事件 - Monsters -

1

「ああ、気持ち悪い……」

「どうしたの、王子くん?」

 翌朝、前日の食卓に並んだファンタジー食材にすっかりやられてしまった重い胃を擦りながら通学路を行く。この日もまりんが僕の隣を歩いている。これからはこういう日々が続いていくのだろうか。

「いや、どうもこっちの食材っていうのが身体に合わないのかな……。昨日、うちでもドラゴン肉食べたんだけど、それからずっと、胃が痛くてさ……」

「あちゃー、それはご愁傷様だねえ」

「死んでないから」

「あ、そっか、まだ死んでなかったね」

「これから死ぬことは確定なのか?」

 そんな他愛もない会話を交わしながら、二度目となる通学路を消化していく。

 ちなみに妹は、既に友達ができたようで、今朝はその友達と一緒に学校へ行くと言って僕よりも先に家を出ていた。

「大丈夫だよ。腹筋とかやって鍛えれば……きっとドラゴンのお肉にだって負けない、強靭な胃袋がキミのものに!」

「そういう問題か?」

 この娘とは知り合ってまだ三日目だ。

 しかしそこは僕の社交性のなせる業か――あるいは彼女の気さくな性格のおかげか、こんな馬鹿げたやりとりができるまでに打ち解け合っている。……まあ、きっと後者なのだろう。

「ドラゴンのお肉はねえ、たっぷりのにんにくと唐辛子で味付けして、唐揚げとかにするのが一番おいしいよ。今度作ってきてあげるね」

「遠慮しとくよ。……今度こそ胃袋が崩壊しそうだ」

「うーん、そうなの? じゃあねえ――」

 どうにか僕にドラゴン肉を食べさせようと海が試行錯誤を繰り返している。

 何だか子供に野菜を食べさせようとする母親みたいだ。


 学校への道もおよそ折り返し地点に差しかかった辺り。

 僕の鼓膜が、何やら尋常でない物音を捉えた。

 物音というか、猛獣の呻き声のような重低音が住宅街に響き渡っている。

「な、何だ? 何の音だ?」

 生き物の鳴き声のように聞こえるが、とても野良犬のような可愛らしい動物のものとは思えない。もっと獰猛で、凶悪な何か。トラやライオンでも、まだ可愛らしく思えるほどの邪悪な呻き声だ。

「んー、何だろうねえ」

 しかしそんな僕の心配をよそに、まりんは呑気な声を発している。

 ひょっとするとこんなことも、彼女にとっては日常茶飯事で、いちいち慌てふためくようなことではないのかもしれない。

 突如、その呻き声とはまったく別種の、轟音が耳を刺した。

 その次の瞬間、僕たちの進行方向の数十メートル先で紅蓮の炎が巻き起こった。

「うわー、派手にやったねえ」

 そんな光景を目の当たりにしてもなお、まりんは動じる素振りを見せない。

「いや、そんな悠長な……」

 対する僕にはそんな余裕などあるはずもなく。

 まるで空爆にでもあったかのような、現代日本の平和な社会には到底あるまじきその異常な光景にただただ圧倒されていた。

「グルルルル……」

 また呻き声が聞こえた。

 先程よりも大きい。

 その何かは、どうやらこちらへと接近しているようだ。

まりん、逃げよう」

「え、何で?」

「いや、何でって……」

 明らかに、僕たちの生命に危機が迫っている。

 ここはまりんを説得しているような場面ではなかった。

 僕は半ば強引に海の右手を取ると、いまだ納得しかねているという風の表情を浮かべたままの彼女を引っ張って走る。

 とはいえ、どこへ逃げたものか。

 呻き声は空中から聞こえたような気がするから、どこへ逃げても無駄なのかもしれないけれど、それでも集合住宅と集合住宅の合間にできた、幅一メートルほどのスペースに二人で逃げ込んだ。ここならどうにか、姿を隠せそうだ。

「お、王子くん……。そ、そんな、わたしたちまだ出会ったばっかりだし、その、お昼から、しかもお外でなんて……」

「ちょっと君は黙ろうか」

 少し上気した顔でボケたことを言う隣家の住人を片手で制し、顔半分だけをそのスペースから覗かせて空を見やる。『優しくしてね』などと、それでもマイペースを崩さない彼女に構っている余裕など、これっぽっちもない。

「な……」

 絶句。

 もう、それしか僕にできることなどなかった。

 呻き声の主は――そして恐らく先程住宅街に炎を放った主は、ここから数十メートル先の空に浮かんでいた。

「あれ、どうしたの、王子くん?」

 アスファルトの地面に膝を折って、妙に煽情的なポーズを作った海が、きょとんとした表情で尋ねてくる。

「ど、どうしたも何も……」

 漆黒の、鋭利な鉤爪。

 巨大で、禍々しい翼。

 この世の終わりを示唆するような邪悪な瞳が、閑静な住宅街を睨め回している。

 トン単位はあろうかというその巨躯は、しかし両翼の激しい羽ばたきによって空中に繫ぎ止められている。その羽ばたきの余波は、この距離でもある程度感じられるほどである。

「ドラゴン……」

 今現在、僕の胃袋のタスクを最大限にまで引き上げている原因たる、ドラゴン。

 それが生きた状態で、僕の前に君臨している。

「え? あ、ほんとだ。ドラゴンだ」

「驚かないんだな……」

「うーん、こんなことってよくあることだしねえ。あー、そっか。えっと、東京にはドラゴンっていないんだっけ?」

「東京には、っていうか……」

 普通はどこにもいないと思うのだが。

 こんなものが街に現れたら一大事だ。

 自衛隊が出動し、街は政府権限によって封鎖。逃げまどう人々をよそに、各種メディアがヘリコプターによる空撮を試みる。そんな怪獣映画などでお馴染みのイメージが、脳内で展開される。

