日常 - Oblivion -

1

「朝だよー」

 そんな声で目を覚ました。

「おはよう、ふーくん」

「……ああ、亜澄あすみか。おはよう」

 目覚めたばかりで、まだ眠い。

 どうしてわざわざ亜澄が僕の部屋まで来たのだろう。

「ふーくんが寝坊するなんて、珍しいね」

 言われて、枕元の時計を見る。

 八時一五分。

 確かに、このままのんびりしていては遅刻してしまう。

 いつもは七時三〇分には起床している。今日はいつもの場所、いつもの時間に僕が現れなかったものだから、こうして起こしに来てくれたのだろう。うちは両親とも早くに家を出てしまうから、自力で起きなければならない。持つべきものは優しい幼馴染である。

「あれ? おかしいな……」

 昨日はちゃんと夜更かしせずに、時間通りに寝たと思うのだけれど……。

 その割に、どうにも疲れが取れていない。

 そういえば変な夢を見ていたような気もする。

「とにかく、急がないと遅刻しちゃうよ。外で待ってるから、早く来てね」

「ん、ああ……」

 まあ、思い出せないしどうでもいいか。

 亜澄が部屋を出て行く。

 僕はのそのそと起き出して、てきぱきと制服に着替える。


「あ、来たね、ふーくん。早かったね」

「悪かったな。わざわざ来てもらっちゃって」

 外で待ってくれていた幼馴染に、一言詫びを入れる。

「いいよいいよ。じゃ、行こっか」

 いつものように、二人で学校へと向かう。

 物心ついてからというもの、何をするにも大抵一緒だった、幼馴染。

 こういう時は本当にありがたい。

「あ、おにぎり作ってあるから、途中で食べてね」

「本当に助かるよ」

 銀紙に包まれたおにぎりを二つ受け取る。

「……変なもの入れてないよね?」

「入れるか!」

 元気なツッコミも心地良い。

 いつも通りの日常だ。

「大体、変なものって何さ」

「うーん、ドラゴンの肉とか?」

「え? 何それ? どこに売ってるの?」

「……うん? あれ、何だろう?」

 どうして僕はそんなことを言い出したのだろう。

 冗談にしたってつまらなすぎる。

「普通に梅干と鮭だよ。全くもう、朝から寝惚けちゃって」

「いや、ごめん……」

 覚えていないけれど、今朝見ていた夢に、そういうものが出てきたのだろうか。

 何となく、そんな気がする。

「それにしても、暑いねえ。もうすっかり夏だね」

 気付けば七月。

 このところは夏日が続いていた。

「といってもまあ、まだ東京は梅雨明けてないみたいだけどな」

 西の方は順次、梅雨明けが発表されている。しかしまだ、ここ東京では梅雨明け宣言がなされていなかった。

「ね、ふーくん。こないだ話した、今週末のことなんだけどさ」

「今週末?」

 ええと、何だったかな。

 そんな話してたかな。

「あ、ひどい。忘れちゃったの? 一緒にピクニックに行く約束してたじゃない。姫ちゃんも一緒にさ」

「ああ、そうだったっけ」

 言われて、ようやく思い出した。

 確かにそんなことを話し合っていた記憶がある。

 しかし、何だろう。

 何か――もっと重要なことを忘れている気がする。

 そのピクニックについて話していた頃――僕は何をしていたのだったか。

「お弁当、腕によりをかけて作るからね。楽しみにしといてね」

「ああ、分かった。ちゃんと解毒剤、用意しとくよ」

「毒なんか入れるか!」

 まあ、いいか。

 この掛け替えのない日常が続いていることが、何より大切なことだ。


 どうにか遅刻することなく、学校に辿り着いた。

「おはよー」

 亜澄がクラスメイトたちに挨拶をしながら、教室へと這入っていく。

「おお、お二人さん、今朝も仲良くご登校で」

「ん、おお。おはよう。何か久し振りだな」

 声を掛けてきた友人の一人に、そう返す。

「久し振り? おいおい、昨日も会ったばかりじゃないか」

「……え? あれ、確かにそうだな……」

 そういえば昨日は、こいつと一緒に街に遊びに出たのだった。

「何かふーくん、今朝からちょっとおかしいんだよ」

「まあ、こいつがどっか抜けてるのはいつものことだけどなー」

