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 その数日後、日曜の夜。

 宿題も済ませてしまい、特にやることもなくてベッドの上に転がっていると、携帯電話がけたたましく鳴り響いた。

 のそのそと起き出し、ディスプレイを確認する。

 そこに表示されていた名前は、随分と懐かしく感じられた。

 入谷亜澄いりやあすみ

 子供の頃から隣の家に住んでいた、いわゆる幼馴染。

 この五月にこっちに越してくるまでは、一緒に学校に行き来したり、一緒に授業を受けたり、一緒に弁当を食べたり、とほぼ毎日のように顔を突き合わせていた。

 離れ離れになってから、まだ一ヶ月と経っていないのに、そんな日々は遠い昔だったような気がする。こっちへ来てから、色々とあったせいだろうか。

 そういえば彼女からの連絡というのも、引越しの日にメールを貰って以来だった。

 元々毎日のように顔を合わせていて、何か用事がある時には直接話をすることが多かったものだから、メールをしたり電話を掛けたりする習慣がなかったのだ。

 画面に表示された、緑の通話マークをタッチ。

 スピーカー部分を耳に当て、再度ベッドに転がりこむ。

「もしもし」

『あ、もしもし。私だけど』

「あ、ごめん。お金なら用意できないんだ……」

『詐欺違うわ!』

 相変わらずの威勢のいい反応に、顔が思わず綻ぶ。

『私だよ。亜澄』

「ああ、久し振りだな」

『うん、久し振りだね。ふーくん、全然電話とかくれないんだもん』

「それはそっちも同じことじゃないか」

 ちなみにふーくんというのは僕のことだ。

 最初は本名をもじったものだったと思うのだが、次第に変遷して、最終的には全く原型のないものへと変わり果ててしまった。

『だって、転校したばっかりで忙しいかなあ、とか、私なりに色々考えてたんだよ』

「ん、ああ……。まあ、忙しかったと言えば忙しかったけど。何というかさ、いろんなことがあったからな」

『ふーん。そうなんだ?』

 ええと何だっけ。

 こっちに来てから起こった出来事。

 お隣さんと出会って。

 同級生にお札を貼られて。

 変な食べ物を食べて。

 ドラゴンを見かけて。

 学校にバジリスクが現れて。

 ダンタリオンの迷宮に迷い込んで。

 東京にいたんじゃ、一年どころか十年経ったって経験できないような密度の濃い経験を、僅か一ヶ月足らずの間にしてきたのだ。少し冷たく聞こえるかもしれないが、この幼馴染のことなんか思い出すような余裕はあまりなかったと言える。

「何か、すごいぞこっちは……。不思議なところだよ、この緋紗納ひしゃな県っていうのは」

『そうらしいねえ』

 こともなげに言い放つ。

『と言っても、私はほとんど何にも知らないんだけどね。その県の人が外に出てくることってあんまりないから。ね、緋紗納ひしゃな県ってどんなとこ?』

「そうだな……。まず何から話したものか」

『うんうん』

 実に心地の良い合いの手。

 何でも話したくなってしまう。

 我が幼馴染ながら、聞き手としては百点満点だ。

「そうだ。ドラゴン肉、食べたよ」

 できるだけ何でもないような言い方を心掛ける。

『へー、ドラゴンのお肉を……。ね、どんな味した?』

「とにかく癖が強くて……。あれ食べた次の日には、胃もたれが酷かったよ。姫のやつは好んでよく食べてるんだけど、僕には合わないみたいだな」

『そっかそっか。姫ちゃんも元気そうだね』

「元気過ぎて困ってるくらいさ。……ありゃ、ドラゴン肉の食べ過ぎかな」

『あはは』

 彼女は、この異常とも言える僕の体験談を、普通に受け入れた。

 やはり彼女も、妹や両親と同じように、この緋紗納ひしゃな県に関する違和感は抱いていないようだ。単に、自分たちとは文化が多少異なる、興味深い地方という程度の認識だ。

『でも、いいなー。ドラゴンのお肉なんて、こっちじゃ手に入らないもんね。私も食べてみたいなあ』

「やめといた方がいいと思うけど……」

 とは言ってはみたものの、恐らくは彼女も、妹たちのようにあの食材を快く受け入れ、難なく消化してみせるのだろう。

「まあ、こっちじゃ普通の鳥肉とか豚肉の方が少ないくらいで、スーパーとか行けば変わった食材のオンパレードだぞ」

『うわー、楽しそうだねえ。料理魂に火が付きそうだよ』

 亜澄の趣味は料理で、僕は何度も彼女の料理を口にしたことがある。それはかなりの腕前なのだが、彼女の手に掛かればあのドラゴン肉も多少はマシな仕上がりになったりするのだろうか。

