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 紫兵裏しへいりが僕たちの学校にやってきて、早いもので、今日で五日目となった。

 今日は金曜日。本日の授業を乗り切れば週末を迎えることができる。僕たち学生にとっては、この上ない喜びである。

 そんな金曜日の日程も恙無く進行し、晴れて放課後がやってきた。

 あとは家に帰って、だらだらと過ごすだけの簡単なお仕事だ。

「あ、ふーくん。帰る? ごめんね、私ちょっと委員会の仕事があるから、先帰ってていいよ。たぶん、少し遅くなると思うから」

 帰りのホームルーム後の教室で、鞄を手に取り立ちあがると、右隣で亜澄あすみがそんなことを言った。

「そうか……今日は泊まりで作業か。大変だな」

「そこまで遅くならんわ!」

「おお……。まあ、それじゃあ、日曜日な」

「うん、じゃあねー」

 日曜日は、亜澄とのピクニックが予定されていた。

 そのためにも、僕はさっさと帰って英気を養っておこう。

 幼馴染に軽く手を振り、僕は教室を出た。

 廊下を進み、階段を降りて下駄箱へ。

 その間、特に誰とも会うことはない。

 そして、帰路に就いた。

「あららら、そこに見えるは……王子くんじゃないか」

 校門を出た辺りで、変な口調の明るい声が背後から響いてきた。

 こんな喋り方をするのは――そして僕をそんなよく分からないニックネームで呼ぶのは、あの娘しかいない。

「よう、紫兵裏しへいり。そっちも今帰りか?」

「ああ、そうさ。今、帰るところだよ。『かえる』だけにね、うふふ」

 僕は何も言わない。

 そのギャグがあまりに面白くなかったというのが一つ。

 もう一つは――それがなぜなのかを具体的な言葉にすることができないけれど、彼女のその発言に、何か僕を不安にさせるようなものが含まれていたからだ。

 どうも、紫兵裏しへいりと話しているとそういうことが多い気がする。

 どこからどう見ても、ただの女子生徒でしかないというのに。

「どうしたんだい、王子くん? そういえば、キミは以前から、そうやって難しい顔をしていることが多かったね」

「……そうか?」

 以前から、などと言われるほどに、僕はこの紫兵裏しへいりと長く付き合ってきたわけではないのだが――まあ、彼女の発言がどこか変わっているのは今に始まったことではない。

「ああ、そうさ。思えばあの時も、キミはそんな目をしていたね」

「ふうん。よく見てるな……」

 あの時とはいつなのか。

 僕は紫兵裏しへいりのそうした何か含みがあるような発言には、あまり深く立ち入らないようにしている。いちいち真面目に反応していたらキリがないし、やはりどこか僕を不安にさせるものがあるからだ。

「そりゃあ見てるよ。ボクはキミのことが好きだからね」

「……はあ、そうか」

「連れない返事だねえ。こりゃあ、あのコたちが苦労してたのも、分かるってもんだね」

 本当、食えないやつというか……。逆に、人を食ったようなやつというか……。

 終始こんな調子なのである。

 それにしても、彼女の発言に度々登場する、『あのコ』たちとは一体誰なのだろう。僕の知っている人間なのだろうか。節々でそういうことを匂わせている。

「まあ、そういうわけだからさ。今日は入谷さんもいないみたいだし、一緒に帰ろうじゃないか。転校生と親睦を深めるいい機会だよ、これは」

「いいけど……。お前、家こっちの方なのか?」

 前方の道を指差しながら、言う。

 紫兵裏しへいりが転校してきてからというもの、僕は彼女が下校していく姿を見ていない。単に見ていない、というのではなくて、授業が終わると彼女は忽然と姿を消しているのだ。背は低いけれど、決して目立たないということはなく、むしろ目立つ部類であるにも関わらずだ。

「そうだねえ。ボクの家はこっちといえばこっちだし、そっちといえばそっちだ。場合によってはあっちということだってありえるのさ」

「ふうん、じゃまあ、一緒に帰るか」

 例によって彼女の不思議発言を華麗にスルーして、その提案だけを受け入れる。

「きゃっほう、嬉しいね。それじゃあ一緒に帰ろう。帰路を共にしながら、是非ともボクの好感度を上げてほしいな」

「まあ、ぼちぼちな」

 そんな浪花の商人みたいなことを言いながら、紫兵裏しへいりと共に家路を行く。

「しかし王子くん。キミの学校っていうのは、なかなか面白いね。向こうにいた時にはこんな世界があるなんて、思いもしなかったよ」

「うちの学校なんかどこにでもある普通の学校だよ。……面白いことなんか、これっぽっちもないと思うけどな。きっと、お前が前にいた学校っていうのが変わってたんじゃないかな」

「おっと、なかなかどうして、鋭いことを言うじゃないか。流石はプリンセスの協力者、と言ったところかな」

「おう、もっと褒めていいぞ」

 何だか今、また新しい情報が出た気がするけれど……。

 プリンセス?