「ほっとけ」

 しかし、今日の僕がどこかおかしいという指摘には、反論の余地がなかった。

 本当にどうしてしまったのだろう。

 何か、大切なことを忘れてしまっているような気がしてならないのだ。

「ああ、そうだ。噂なんだけどさ。今日、このクラスに転校生が来るらしいぜ」

「転校生? そんなもの珍しくもない」

「いやまあ、そうかもしれないけどさ。……とにかく、今クラス中がその話題で持ちきりなんだよ」

 言われてみれば、教室中が妙に騒がしいような気がする。

 きっと、転校生に対するあれこれの願望を口々に語っているのだろう。

 転校生がやってくる前の教室とは、おおよそそんな感じである。

「転校生かー。どんな人なんだろうね。仲良くなれるかなあ」

「可愛い娘だったらいいなあ」

「……まあ、まだ転校生が女子だと決まったわけじゃあ……」

 本当に転校生がやってくるのかどうかすら、まだ決まっていない。

 ……あれ?

 ふと、デジャヴュ。

 こんな光景を、どこかで見たような気がした。

 どこかで、僕は同じようなことを言いはしなかったか。

「どうしたの、ふーくん」

 見るからに怪訝そうな顔をしていたのだろう、亜澄が僕を心配そうな顔で見つめている。

「……ああ、いや。何でもない」

「そう? それならいいんだけど」

 まあ、転校生が自分のクラスにやってくる、なんていうイベントは、何もこれが初めてじゃない。きっと、過去に転校生がやってきた時に、同じようなことを言ったのだろう。

 往々にして既視感とは、そういうものだ。

 そして、チャイムが鳴る。

「さて、みんな。席に着けー。ホームルーム始めるぞー」

 担任教師が教室にやってきた。

「何かもう話題になってるみたいだけどな……。今日から一緒に勉強する仲間が増える。それじゃ、這入ってきていいぞ」

 教室前方の扉が開き、一人の少女が姿を見せた。

 ともすれば中学生か、下手をすれば小学高学年あたりに見えてしまいそうなほど小柄な少女。

 宵闇のような漆黒の瞳。しかしその瞳は宝石のような輝きを放ち、見つめているだけで吸い込まれてしまいそうだ。

 シルクのような髪の毛は、その瞳と同様黒く輝く。前髪は眉毛の高さで水平に切り揃えられ、後ろ髪は床に届きそうなほどの驚異的な長さだ。

 その矮躯と綺麗に整った顔立ちも相まって、高級な日本人形のような印象を受ける。

「ボクは紫兵裏しへいりかえる

 転校生が黒板に名前を記し、告げる。

 何だか聞きなれないというか、珍しい名前だ。

「ひしゃな……ああ、違う違う。ええと、何だったかな。埼玉県――いや群馬県かな? もしかしたら栃木県かもしれない。まあとにかく、その辺の山奥から転校してきました」

 あやふやだな……。

 一体どこに住んでいたのだろう。

「何だかみんな、すごく楽しそうに日々を送っているみたいだね。ボクはキミたちが羨ましかったんだ。だから転校してきた。こんなボクだけど、仲良くしてくれるかな」

 そんな、よく分からない自己紹介。

 しかし、そんなことは関係ないとばかりに、教室は歓喜に沸く。

「ほら、女子だったろ? しかも結構可愛いじゃないか」

 僕の隣の席も例外なく盛り上がっているようだった。

「ああ、まあな……」

 適当に返事をしておく。

 しかし、僕の心は、彼らとは全く別のところにあった。

 またしても、デジャヴュ。

 それも先程のよりも強烈なものが、僕の脳を襲う。

 おかしなことを言えば――そう。

 まるで、夢の中で出会ったような。

 そんな感覚。

 今朝見ていた、おかしな夢の中に、こんな少女が登場したような気がする。

「席は……そうだな。あそこが空いてたな」

 担任教師が、僕の左隣の空席を指して、その少女――紫兵裏しへいりかえるに言う。

「はい。うふふ」

 不思議な笑みを湛えて、こちらへと歩み寄る。

 そして、僕の隣の席へ。

「うふふ。よろしくね、王子くん。楽しくやろうよ」

 こちらに微笑みかけながら、彼女が言った。

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