第三話 魔法研究所の「日常」
すでにきつくなった西日が木板のブラインド越しに差し込む教室で、ラッセルは黒い石台を凝視していた。持ち込まれた石台は一抱えほどの小さく薄いもので、中央が少し凹んでいる。
意識を集中し、しっかり覚え込んだ呪文を唱える。
「〈マピュラ〉!」
火を表わす魔法語は、しかしむなしく響いただけだ。授業中何度も見たような、石台の上に揺らめく光は現われない。
「やっぱり駄目か。魔力の問題なのかしら」
そう言って眉をひそめるのは、炎のような赤毛にきつめの目の、アキュリア・テルミという教授だ。このエレオーシュ魔法研究所では、対象魔法実技の授業を受け持つ女魔術師である。
「いくらやっても、無能は無能、だよ」
ラッセルはあきらめの調子で言う。
室内に人の姿は三名だけだ。彼と教授と、もう一人残された『無能』の少女。
「テルミ先生。あれをやってみたら? そうすれば、魔力だけの問題かどうかわかるでしょう」
「そうね。技術だけでも確認できるわね」
言うなりテルミ教授は呪文を唱え始め、
「〈ヴァルト・イグマ〉」
立てた右手でとなりに立つ少年の肩を叩く。触れられた方は、何かあたたかいものが流れ込んできたような慣れない感覚に少し驚く。
「もう一度やってみて」
無駄ではないか。一体、今のは何なのか――などと問うようなことはせず、ラッセルは言われたとおり、再び精神を研ぎ澄まして魔法語を口にした。
「〈マピュラ〉!」
言うなり、信じられないことに、彼は肌にほのかな熱を感じた。
黒い石台の上で光球が輝いている。授業中に見たものと同じように、あるいはもっと美しく整っているようにすら見える。事業中の同級生と同じようには、自由に動かせはしなかったが。
「今あなたに使ったのは、一時的に魔力を分け与える魔法よ。で、これで魔法が使えるということは技術はできているみたいね」
教授のことばを、ラッセルは話半分に聞いていた。少し気を抜くと、光球はふっと消えてしまう。それでも初めて魔法を使った余韻にひたりながら、分け与えられたという魔力が消える前に他にも魔法を使ってみたいと思考を巡らせるものの、そもそもまだひとつしか魔法を知らないのだった。
「あとは、どうにか魔力を向上させる方法を探すことね。目標はルフェンダと同じだわ」
ラッセル・ジェルフがこの研究所に来て三日――
魔法に触れるにつれ、
「瞑想くらいならできるんじゃないの。あとは、こういうのを探すとか」
補習を終えた廊下で、ルフェンダがちらりと袖口から短めの綺麗な杖を見せる。それは魔法の道具のひとつで、杖自体の魔力でいくつかの魔法を使えるらしかった。
「そんなの、滅多に手に入るものじゃないんだろ」
「簡単な魔法が封じられたものなら結構流通してるよ? 高いけど、キミなら買えるんじゃないの?」
「まさか」
足早に歩きながら、ラッセルは肩をすくめた。
「僕にそんな自由なんてないよ」
欲しい本や道具程度なら、セバスチャンに言えば不自由なく手に入った。しかし、魔法の道具ほど高価なものともなればそうもいかない。彼の父が彼に掛けたがる金はあくまで必要最低限で、彼個人の財産は誕生日に送られてくるいくらかの金を貯金しているものだけだ。
「きみこそ、そんなものどこで手に入れた?」
「ここの塔の開放のとき、抽選で当てたの」
古城の周囲には封印された塔や正体不明の地下施設などがいくつもある。学長は塔や関連施設の発掘調査を進めていて、時折、回収されたものが売りに出されたり関係者に配られたりすることもあるという。
「強運だな」
夕食にはまだ少し早い。庭に出て目を細めながら、ルフェンダが無能と言われるのは杖への嫉妬もあるのかもしれない、と脳裏をよぎる。
そのとき。
「美しいお嬢さん、長い授業に疲れただろう? どうだい、これから二人だけで身も心も癒されるくつろぎの時間を過ごさないかい?」
廊下から庭を出てすぐ横手に、目立つ姿が壁にもたれかかるように休んでいた。そのうちの一方が金髪をなびかせて素早く近づいてくる。高価そうな白い服の胸元には、赤い薔薇。その風体のためか、到底常人には真似できないような歯の浮く台詞も妙に似合っているように思えてしまう。
初見では
エルトリアにはさまざまな人型種族がいる。エミール族といったような獣人、岩の肌を持つクル族、人里離れたところに住む妖精、すでにほぼ絶滅したと言われる魔族など。ラッセルも研究所に来る前すでに、クル族の旅人を見かけた記憶があった。
「くつろぎだか苦痛過ぎだか知らないが、まだ仕事中だっつーの」
