2
翌朝。
真新しいブレザーに袖を通した僕は、転入二日目にして早速新しい学校へと向かっていた。諸々の手続きは以前から両親が進めていたし、残りのものも昨日のうちに済ませてある。
兄妹を乗せたエレベーターが下っていく。
「お兄ちゃん、その格好何かおかしいね」
そんなことを言う我が妹もまた、真新しい制服に身を包んでいる。こちらで通うことになる中学校の制服だ。初日から転校先の学校の制服を着用しなければならない、という決まりは特にないのだが、そこは両親の、僕たちが早く新しい学校に溶け込めるようにという心温まる計らいによるものだ。
「お前だって似たようなもんだぞ。……まあ、そのうちに慣れてくるさ」
「そうだね。あ~、あたし転校って初めてだから緊張するなあ」
「僕も初めてだ。いつも通りでいれば大丈夫だよ。たぶんな」
とはいえ、五月という中途半端な時期の転校だ。クラス替え直後で全員が手探り状態の四月とはわけが違う。かく言う僕も、多少の不安を抱えているのだ。
「そっか。えへへ、ありがと」
内なる僕の不安など知る由もない不肖の妹は、満足そうな笑みを浮かべる。
そうこうしている間にも僕たちを乗せたエレベーターは下降を続けていく。
やがて安らかなチャイムが、一階への到着を知らせてくれた。昨日も聞いた音だが、このホテルのエレベーターのような音は、典型的な庶民たる僕の身の丈に合わないような気がして、少しむず痒い。これも、毎日聞いているうちに慣れてくるのだろうか。
エントランスの自動扉を二人並んで出る。
「そうだ、お前、父さんから受け取ったパスコードとカードキー、ちゃんと持ってるか?」
ふと心配になって、そんなことを聞いてみた。
「大丈夫だよー。もう、心配性なんだから。あたしだってもう子供じゃないんだよ」
ほらほら、とか言いつつ胸ポケットからパスコードが書かれたメモとカードキーを取り出して見せつけてくる。そんな光景はどこか微笑ましい。
「そうかい。そりゃ頼もしいことで」
「うーん、いい天気だね。五月晴れってやつかな」
五月の
「ね、お兄ちゃん。学校までの道、分かる?」
「まあ、大体は分かってるつもりだけど。……とは言っても昨日地図見ただけで、まだ実際に歩いたわけじゃないからいまいち確実じゃないんだけどさ」
「そっか、じゃあ何とかなりそうだね」
今日から僕が通うことになっている学校は、この県では割と名の通った公立校であるらしい。そしてこの学校には初等部から高等部までが存在し、僕は高等部、妹は中等部にその籍を置く。
そしてこの記念すべき転校初日、僕は父から、妹を無事学校へ送り届けるという大役を仰せつかっている。とはいってもまあ、中等部と高等部は同じ敷地内に存在するので、どうせ僕の目的地もほぼ一緒なのだけれど。
「こっちだ。ちゃんとはぐれないようについてこいよ」
父に渡された簡易的な地図を手に、妹を先導する。
「はーい」
この新たな根城たるマンションの敷地を出て、道路へ。
妹と他愛もない会話を繰り広げながら歩を進め、丁字路に差し掛かった辺りで――。
右側からものすごい勢いで飛び出してきた何かが、僕の胴体に直撃した。全く身構えていなかったために踏ん張りが効かず、僕は路上に投げ出された。臀部をアスファルトに強打し、鈍い痛みが下半身を駆け廻る。
「いてててて……」
飛び出してきたのは学生服を着た少女。
ご丁寧にも、お約束というのか何と言うのか――その口にはバターたっぷりのトーストが咥えられている。
まだ女子制服の実物を見たことはないけれど、今僕が着ているものと一部デザインが共通しているから、きっとこれから通うことになる学校の生徒なのだろう。
というか。
「いてて……。悪いな、慣れない道なもんで、地図見ながらだったから……。周囲への注意力が散漫だった。大丈夫か……?」
その少女には見覚えがあって。
「ええと……
その少女こそ、昨日、うちに挨拶にやってきた少女――
「あはははは。おはよう」
「うん、おはよう」
気まずそうに笑ってみせる
「あれ、お兄ちゃん、この人知り合い?」
ベタにベタを重ねて既に真っ黒としか言いようのないラブコメ的場面を一歩離れたところでじっくりと観察していた妹が、そんな質問を投げかけてくる。
「そういえばお前は昨日あの時、もう寝てたんだっけ……」
「昨日?」
「うちに挨拶に来たんだよ。お隣さんで、僕と同じ学校の――」
「
差し出した僕の手に掴まり立ち上がると、
「お兄ちゃんの妹の、姫です」
「そっか、よろしくね、姫ちゃん」
「よろしくお願いします」
ぺこぺこと、水飲み鳥のようにお辞儀をし合い、初対面の儀式を執り行っている。
「姫ちゃんかー。じゃ、お兄ちゃんは、王子くんだね」
「……はい?」
スカートをぱたぱたとはたいて整えながら、何だかよく分からないことを言い出す。
「妹さんが姫ちゃんだから、お兄ちゃんは王子くん。昨日名前聞いたけど、何か難しくて覚えにくいし呼びにくいから、これからは王子くんに決定しました」
そんなに覚えにくいか、僕の名前?
しかし、よくよく考えてみれば東京でも、僕を本名で呼ぶ人間は両親くらいなものだったな。
「まあ、何でもいいけどさ。それはそうと、こんなところでのんびりしてたら学校、遅れちまうぞ」
「あ、そうだね。……ね、王子くん」
……。
あ、僕か。
それが自分を指し示す呼称であることを理解するのに一瞬のラグが生じた。
「どうした?」
「えへへ……」
そのニックネームを僕が受け入れたことに満足したらしく、
「越してきたばかりで、まだ道とか分からないでしょ? わたしが学校まで案内してあげる。えっと、その制服……姫ちゃんは中等部だよね」
「はいっ!」
「助かるよ」
「助けるよー」
そんな気の抜けたコメントと共に
トーストを頬張りながらガイド役を務める呑気な少女に、僕たち兄妹はカルガモの子供のようについていく。
「お兄ちゃん、何か可愛い人だね」
隣を行くカルガモ(妹)が耳打ちをしてくる。
「そうかね」
口ではそう言いつつも、こちらも同じ感想だった。
「うん。やったねお兄ちゃん。これからの学園生活はバラ色だよ」
改めて、軽いスキップなどを決めながら先導する少女の背中を見つめる。
まあ、見た目の話だけでなく、そういた所作も含めて可愛らしいと思う。
頭上でぴょこぴょこと踊るアホ毛がまたチャーミングだ。
そういえば、一つ気になることがあったのだった。
「なあ、ええと……
「
「そうか。なら、
マンションのお隣さんなのだから、外出時には同じところから出て、同じ方向へと向かうはずだ。コンビニにでも買い物に行っていたのかとも一瞬考えたけれど、彼女が咥えていたトーストは、明らかに家で準備してきたものだ。
「え、だって――」
きょとん、と。
僕が何に疑問を抱いているのか分からない、とでも言いたげな、純粋無垢な表情を浮かべて、海が言葉を続ける。
「県外じゃ、転校生にはトースト咥えた女の子がぶつかるのが慣わしなんでしょ?」
平成のこの世で、僕は往年のギャグマンガよろしく、盛大にずっこけたのだった。
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