始まらない物語~spare's story~

Kimy

 しっかりと馬車の荷台に張られた丈夫な幌が、それでも音を立てて激しく波打った。揺れる布の隙間から垣間見える岸壁には、白波が狭い道を飲み込まんと噴き上がっている。見たことはないが、南の海上にあるという天空高く海水を吸い上げる水陽柱とはああいう雰囲気のものなのかもしれない、と少年は思う。

 一方は波の打ち付ける海岸の岸壁、反対側は切り立った崖という道はあまり整備されておらず、ただでさえ大きく揺れた。そこに強風の圧力が加わると、乗員はいつ馬車ごと吹き飛ばされてもおかしくない気分になる。

「坊っちゃん、大丈夫ですか?」

 手綱を握る執事が、やや緊張した声で背後に声をかける。

「ああ。なんともない」

 舌を噛まないように気をつけながら、ラッセル・ジェルフは短く言った。一見したところでは上質な黒い上着の裾ひとつ乱さず、見るからに育ちの良さそうな少年の顔にも少しの動揺も見られない。

「なるようになる、でしかないだろ」

 生まれたときから彼のそばに仕える執事セバスチャンのことは、信頼してはいた。それでも少年の心の大半を占めるものは、不安を超えるあきらめだ。

 ――どうなっても、かまうものか。

 常日頃から心の底を支配するそれが彼の冷静さにつながっていた。それでも、突然の轟音や振動には、反射的に驚いてしまう。

 しかし何度も続くと、それすらも慣れ始める。だから、ラッセルは声すらかき消されそうな風音が一際鳴り響き、突き上げるような衝撃に襲われても、黒い空が視界に広がるまでなんの感情も抱かなかった。

「……え?」

 浮遊感が終わると続く、落下する感覚。声は風にかき消され、上下逆さに波の打ち付ける岸壁が離れたところに見える。

 ――終わりか。あっけないな。

 悟ると同時に、冷たい海面に打ち付けられた。

 首と頭の鈍痛に顔をしかめながらも、目は開いたままだ。最後に自分がどこで死ぬのかくらい見届けたい。

 亜麻色の前髪が揺れるその向こうの淡い青緑の世界に、岩肌や海藻らしきものが見える。海の底は暗く、見通せない。

 それも、どうせすぐにわかる。

 沈んでいきながら、ラッセルの心境は平静だった。波の荒れ狂う海も内部は意外に穏やかで、特に感情を揺さぶるものもない。

 ただ、冷たく暗い海底に沈み死んでいく。

 そのはずだった。

〈それでいいの?〉

 音のないはずの世界で、なぜか少女の声が耳に届く。

 少し首を動かして見上げると、白い姿が浮かび上がった。海面からの明かりで青白く照らされた、長い白銀の髪と飾り気のない白いドレス。そこにいるのに水中にいる雰囲気ではなく、現実感がない。

 ――魔法?

 ふと、そんな単語が浮かぶ。魔法のような光景も原因だろうが、馬車の目的地、魔法研究所が影響しているのかもしれない。

〈まだ、自分の面倒は見られないようね〉

 はっきり聞こえたことばに、ラッセルは思い出す。

 十年ほど前。好奇心で登ってみた木の上から落下した彼を、通りがかりの少女が軽く受け止めてくれた。

 すぐにどこかへ去ろうとした彼女と、彼はなぜかとても離れ難かった。ついていきたいと言うと、少女は笑った。

「自分で自分の面倒を見られるようになったら、連れて行ってあげてもいいわよ」

 今見上げる顔は影になっていてよく見えないが、声は記憶と重なって聞こえた。

 ――キミは、誰?

 声に出せるはずもなく。

 海中に投げ出されてから初めて興味をひかれたものの、何も確かめることもできないまま、意識は冷たい底へと落ちて行った。


 遠くで、名を呼ぶ声がする。

 慣れ親しんだ声。誰のものかはすぐにわかった。

「……セバスチャン?」

 目を見開く。全身の冷たさと濡れた感触に顔をしかめながら、見慣れた顔、汚れながらも怪我もない様子の馬、それにつながれ停車している幌馬車が視界に入ると力が抜ける。少しは安心という感情が生まれたのかもしれない。

 岸壁は途切れ、白い砂浜が広がる。どうやらそこに流れ着いたようだ。

「良かった……どうにか生き延びられそうですな」

 執事がだいぶ皺の増えた顔をほころばせて見上げた空では、雲の切れ間から日光が差し込んでいた。

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