第一章
第一話 新しい「居場所」
古城を改装したという魔法研究所は、湖のほとりにそびえていた。塔に囲まれ物見台や美しい装飾を備えた外観は、見る者に深い歴史と魔法の威厳すら感じさせる。その外観だけを求めて遠くからやってくる画家も少なくないという。
馬車が門をくぐったとき、新たにこのエレオーシュ魔法研究所の学生となるラッセル・ジェルフも、彼にしては珍しく、心奪われた。
だが、すぐに気がつく。外観がいくら美しくとも、どの場所も本質は変わらないと。
「よくいらっしゃった。ここしばらく天候も荒れていたし、道中、大変だったろう」
まず通された学長室で、マルニビット・シヴァルド学長が出迎える。この古城を買い取り改装し、魔法研究所として造り上げたという、高名な魔法使いだ。ほんの数日前に魔法研究所への編入を父の伝令に言い渡されたラッセルでも、その学長の名は書物で知っていた。
「ええ、命からがらここに辿り着きました。こうしてどうにか到着できたのも運命なのでしょう」
セバスチャンが朗らかに言う。二人の大人たちが笑顔を交わすのを、ラッセルは無表情で見ている。
「国立学院からの急な編入ということで戸惑うこともあるかもしれないが、何かあればわたしや教師にも気楽に相談するといい」
「坊ちゃんは人見知りなので……どうぞ、よろしくお願いいたします」
セバスチャンが深々と頭を下げたときにも、少年は、学長にも教師にもできるだけかまってほしくない、とだけ思っていた。
本質はどこも変わらない。どんな場所でも。
セバスチャンが去り、一人になったラッセルはすぐに思い知らされる。どこに何があるか覚えようと散歩に出た庭で、聞こえてくるひそひそ話。
「あの子、大金積んで編入させてもらったらしいよ。魔法の才能もないくせに」
「この時期に突然編入だもの、何か悪いことでもしたんじゃないの?」
「家が大金持ちで何でも買ってもらえるとか羨ましいな」
「裏口入学か。きっとわがまま通してきたんだろうよ」
水色ローブ姿の集まりから、近くを通るたびに漏れ聞こえる。ラッセルはもらったばかりのローブを部屋に置いたまま着てこなかったことを後悔した。学生のなかに少しは埋没できたかもしれないのに。
――どこも変わらない。
ここに来る前にいた、ランツという名の大きな町の学院。成績は悪くはなかったのに、そこでも何度も、似たような陰口が聞こえていた。同級生の多くは彼を避け、時には、大人には気づかれない程度の小さな嫌がらせをしてくることもあった。
湖のそばに立つ木の陰に隠れるようにしながら、ラッセルはできるだけ人の気配のない方向へと歩いた。やがて、その並びの中でも古そうな、最も外れにある木に辿り着く。
聞きたくないものが聞こえるかもしれない状況から解放され、少年はほっと息を吐いた。だが、木の影の中に動くものを見つけてぎくりと動きを止める。よく見ると、髪の長い人間が湖に向かって座り込んでいる。
「悪いね。ここはわたしが予約しといたの」
澄んだ少女の声。
聞き覚えのある声だった。そして。
振り返るその顔に記憶にある面影が重なる。髪は栗色だが、顔立ちも声も確かに最近水中でも、十年ほど前にも見聞きしたそれだ。
「きみは……」
他人の空似かもしれない。それにしては似過ぎている、とも思う。
少女は答えず、逃げるように顔を逸らす。その水色の目は、同じ色の湖面に向けられる。
「わたしには近づかない方がいいよ。無能が伝染するらしいから」
「無能、って……?」
「魔法が使えない、魔力がないってことだよ」
思わず聞き返したことばに返ってきた声には、特に感情は込められていない。
「なら、大丈夫だ。僕もすでに無能だからな」
何の気なしにそう言い――次の瞬間、ラッセルはひそかに目を見張る。
再び振り返った少女が、周囲を照らすような明るいほほ笑みを浮かべていたのだ。
「キミ、面白いことを言うね。わたしはルフェンダ。無能同士なら、名前で呼んでくれた方が嬉しい」
「……僕は、ラッセル・ジェルフだ」
なぜかそうしなければならない気がして、少年は名のる。
短い出会いだった。その間に、彼はやっとこの魔法研究所にわずかばかりの居場所を得たような気がした。
エレオーシュ魔法研究所には、いくつかの塔と本城のほかに別棟がある。本城の隣に建つその内部には図書館も入っていた。
蔵書には興味があったものの、ラッセルは中庭から場所だけ確認して与えられた部屋に戻ることにする。この研究所に初めて足を踏み入れた時点ですでに昼をとうに過ぎており、今ではかなり陽が傾いていた。古城の影が湖の上に長く伸びている。
来たときと同じく、木々の陰を伝って本城へ。あの木のそばにもすでにルフェンダの姿はない。
「お前、大富豪の息子なんだってな」
突然大声をかけられ、足を止める。
声の主は開けた場所にいた。だいぶまばらになっているが、周囲にいた他の学生たちも一斉にそちらに注目する。
「ここにも、大金を積んで入ったらしいじゃないか」
体格のいい、茶色の髪の男子学生が声をあげていた。そのそばに数人、ニヤニヤ笑いを顔に浮かべている取り巻きの姿もある。
一瞬、無視するかどうか悩んだ。
「……だったらなんだ」
こういう場面にも慣れていた。数歩前に出て、相手をにらみつける。
大抵の相手はそれだけでも離れる。そうでなくても、かまいやしない。
「だったら、それだけの価値がある魔法の腕を見せてくれよ」
男子学生は一瞬怯んだものの、すぐに口の端を吊り上げた。続いて口の中で何かを呟くと、その周囲に無数の小石が浮き上がる。この辺りは湖畔までずっと芝生が広がっていて、小石があるとしても極わずかだろう。
――魔法?
