3

 一〇分ほど遅れて始まった一時間目の授業。

「それじゃ、授業を始めます」

 教室に現れた英語教師は、教室後方に立っている三一人の転校生に対して何のリアクションも見せず、平常通りにことを進めていく。

「今日は……教科書の二五ページからですね。では、縫由ぬいゆうくん、教科書読んでもらえる?」

「はい」

 手元の名簿を見ながら、教師が転校生の一人を指名する。

 指名された男子生徒がすらすらと英文を読み上げていく。

「はい。では、ここの構文ですが……」

 教師が黒板を振り返り、板書を始める。

 その説明を聞きながら、僕たちはその内容を手元のノートに書き写していく。

 ちらっと振り返ってみれば、転校生たちは立ったままノートを取り出してペンを走らせている。書き辛いことこの上なさそうだ。

 異常な光景。

 それに誰かが、疑問を呈することはない。

「この文章は、接続詞を用いずに表すことができます。誰か、分かる人はいますか?」

 教師が指しているのは、『彼はラジオを聴きながら勉強をしている』みたいな例文だ。

「どうしたの、誰もいないの?」

 しーんと静まり返る教室。

「あ、あの……」

 その静寂の中に、今にも掻き消えそうなか細い声が慎ましく響く。

 見れば、後方で一人の女子生徒が、奥ゆかしく手を上げていた。

 ええと、あの娘は何て言ったっけ……。

「うん、ああ。君は……知柳ちりゅうさんね。では知柳ちりゅうさん、お願いできる?」

 手元の資料と照らし合わせながら、彼女の名前を呼ぶ。流石に、転校生全員の顔と名前を把握してはいないらしい。

「は、はい……。す、すみません」

 自分で名乗り出たのに、なぜか謝罪。

「そ、そこは、Listening to the radio, です……」

 依然として消え入りそうなその声は、ともすればこの静寂の中でさえも聞き落としてしまいそうだった。

「はい、よくできました」

「す、すみません。い、以後自重します……」

 褒められたにもかかわらず、どこまでも卑屈な少女だった。

「じゃあ、次の文だけど――」

 授業は進行していく。

 クラスの生徒数が突如倍増し、教師に当てられるリスクが半減した教室の中で、僕は気を抜いて考え事に耽っていった。


 その後の授業も概ねそんな感じで執り行われた。

 大量の転校生に、やってきた教師が疑問を抱くでもなく――。

 むしろ古株であるその他の生徒たちと同様に、彼らにも容赦なく質問が浴びせかけられる。

 その反応は様々だ。知柳ちりゅうのように自分を戒めながらそれでも正解を導き出す生徒もいれば、あっけらかんと勉強不足を告白する生徒や、転校初日からやる気なさそうに答える生徒もいた。

 そしてこの日も無事、昼休みがやってきた。

「ふああ、疲れた。さっさと購買行こうぜ」

「そうだねー。もうお腹が空きすぎて陥没しちゃいそうだよ」

 あくまでマイペース。

 しかし今日はそんな風にのんびりもしていられない。

「おい、急いだ方がいいぞ」

 僕は四時間目の授業が終わると、マッハで教科書類を鞄にしまい、立ち上がった。

「え? どうしたの、王子くん」

「どうしたの、っていうか……。早くしないと売り切れちまうかもしれないぞ」

「あ、そっか。じゃあ急ごうか」

 口ではそう言いつつも、海の動くスピードは変わらない。

 僕たちはいつも通りのんびりと、購買へと向かうのだった。


 そして、校舎一階、購買部。

「うわ、こりゃすごいな……」

 僕の危惧は見事現実のものとなった。

 現場は阿鼻叫喚。

 それもそのはず、今日うちのクラスには三一人という驚異的な数の転校生がやってきたのだ。

 これは、その後間もなく分かったことであるけれど。

 そんな異常なイベントが、僕たちのクラスにだけ特別に訪れるはずもなく。

 この学校に存在する全てのクラスに、平等に訪れていた。

 つまり、高等部全体では二〇ほどのクラスが存在するので、その全てにだいたい三〇人の転校生が来たとなれば、全校生徒は約六〇〇人増えたことになる。その数は、当社比で言えばビフォアの倍近い。この学校の食糧事情も必然、厳しいものになることが容易に想像できた。

「何かとんでもないことになってるね」

「まあ、あんだけ転校生が来れば、こんな風になるだろう」

 ドラゴン肉などのファンタジー食材を避けるために、購買に対して常日頃から戦々恐々とした思いで暮らしていたのだが……。この分だと、下手をすればその昼食自体が危ぶまれる。