金色の目のトカゲ族は歩み寄ると、背負った長斧の柄で相方の後頭部を小突く。
「いたっ、何するのさ、ジョーディ! もう少しでボクと彼女の物語が始まりそうだったのに」
彼に手を握られたルフェンダは確かにまんざらでもなさそうな、この状況を楽しんでるような笑みを顔に浮かべている。が、シュレール族はそんなことはかまわない。
「一体何人の女子と物語ろうとしてんだ、お前さんは。その前にまず、備え役の仕事という物語を完結させてからやってほしいもんだ」
ズルズルと襟首を掴んで引きずっていく。貴公子風の青年はまだ名残惜しそうに声を上げるが、人間の数倍という持つシュレール族の腕力にはかなわないらしかった。
それを見送りながら、ルフェンダは笑う。
「相変わらずシェプルさんは節操がないな」
「本当だな」
ラッセルがすかさず同意すると、少女は彼の足を踏みつける。
釈然としない気分で去りゆく備え役の巡回たちを見送っていると、思い出したようにシュレール族の戦士が緑の顔を向けた。
「そういや、お前ら。魔法使うためだからってあまり無理とかすんなよ? 結果使えないままで終わったら、別の道を探せばだけだからよ。ロインに剣でも習うなり、誰かに魔法以外の専門分野でも教わればいい。ここならより取り見取りだからな」
そのことばの意味を、ラッセルはこの三日間だけでも充分に思い知らされていた。未だにハイドラのように彼に陰口を叩く連中もいるにはいるものの、大半の人々は編入生に興味を失い完全に日常の流れに戻っている。ただの編入生など、この研究所の人々の中ではではさほど珍しい存在ではなかった。
よく顔を見る備え役の、ジョーディとシェプルに続くもう一人もその一角である。
軽い散歩と夕食を終えてルフェンダと別れたあと、今日もすぐにその姿を見ることになった。
昨日も一昨日もそうしたようにラッセルは中庭を通り抜け、足を運ぶのも慣れつつある図書館を訪れた。いつものとおり、柱に掲げられた大きな女魔術師の絵が彼を迎える。
絵を横目に探す本は今日も、魔力を高める方法についての書物。
本棚の前を渡り歩くうちに、この風景に合っているとも場違いとも思えるような姿が視界に入る。
ひとつに束ねた白い髪に空色の目。そこまでは普通だが、飾り玉つきの帽子とマントは以前ランツの町を訪れたこともあるサーカス団で見た、ピエロを思わせた。何より、顔の上半分を覆う白い仮面が異質に思える。
ただ、それよりさらに異質なものが本棚の上に腰かけていた。
「道化師さん、召喚魔法教えてくれない?」
この景色では明らかに目立つ黒一色。イグニスのことばに、この研究所で道化師さんと呼ばれている魔術師はそちらを振り返りもせず、一拍黙った後。
「そのうちな」
あきらかに気のない返事をしながら、手にした本のページをめくる。机に載った数冊の本はどれも、エレオーシュ近郊にある小さな村や山々に関するものだ。
「それ、明後日の二年のテスト用のアレ?」
文句を言おうとしたような様子から、イグニスは気がついたように表情を変える。それから、目を本棚の角に隠れるようにしていたラッセルに向けた。
「聞いといた方がいいぞ、二年生。今年の野外実践テストは難易度高いらしいからな」
「……テスト?」
何も聞いていないラッセルは眉をひそめた。実践テストがあったところで、まともに魔法が使えない自分はなんのテストをするというのか?
「テストはチーム制だし、上級生も同行するから危険は少ない。わたしたち備え役も監視している上行われるからな。イグニス、きみも優秀な魔術師候補としてチーム編成に加わるそうだから、今のうちに地理を記憶しておくといい」
「そしたら、優秀な魔術師候補に召喚魔法を教えてくれると嬉しいなどと供述しており」
「……テストが終わったら少しだけな。召喚魔法は場所を選ぶものが多いからな」
召喚魔法は文字通り別世界から怪物や異質なものを召喚する魔法で、その効果も強力なものが多いが、莫大な魔力を必要とする。二人の会話を聞きながらも、ラッセルには到底縁のない系統の魔法に思えていた。
「魔法が使えない件については教授が考えるだろう。それが彼女らの仕事だから」
少年をちらりと見ると、道化師はそう言って再び本に目を落とす。
それでもできる準備はしておきたい。この日、ラッセルは魔力に関する研究本と一緒に、テストが行われるらしい村の周辺の地理に詳しい本を一冊借りていったのだった。
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