開いた。見渡す部屋にあるのは、降りそそぐ天窓からの光に照らされた一振りの剣。数々の神話伝承にある名剣のまま、中央の床に突き立っている。ただ、その刀身は水晶か何かでできているかのように透けている。

「剣が喋っている……のか?」

 インテリジェンス・ソードと呼ばれる知性を持つ剣についても、数々の書物に記載されている。精霊や古い魔術師、時には魔族の精神が封じられている魔法の道具がまれに発見されるという。

『そうだ。我は生命の剣グレイヴループ。この塔に封じられて久しい。彼の魔女のように。ここを出る日はまだまだ先になりそうだ』

 老人というほどではないが、年季を感じさせる声。

 引き寄せられるように、ラッセルは剣に足を踏み出していた。白い翼のような装飾の柄に、中央部が膨らんだ筒状の握り、青緑の宝玉が埋め込まれた柄。それが自然な流れのように少年を誘う。

『なぜ、結界が……』

 驚きの声で我に返ると、足もとに魔法陣を踏みつけていることに気がつく。剣を中心にして描かれた魔法陣はおそらく、侵入者を防ぐもの。

 かまわず、ラッセルは手を伸ばす。

 ――早く戻らなければ。

 頭の中の半分はそれで占められている。戻ったところでなんの役にも立たないかもしれないが、この剣を手にすることで多少は変わるのかもしれない。わずかな可能性でもあるならそれを手に入れたかった。

『少年。わたしを手にすることで、力ばかりではなく悲劇を生むことになる可能性もあるぞ? 真っ当に生きる者が手にする剣ではない』

 早くここを出たいと言いながら、生命の剣はそんな忠告をする。

 ラッセルは小さく苦笑した。

「なら、おあつらえ向きだろ。僕は自分の意志で生きてるとは言えないからな」

 剣の柄を握る。硬い革のような感触で、それほど冷たさは感じない。

『やはり、キミはこの剣を抜けるのか』

 冷たさだけでなく、重さもなかった。刃に見えた透明なそれは台座で、生命の剣は柄だけの存在らしい。

『この剣は魔力を刃に変える。キミの微弱な魔力では短い間だろうな』

 再び、ラッセルの口もとには苦笑がこぼれる。分け与えられた魔力はいつまで持つかもわからない。

「活躍の機会があればいいね」

 誰が開けたかもわからない迷宮への入り口に引き返す。赤い光に飛び込むと、確かに霧に満ちた通路に出る。隙間から見える壁も天井も赤レンガ。

『盗賊の魔術師が作り出した空間道がここに通じたらしいな。すぐそこの部屋に古い魔物らしい魔力。近くにいるのはキミの仲間か?』

「多分」

 計ったように、獣のような唸り声が響いてきた。

 ラッセルは剣をローブの袖口に隠すようにしながら、弾かれたように駆け出した。通路の出口が一気に近づく。

 そこに、ゆらりと何かが揺れる。振り返る人の影。近づくとはっきりしてくるシルエットの詳細は、長い髪に驚いたような、あきれたような――どこか悲しげにも見えるほほ笑みを浮かべる少女。

「ルフェンダ、なんで」

 ――巻き込まれたのは僕らの組だけじゃないのか?

「その剣、キミには抜けたんだね。古城の塔のひとつに封じられていた、生命の剣」

「知っているのか?」

「そりゃそうだよ。だってわたしも」

 ことばは、悲鳴に遮られた。

 黒い鱗に覆われた長い尾が振り上げられ、部屋の端に追いやられた赤毛の少年が口をあんぐりと開けていた。反射的にラッセルは走り、ルフェンダは魔法を放つ。

「〈ソルジオルク〉!」

 見えない何かが尾を弾く。ウィーバの腕をつかみながらその視線を追い、ラッセルは少し驚く。ギロリと背後の少年たちを睨みつけているのは黒い小型竜だ。小型といえど大人数人分の全長はあり、鋭い目は普通なら視線を合わせただけで立ちすくむだろう。命などどうでもよいと考えるラッセルでなければ動きを止めてしまったかもしれない。

「しっかりしろ!」

 声をかけ、引きずるように腕をつかむ両手に力を込める。ウィーバはなんとかよろよろと歩き出そうとするがそれでも遅い。

 そのとき、何者かが竜の前方から攻撃を仕掛けたらしく、大きな金色の目が少年たちから外れた。前方にいるのはイグニスか。

 これが危機を脱出するまたとない好機なのは、ウィーバも理解しているのだろう。足をもつれさせながら、急いでルフェンダの待つ通路に辿り着く。

「大丈夫だよ。すでに先生方に連絡が行っているから。すぐに救援が来る」

 少女は平静そのものだった。その様子にウィーバは安心しかけるが、すぐに怪訝そうな顔をする。

「どうしてそんなことが言えるんだ?」

 確かに、とラッセルは思う。連絡を取ることができる手段が存在するというのか?

 すると、ルフェンダは軽く杖を持ち上げて見せた。

「それができるんだよ。この杖の数少ない能力」

 花を模したような杖の先から小さな白い光球が現われたかと思うと、それが輪郭を広げる。何度も見た、白いフクロウ。

「魔法生物の伝令は、魔力の痕跡を辿り亜空間の隙間も通り抜けられる」

「……なるほど」

 ――では、あとはただ待っていればいいのか。

 問題は、竜をどれだけ足止めし続けられるかである。落ち着いて部屋の内部を観察すると竜の向こう側にも通路への出入り口があり、そこにイグニスと、セタンらもいる様子だった。通路に出入りしながら竜が吐き出す炎を避けたり防いだりしているらしい。

 部屋は竜が暴れるには狭く、その蝙蝠こうもりに似た翼で飛び回ることもかなわない。動きが鈍い相手をどうにか食い止めている状況だ。一方、部屋が狭いせいで魔法にも制限ができてもいるが。

 だが、少しずつ竜は焦れてくる。長年の眠りから覚めて見つけた獲物をなかなか仕留められない状況から、なりふりかまわず尾を壁に叩き付け、自らも熱風にさらされるのもかまわず炎を吐きつける。

 近くの壁が殴りつけられ、大きな振動が壁と天井をきしませる。レンガのかけらが舞い散る中、三人は通路の奥に避難した。

「持つのか、これで?」

「もうそろそろ救援が来るはずだけど……」

 その目が、ラッセルの袖口を捉える。少年の右手が何かをつかみそうに動くのを目ざとく発見したらしい。

「その剣は使わない方がいい。本当に、ほかに手段がなくなるまでは」

 ――一体、彼女は何を知っているのだろう。

 あれほど話したがっているように見えた生命の剣は今は黙り込んでいる。後で本人に色々聞いてみることにして、ラッセルが戦況を見ようと、通路の出口に身をのり出したとき。

 ガシャン。

 何かが割れるような音。どこかからの風に流されるように、漂う霧が動きを急激に変える。

「来たみたいだね」

 ルフェンダの声を合図にしたように、迷宮の中の風景はぼやけていった。

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