「とりあえず行くしかないな。さあ二人とも、俺に続け!」

「おーう! 骨は拾ってあげるよ!」

「……おう」

 テンション高めなのが二人と低めなのが一人。そんなパーティで戦場へと赴く。

「ね、王子くん」

「……何だ?」

「わたしたち、この購買で無事お昼ごはんを買えたら……一緒に教室で、優雅なランチタイムとしゃれこもうね」

 見事なまでの死亡フラグだった。

「アホなこと言ってないで、気を引き締めろよ」

 気を取り直して、いざ出陣。

 生徒たちの間に、僅かに開いた隙間から侵入。

「お、王子くーん。わ、きゃ!」

 早速一人はぐれた。

「うぐぇっ」

 あまり出してはいけないような呻き声を上げるまりんの姿を、僕はもう捉えることができないでいる。

「が、がんばれ……。無事を祈る」

「きゅう~」

 僕の激励の言葉に、そんな言葉にもならない答えが返ってくる。どうやら伸されてしまったようだ。しっかりと伏線を回収できたようで何よりである。

「王子、お前は無事か?」

 朱里亜しゅりあの声。

 しかし奴もまた、僕のいる場所からではどこにいるのか全く判断が付かない。

「な、何とかな……。ただ、まりんがやられたみたいだ」

「そうか……。奴はよく戦ったよ。さあ王子、前を向け。奴の犠牲を無駄にするな!」

「ま、まあ、無駄っていうか……」

 この分じゃ戦線に復帰するのは無理そうだから、まりんの分も何か適当に見繕っておこう。

 といっても、とても選り好みしているような余裕はなさそうなので、そこは運任せだ。

「うおおおおおっ!」

 朱里亜しゅりあが裂帛の気合で叫ぶ。

 すると僕の周りで動きが起こった。

 僕の周りにこれでもかというほどに詰め込まれた生徒たちの壁が、奴に弾き飛ばされる形で波を打った。

「さあ王子、俺に続け!」

「しゅ、朱里亜しゅりあか?」

 強いな、あいつは……。

 隊長の言葉に従い、その機に乗じて攻めに転じる。

 しかし朱里亜しゅりあほど上手くはいかず、どうにか陳列棚の一歩前まで辿り着くだけで精一杯だった。

「お、おにぎりコーナー、か……」

 人並みを搔き分け、間隙を縫ってどうにか棚まで手を伸ばす。

 その中から適当に掴み取り、合計で五つのおにぎりを確保した。

 これがせめて、普通の食材であることを祈るばかりである。


 どうにか会計を済ませた。

 完全に伸びて、廊下に放り出されていたまりんを担いで教室へと戻る。

 そのまま彼女の席まで運んでいく。

「はっ! わ、わたしは、一体……」

 まりんがようやく目を覚ました。

「ここは誰……? わたしはどこ……?」

「購買という戦争に負けて、放り出されてたんだよ」

「そ、そうだったの……。王子くん、朱里亜しゅりあくん、この度はどうも、お世話になったみたいで……。ごめんね」

「うん、まあ、気にすんな。あれはどうしようもないさ」

 会計を済ませて廊下に出てみれば、まりんの他にも何人か廊下に倒れていた。それはまさに地獄絵図。先程の朱里亜しゅりあの『戦争』という比喩がぴったり当て嵌まる。

「ああそれと、これ。適当に買ってきたから好みのがあるか分かんないけど……。まあ、遠慮せずどれでも好きなの選んでくれ」

 僕がこの日勝ち取ったもの。

 ドラゴン焼肉おにぎり(出た!)が一つ。

 クラーケンマヨネーズが二つ。

 焼きレモラのハラミが二つ。

 ちなみにクラーケンとは北欧の伝承に登場するイカの化け物で、島と見紛うほどの桁外れな巨躯を誇る。そしてレモラは古代ローマやギリシアにおける伝説の怪魚で、一匹だけで大型船にも匹敵するほどの途轍もない怪力を有する。

 もうそれらの文言だけで怪しい雰囲気ばりばりだ。既に胃がもたれてきたような気さえする。

「え、わたしの分まで買ってきてくれたの? ありがとう、王子くん。えっとね、じゃあねえ、わたしはこれと、これ!」

 そう言って彼女が手に取ったのは、ドラゴン焼肉とクラーケンマヨネーズ。まあ、ドラゴンの方は絶対取ると思っていた。

「じゃ、僕はこれだな」

 手元に残されたクラーケンマヨネーズ一つと、焼きレモラのハラミ二つ。

 結局まともな食材のものは手に入れられなかったから、どう転んだところで僕はこのファンタジー食材を口にしなければならない。しかも、何度か食べたことがあってある程度勝手が分かっているドラゴンを海が持っていったから、残されたのは僕にとって全く未知の食材だ。

 案の定。

 午後の授業は胃もたれに悩まされながら受けることとなった。

 まあ、クラーケンだのレモラだのそんなものを胃袋に押し込んで、胃もたれ程度で済んだのは僥倖と言えるのかもしれない。

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