第二話 白い「使い魔」

 本城の一階にある医務室では、清潔そうな白いローブに身を包んだ女治療術師が怪我人たちを出迎えた。長い金髪の、外見上は学生と変わらない歳の少女に見える彼女、ビストリカは驚いたような怒ったような表情をしながら、治療魔法で簡単に傷を癒していった。

 温かな光が触れると、それが消しゴムであるかのように擦り傷も裂傷も消えていく。治療魔法も目にするのが初めてなラッセルにとっては珍しいものだが、周囲は見慣れているのだろう、少年の視線に気づきもしない。

「夢魔が現われたわけでもないのに、こんな負傷者がでるとは……驚きましたね」

 夢魔、というのは、清浄な水を汚すために現れるという実体のない怪物だ。この水鏡世界とも呼ばれるエルトリア界では、南方の巨大な水陽柱が水を吸い上げ、浄化された水を各所にいくつもある水陰柱が地上に流し込んでいる。その仕組み反抗する者が古代に生み出した化け物だと伝えられていた。

 夢魔を見たこともないラッセルには長年遠い夢物語のように聞こえていたが、ここではそうでもないらしい。

「まあ、いいじゃないか。編入初日から殴り合いとか、見かけによらず元気のいいことで」

 笑みを浮かべてそう言ったのは、ロインという青年剣士だった。彼はこの研究所の警備を預かる備え役の長で、仲間と巡回中に騒ぎを聞きつけ、イトリとともに怪我人をここまで運んだのだった。

「……べつに、殴り合ったわけじゃない。僕はただ止めただけだ。殴り合いなんて野蛮だろ」

 怪我はすでに完治し、殴った拳の痛みも消えている。服にわずかに残る血痕だけがあの打撃の痕跡を残していた。

「金持ち喧嘩せず、ってか」

 ロインは笑い、突如身をのり出して少年に耳打ちする。

「でも、スカッとしたんだろ」

 小声でされたその問いかけには、ラッセルもうなずかずにはいられなかった。


「ラッセルー!」

 食堂の片隅で遅い朝食を済ませたそこへ元気よく飛び込んできたのは、紺色の魔術師らしいマントと帽子をまとった小柄な少年だ。

 ラッセル・ジェルフがこのエレオーシュ魔法研究所に来て二日目。まだ慣れないここでの生活の中で救いだったのは、食堂で出される料理がどれもおいしいことだった。なにかどうなってもいいと心の底で思いながら生きている少年からしても、毎日の食事は美味しい方がいいに決まっていた。

「……大声出すな」

 デザートの焼きプリンの最後の一口をしっかり味わってから、テーブルの向こうに立った相手に、声をひそめて言う。せっかく目立たないように隅にいても、そんな努力は灰燼かいじんに帰した。食堂全体からの視線が痛い。

 だが、そんな様子も紺色の魔術師候補は気にしない。

「まだここに慣れてないんだろ? オレが案内してやるよ。授業までもう少し時間もあるしな。同じ学年なんだから、わからないことがあったらなんでも聞けよ」

 二人は二年生だ。大体三年から五年で卒業になるが、希望して残る者もいる。四年生以降では、聖王都ネタンの魔法学院に編入する道もあるという。

「お節介なことを……」

 とはいえ、一人ではなく二人でいることは好都合なこともある。

 ラッセルは授業が始まるまでに、図書館に寄ってみることにした。騒がしいセタンは目立つ原因にはなるが、不思議とそのおかげで場に馴染むことには成功する。廊下をすれ違いざま彼に声をかけて行く者も新顔に一瞥はくれるものの、特に気に留めず通り過ぎていく。

 廊下を抜け城外に出るなり、セタンが声をあげた。

「あ、シロだ」

 ラッセルもつられて見上げる。眩しさに目を細めて見上げた青空を、白いフクロウが横切った。どこへ向かうのか目で追うが、高い古城の物見台に隠れて見えなくなる。

「なんだあれは……?」

「どこかの塔に居ついているらしいフクロウだよ。勝手にシロって呼んでるけど、野生のものなのか誰かの魔法なのかわからねえな。けっこー見かけるぜ」

「魔法、ねえ。使い魔か何かか」

「どこかの魔女の使い魔だとか化身だとか噂されてるな」

 ことばを交わしながら、図書館のある別棟に向かう。足は昨日と同じく湖畔沿いに向いた。あの少女に会えるかもしれないという期待は、少しはあったかもしれない。

 だが、行く手を阻むように木の陰から現われたのは、会いたくもない昨日と同じ顔。

「なんだ、また喧嘩でもしに来たのか?」

 金髪の細長い男とともににらみつけてきたのは、頬が少し腫れたままのハイドラだ。医務室で治療を受けなかったのは、プライドゆえだろうか。

 ラッセルの挑発にも受け取れることばに、ハイドラは顔を一瞬だけ歪ませる。すぐに戻したのは、頬の痛みのせいだろう。

「なんの用だよ。ハイドラ、カナン」

 セタンは警戒したようにマントの内側で杖の柄を握った。対抗するように、ハイドラは杖ではなくどこかから持ち出してきたらしいデッキブラシをかまえる。

「お前らみたいな野蛮人にはこっちも知恵だけでなく力を使わないとな。どっちが上か思い知らせてやるぜ」

 要するに、大勢の前で殴り飛ばされたのが悔しいのだろう。なんて下らない――ラッセルの心は相変わらず冷めていた。ただ、図書館はお預けかもしれない、と多少残念に思う気持ちは抱いていた。