『ねえ、ふーくん。今度、夏休みになったらそっちに遊びに行ってもいいかな』

「まあ、いいけど……」

『何か含むところがありそうだね』

「いや、別に何もないよ」

 ただ……こっちはおかしなことだらけだ。いつまたドラゴンやバジリスクが襲ってくるか分かったものではない。有事の際に、そんな化物から幼馴染を守りきれるほどの力を、僕は有していない。

 まあそれでも彼女は、そんな光景を目の当たりにしてもさほど驚いたりはしないのだろうけれど。

『じゃ、約束ね。……その時は案内よろしくね』

「ああ、分かった」

『うんっ!』

 喜んでいるのが、電話越しにも伝わってくる。

 あの笑顔がまた見られるなら、こんなわけの分からない町を案内して回るのもいいかもしれない。

「なあ、亜澄」

『何、ふーくん?』

「――この県って、いつからあったと思う?」

 話題を切り替えて、そんな質問をぶつける。

 僕の認識では、早くともここ数ヶ月の間に突如出現している。普段から日本地理について細かくチェックしつづけていたわけではないから正確なことは分からないけれど、高校に入ったばかりの頃には、まだ存在していなかったはずである。

『いつからって……。どうだろうね。明治維新のころとかじゃないの? いや、その後の統廃合で出来たのかもしれないけど。……どうしたの、いきなり?』

 真意が伝わるはずもなく、不思議そうな声が僕の鼓膜を刺した。

 無理もなかろう。

 今僕が投げかけた質問は、例えば『神奈川県っていつからあったっけ?』みたいな、意図の分からないものだ。緋紗納ひしゃな県の存在を疑問に感じていないものにとっては、その自治体がいつ成立したのか――ただそれだけの、日本史に関する話題にしかならない。

「じゃあ、この県について、どのくらい知ってる?」

 ダメ押しとばかりに、問うてみる。

『そうだなあ。さっきも言ったけど、緋紗那ひしゃな県の人はあまり外に出てこないし、ふーくんみたいにそっちに行く人もあんまりいないもんねえ。私が知ってるのは、だからせいぜい学校で習う知識くらいかな。人口がどのくらいで、面積はどのくらいの広さがあって、大公の華良緋からひ家が政治のトップに立っている――とか』

「そうか。その通りだな」

 やはり学校で習っているらしい。その華良緋からひ家のお姫さまと実は同級生なのだ、ということはまあさておくとして。

 あの転入初日、大公の存在を聞き及んでから、それまで使っていた教科書に目を通してみたけれど、そこには僕の記憶とは異なる記述が付け加えられていた。……いや、恐らくは最初からあったことになっているのだろう。

 つまりは、この県のおかしな政治体制も、僕の知らないうちに人々の中に浸透しているのだ。この事実を不自然だと感じているのは、やはり僕一人。

 僕の疑問が解決される日は、来るのだろうか。


『あ、もうこんな時間。すっかり長電話しちゃったね』

 時計を見れば、今にも日付が変わろうとしていた。

「ん、ああ、ほんとだ」

『明日はまた学校だね。そろそろ寝ないと……。じゃ、またメールとかするね。そっちに遊びに行くの、約束だからね!』

「はいはい。じゃ、またな」

『うん。ばいばーい』

 電話が切れる。

 引っ越してきてから色々ありすぎて、心身ともに疲れきっていたけれど、懐かしい声が聞けて少し元気が出てきたような気がする。これで明日からの試練も乗り越えていけるだろう。

 確認したかったことも確認できたしな。

 相変わらず謎は深まるばかりだが……。

 気が付くとこちらへ来てから既に二週間が経過しようとしていた。

 曲がりなりにも、この異常な環境にも慣れ始めた頃であったのだが――。

 この二週間の出来事が、この県で巻き起こるおかしな出来事の、ほんの片鱗でしかなかったのだと、僕が理解するのは――もう少し後になってからのことだった。

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