この状況にいながら、ラッセルはそれに目を奪われた。話には聞いているしここへ来る前に少しは勉強してきたものの、間近で魔法そのものを見るのは初めてなのだ。
「こんな低級魔法に驚くくらいじゃたかが知れてるな?」
男子学生は調子に乗った口調で言い、小石群を標的に向けて叩き付けようとする。
ラッセルは走った。細かい方向転換はできないらしく、無数の小石は真っ直ぐ彼が立っていた空間めがけて飛ぶ。横にずれて射線を外れれば、それほど脅威にはならない。それでもいくつかが腕を叩くが、距離があくとだいぶ威力は殺がれていた。
「まだ小手調べだからな?」
さらに、次の攻撃の準備。先ほどより浮かぶ小石の数は倍程度になり、攻撃範囲も広がる。
後ずさりしながら、ラッセルは小石群を注視していた。頭の中で色々なパターンを想定する。さてどう逃げるべきか……?
「やめろよ、ハイドラ」
小柄な人影が横から飛び込んでくる。制服のローブの上にいかにも魔術師らしい紺色のマントを着込み、三角帽子を被った少年だった。肩にかかるくらいの癖のある髪は黒に近い濃紺で、そのシルエットの中で金色の目が輝いて見える。
「邪魔すんな、セタン。今いいところなんだから」
「何がいいところだよ。魔法は喧嘩に使うもんじゃない。いつも先生も、魔法はみだりに使うものじゃないって言ってるだろ」
攻撃を遮るように目の前で言いつのる相手に、ハイドラと呼ばれた体格のいい学生は、だいぶイライラしてきたようだった。顔が紅潮し歪む。
「いっつも邪魔臭いんだよ、お前は!」
怒鳴り声に、ドス、と鈍い音が重なった。
セタンという名らしい少年が弾かれたようにして倒れるのを見て、ラッセルはやっと、蹴とばされたのだと気づく。
――一体何のために?
「なんで、無関係な相手を……」
かっと、頭に血が上る感覚があった。ほとんど初めてではないかという経験。
それもそのはずだ。誰かに庇われて、その誰かが傷つくのを見るのも初めてなのだから。
「さ、邪魔者も消えたし始めようぜ」
その声の時点で、すでにラッセルは駆け出していた。
「お前……!」
ハイドラは小石の雨を降らせる。
両腕で頭を守りながら、ラッセルは突進した。腕も手も胴も足も、いくつもの小石に強打される。転びそうになるが、どうにか足を踏ん張り踏み出す。そのうち、小石の中で大きなものが額を割り血が目に入るが、それもかまいはしない。
目的はひとつだった。今は、それしか考えていなかった。
「……は!?」
いつの間にか目の前に迫っていた姿に、ハイドラはのけ反る。
見よう見真似だ。それも初めての経験なのだから。
ただ、ラッセルは腰をひねり、できる限りの体重と勢いを乗せて右の拳を突き出した。
ゴスッ!
見た目ほど威力はないだろうが、それでもかなり上出来なほど上手く力の乗った拳は頬にめり込み、歯の一本くらいは折ったかもしれない。
「お、おい」
うずくまるハイドラに、動転した様子で駆け寄る取り巻きの一人。周囲がざわめく。顔半分を血に染めながらにらみつける少年は、学生たちの目にどう映っただろうか。殴った拳すら痛むが、ラッセルは得意のなにも感じていないふりをした。
不意に、彼の視線が遮られる。
「貴様、自分のしたことを理解してるんだろうな?」
殺気にすら感じさせる怒気は、ラッセルに向けられたものではなかった。
長身の女がハイドラの襟元を片手で掴みあげている。長い銀髪の前髪からのぞく左目は鋭く細められ、彼女自身の持つ冷たい刃のような雰囲気をさらに強くする。水色のローブは大半が腰に巻き付けられ、動きやすい道着のような服と白い素肌をむき出しにしていた。その姿は魔術師、というより格闘家のように見える。
片手で軽々と大男を吊るす姿は見る者に、細腕に似合わぬ怪力をしっかりと印象付けた。
ハイドラは呼吸困難に陥っているらしく、白目をむいて泡を噴いていた。それにもかまわず、彼女は続ける。
「その新入りに感謝するんだな。そいつが殴ってなければ、わたしは貴様を殺したかもしれん」
それだけ言うと完全に興味を失ったのか、投げ捨てるようにハイドラを放り出し、彼女は顔を横に向ける。
「イトリ姉……」
腹をさすりながら見上げたのは、紺色のマントに帽子姿。
「医務室に行くぞ。お前もそこの新入りもだ」
全身の打撲が痛むものの、ラッセルはこのいざこざが終わったことをどこか他人事のような気分で安堵したのだった。
他人事のようなのに、なぜか少し、爽快な気分を抱きながら。
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