 一方、守るようにその一歩前で杖を握りしめたセタンは、少し不安そうに対峙する向こう二人を見る。ハイドラだけでなく、カナンというらしい男子学生も臨戦態勢だ。

 鳥の鳴き声がときどき響くだけの静けさの中、朝の空気が張り詰める。

 誰かが魔法語を口にした時が、開戦の合図。

 ばさり。

「朝からなーにやってんだか」

 静寂を破るものは、上からやってきた。木の枝で眺めていたらしいのは、黒衣の姿。

 大きなカラスのように舞い降りた姿はフード付コートの袖を持ち上げると、そこから二枚の長方形の札を宙に放り投げた。

 それから起きた出来事に、ラッセルは目を奪われる。

 手のひら程度の大きさの白い札がグニグニと変形し、二匹の白い蛇と化した。それが、ひっ、と小さく悲鳴を上げるハイドラとカナンに絡みつく。

「お、覚えてろよイグニス!」

 捨て台詞と、放り投げた蛇の絡んだデッキブラシを残し、二人の男子学生たちは退散していく。

 パチリ。

 黒衣からのぞく指先が小さな音を奏でると、蛇たちは白い煙となって消え、元の札だけがその場に残る。まるで手品のような、しかし手品では不可能なことも可能にするそれこそが、〈魔法〉そのものだった。

 ハイドラたちがいつの間にかいなくなっていることも半ば意識の外で、ラッセルは一連の魔法に見とれていた。

「なんだ、そんなに魔法が珍しいところから来たのか、坊っちゃん。大金はたいて編入したのも魔法に憧れてるからか?」

 札を拾い上げながら近づいて来ると、その黒いフードの奥が良く見えるようになる。黒の中に目立つ白い肌に、長い赤毛。一見、女のようにも見違いそうな風貌だが、切れ長の目は鋭い視線で相手を見定める。

「……ここに来たのは、僕の意志じゃない」

 見透かされそうで、ラッセルは思わず目を逸らす。イグニスと呼ばれた黒衣は、それに対して不審の表情。

 その様子から何か不穏な気配でも感じたのか。

「イグニス、ラッセルは悪いヤツじゃない。きっと何か事情があるんだろ。ここに来るようなのは、誰でもなにかしらの事情があるようにな」

「ふうん」

 口を挟むセタンをちらりと見やり、イグニスは肩をすくめる。

「セタンが言うならそうなんだろ。ま、どうせ関係ないしな」

 と、裾をひるがえして立ち去りかけ、顔だけ振り向く。

「気をつけろよ。ここの塔には色んな魔術師や怪物が封印されているらしいが、金持ちの男を湖に引きずり込む魔女なんてのもいるらしいからな」

 ラッセルが顔をしかめるのを見ると、にやりと悪戯っぽい笑みを残し、デッキブラシを回収して去っていった。

「やっぱり凄いな、イグニスの符術は」

 あの白蛇の魔法に目を奪われていたのはラッセルだけではないらしい。

 符術は魔法の系統の一種だ。かつては黒魔法・白魔法という大分類だけの時代もあったが、今は攻撃・防御・補助・治療・召喚・幻術・符術など、細かく系統が分かれていた。その中でも、符術は札を使い無生物に命を与える魔法で、難度の高い魔法に入っていた。

 これくらいの知識は、ラッセルも書物からすでに得ていた。

「ふーん。符術、ねえ」

 興味のない様子を装おうとして見上げたそこに、音もなく羽ばたくのは白い翼。

「シロだ。ずい分低く……」

 セタンの言うように、フクロウの姿は今朝見た時とは違いかなり大きくはっきりと見え、どこかに降りようとしているようだった。

 見失わないようその姿を追いながら、二人は走り出した。フクロウの正体の一端でも掴めるなら、是非その行方を目にしたい。ラッセルにもこの場に及んでは、その好奇心を隠す余裕はなかった。

 行く手に並ぶ木にときどきぶつかりそうになりながら、白い姿を追う。

 走る二人には長く感じられたが、実際はそう距離を走らないうちに、そのフクロウが降り立ったらしき場所に辿り着いた。木の向こうにフクロウが消え――景色が開ける。広がる湖を背後に、たたずむひとつの姿。

「どうしたの、キミたち」

 振り返るその姿に、ラッセルは目を見張る。

 視界に入ってきたほんの一瞬だけ、少女の姿が白く輝いていたように見えた。つい最近も見た、あの少女の姿のように。

「ほら。もうすぐ授業も始まるよ? 遅刻する気がないなら一緒においで」

 苦笑ではあるが、ほのかに笑みを浮かべて、ルフェンダは古城へと歩き出した。

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