 協力者?

 何のこっちゃさっぱりだが、ここもスルーしておくのが吉。

「ああ、今のキミには、関係ないことだったね。何のことを言われているのか、分かってないって顔をしてるよ」

 やはりお見通しか。

「まあ、だからこそ、ボクがここに来た意味がある。何もかもを断ち切って、ボクは、あいつらがいない、この場所で――新しくゼロから始めるんだ」

 そう言った紫兵裏しへいりの顔は、どこか悲しみとか憎しみとか、そういうマイナス方面の感情に満ち溢れているように見えて、一瞬戦慄する。

「それはそうと、王子くん」

 その表情が、まるで僕の見間違いであったかのように――彼女は再びアルカイックな笑みを浮かべて、僕に語りかける。

「……どうした?」

「せっかくこうして肩を並べて女の子と下校してるんだ。キミとしては、するべきことがあるんじゃあないのかい?」

 何を言い出すかと思えば、そんな話。

「するべきこと?」

 何だろうか。

 一応、車道側を歩く、とかそういう配慮はしているつもりだったのだが。

「あららら。キミは本当に、困ったものだね」

 そう言って、紫兵裏しへいりが僕の左腕に飛び掛かった。

「こういう状況じゃあ、少なくとも手くらいは繫いでおかないとね」

「これは手を繫ぐとか、そういうレベルを越えてるけどな……」

 僕の左腕は、すっかり紫兵裏しへいりの矮躯に乗っ取られている。しかし、下手をすれば小学生に見間違えられてしまいそうな彼女の身体からは、女の子らしい柔らかさとか、そういうものがあまり感じられなかった。

 何か物足りない。

 どうも、最近どこかで柔らかな感触を堪能したような気がするのだけれど……。

 どこだっけ?

 おかしいな、そんな相手なんかいないはずなのに。

「ねえ、王子くん。何か失礼なことを考えてはいないかい?」

「え……そんなことないと思うけど」

 図星だった。

「ふうん、まあ、キミがそう言うなら、そういうことにしておいてあげるよ。それじゃ、行こうか――だーりん」

 また不穏なことを言い出す。

「誰がだーりんだ」

「本当、連れないねえ。そういえばキミは――果たしてどっちのことが好きだったのかな? まあ、そんなことは今さら言ったって、もうどうしようもないんだけど」

「何のことが分からんが……。お前は一体、何がしたいんだ?」

「あららら、さっき言ったじゃあないか。ボクはね、キミのことが好きなんだよ」

「はあ、そりゃまた……」

 口ではそう言うものの、いまひとつ気持ちが伝わってこない。

 心が籠っていない、とでもいうのか。

「うふふ。ねえ、王子くん。ボクじゃあ不満なのかな?」

「不満……とか、そういうわけじゃないんだけど」

 かといって別に、紫兵裏しへいりのことが好きかと言われればそんなこともない。

 外見が幼すぎてそういう目で見られない、というのが一つと――。

 先程から――いや、彼女が初めて僕の前に現れてからずっと感じている、この不安感のようなもの。それが僕を、彼女と深く関わることから遠ざけている。

「ボクは発展途上だ。これでも絶賛成長中なんだよ。身長だってこの一年間で五ミリは伸びたし、胸だって……」

 何だか悲しい見栄を聞かされているような。

「まあ、あっちのコはまだしも――プリンセスと比べられちゃうと、勝ち目がないのかなー。なんてね、うふふ」

 自虐なのか、彼女は笑う。

 あっちのコ。

 プリンセス。

 一体誰の事を差しているのだろうか。

 僕には分からなかった。

「ああ、ボクはこっちだから」

「え、ああ、そうか」

「じゃあ、また来週ね」

 僕の家の近所――それなりの大きさを誇る公園に差しかかった頃。

 紫兵裏しへいりがそう言って、僕に手を振って去っていく。

「ああ、またな」

 去りゆく小さな背中に声を掛ける。

「……あれ?」

 しかし。

 何が起こったのか。

 いつの間にそうなったのか。

 その小さな背中を、僕の視界が捉えることはなかった。

 紫兵裏しへいりかえるはその場所から、忽然と姿を消していた。

「本当に、何者なんだ、あの娘は」

 謎は深まるばかりだが、考えたところで仕方がないだろう。

 疑問符に支配されつつある脳を、あれこれの仮説を立てて無理やり納得させながら、僕は残りの家路を消化していった。

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