 しかし現実には――僕の隣で同様にドラゴンを見上げている少女は、逃げまどうどころか動揺する様子すらない。ただ、通学路上で野良猫でも見かけたような、その程度の興味でもって、その異形の存在を見つめている。

 今は学生たちの通学時間であって、見ればこの辺りには僕たちの他にも制服を着た人間たちがちらほらと確認できた。

 しかしその誰もが、まりんと同じく、少しも動じることなく日常を平常運転で過ごしている。

「なあ、これってどうなるんだ?」

 いくら何でも、このままあの怪物を放置しておくわけにもいかないだろう。

「あ、大丈夫だよ。もうすぐ、来ると思うから」

「……来る?」

 何が? と問いかけようとしたその時、近くから複数の人間の足音のようなものが聞こえてきた。

 そちらの方へと注目してみれば、何やらスーツをびしっと着こんだ大人たちが、それぞれ剣だの槍だの斧だの物騒なものをその手に大集合していた。

「目標、前方七六、高度五〇。後衛はこの位置で待機。前衛は私に続け!」

 その謎の集団の長らしき長身の男はそう言うと、ドラゴンに向かって駆け出す。そんな隊長に続いて、剣や槍などの近接武器を持った数人もまた走り出した。弓や銃などの長距離武器を携えた人間はその場に残る。

「な、何だありゃ……」

 突撃していった隊長以下数名は、ものすごいスピードでドラゴンに接近。超人的な跳躍力で屋根から屋根へ飛び移り、ついには集合住宅の屋上へと至る。ドラゴンまで、推定数メートルほどの距離まで詰め寄った。

「撃ち方、始め!」

 その位置からでもここまでよく通る大きな声で、隊長が叫んだ。

 するとその声に応え、こちら側に残った者たちがその得物を構え、ドラゴンに向かって一斉射撃を開始する。

 そこから飛び出した矢や銃弾がドラゴンに命中。

 空中に我が物顔で君臨していた怪物は、それまでとは全く異なる苦しげな呻き声を上げて降下を開始した。

「撃ち方、やめ!」

 すると今度は、降下を開始した目標に向かって、前衛陣が飛びかかる。その得物でもって、ドラゴンを狩りにかかる。

 七階建ての集合住宅の屋上で、ファンタジー映画さながらの死闘が繰り広げられている。一対多数という圧倒的不利な状況にも関わらず、ドラゴンは全く怯む素振りを見せない。

 そんな状況が数分続いた。

 ついにドラゴンが膝をつき、しまいにはその場に倒れ込んだ。

「目標、沈黙! 各自、巫女の到着まで待機!」

 隊長の声。

 しかし、屋上に集った兵たちは武器をしまうことはせず、構えたままで目標を見守っている。緊張状態は解かれていないらしい。

 それでも、その光景を一部始終、息を吞んで見守っていた僕は、ここでようやくほっと安堵の溜息をついた。

 これで危機はひとまず去ったのだろうか。

 ドラゴンはぴくりぴくりと僅かに動くだけで、立ち上がる体力すら残されていないらしい。巫女がどうとか言っていたけれど、これからどうするのだろう。

「な、なあ、あれは一体……?」

「ああ、あの人たち? あの人たちはね、県庁の人だよ」

「県庁?」

 今時の県庁職員の業務内容には、魔物との戦いも含まれているのだろうか。

「えっとね、緋紗納ひしゃな県庁『討伐課』の職員さんたちだよ」

「『討伐課』……」

 聞き慣れない部署だ。

 まあ、内容はともかく、彼らがスーツを着こんでいた理由はこれではっきりしたわけだけれど。

「巫女っていうのは?」

「ドラゴンみたいな魔物の魂を、闇に還す人のこと。ああやって肉体をやっつけちゃうことは県庁の人でもできるんだけど、闇に還すことができるのは、ちゃんとした訓練を積んだ、巫女さんだけなんだよ。……あ、ほら。ちょうど来たみたいだよ」

 言われて、集合住宅の屋上に目を凝らす。

 すると、確かに武器を携えた職員たちの輪の中に、新たな人影が見える。

 巫女というからには和装なのかと思ったのだけれど、新たに現れた僕たちと同年代くらいのその少女は、見覚えのある制服を身に纏っている。

 同じ学校の生徒なのだろうか。

 この距離では顔までは判別できない。

 できたところで、まだ転入したての僕では、それが誰なのか判断することはできないだろう。

 その少女がドラゴンに対して何かをすると、魔物の巨体は禍々しい黒い霧のようなものに包まれていった。黒い霧が消失すると、後にはドラゴンの抜け殻が、ただ横たわっているだけだった。もう、ぴくりとも動かない。

「あれが、巫女さんのお仕事なんだよ。これで、魔物の魂は闇に還ったんだ。後は、業者の人が回収して、みんなの食卓に届けられるってわけ」

「は、はあ……」

 とりあえずあの謎食材の出所は分かった。

 しかし、この県に関する謎は深まるばかりだ。

 この県は一体何だというのだ。

 外とは常識が違いすぎる。

 まるで、異世界にでも迷い込んでしまったような、そんな違和感が僕の脳内で渦巻いている。

「もう大丈夫だよ。あとは、県庁の人たちが魔物の被害を修復してくれるよ」

「そうなのか……」

 だめだ、もう理解が追いつかない。

 マンガやアニメのような出来事が、僕の目の前で展開されていた。

「じゃ、王子くん。学校行こう。早くしないと遅刻しちゃうよ」

「そうだな……」

 事もなげに言い放つまりんに促され、僕たちは通学路に復帰した。

 この日、僕は一日中ドラゴンのことを考えていて、授業などほとんど頭に入ってこなかった。

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