当惑 - Mystery -

1

 県境を越えて、そこから更に約三〇分。

 僕たちを乗せた車は、とあるマンションの駐車場へと到着した。

「ここだ。ここが俺たちの新しい家だ」

「うわー、すごーい」

「さあ、降りましょう。引越し業者さんももう来てるみたいね」

 口々に何かを言いながら、家族が車から降りていく。

 僕は何も言わず、三人に続いた。

 ようやく自動車という狭い空間から解放された。

 改めて、この新天地を見渡す。

 ごく普通の住宅街、といった感じだ。

 見た限りでは、東京と比べて特にこれといった違いは見られない。

 まあ人口は天と地ほどの開きがあるから、それに起因する差異はある。しかしそれは単なる都会と地方の差異である。

 荷物を手に、マンションのエントランスへ。

 父が入口のテンキーに何らかの数字を打ち込むと、綺麗に磨き上げられたガラスの自動扉が僕たちを迎え入れてくれる。

「ここの番号な、あとで教えとくから。なくしたりするなよ。入れなくなるぞ」

「気を付けるー」

 その立派な外見に見合った最新式の設備もまた、東京にあるものと何も変わらないように見える。

 僕の疑念は、単なる杞憂なのだろうか。

 一県増えたような気がしているのは、地理の勉強を疎かにしていた僕の記憶違い。

 この県に関する情報がほとんど手に入らなかったのは、僕の探し方が下手だっただけ。

 そう考えれば、全ての疑問は解消される。

 本当に、そうなのだろうか。


 エレベーターがやってきた。

 沢山並んだスイッチのうち、父が一三階を示すものを押下すると、淡いオレンジ色のランプが灯り、やがて僕たち四人を乗せた金属の箱はワイヤーに引き上げられて上昇を始める。

 人の出入りが少ない時間帯だったためか、目的地である一三階に至るまでの間、エレベーターが停止することはなく、スムーズに進んでいく。

 高級ホテルのような心地よいチャイムが鳴り、扉が独りでに開く。

「ええと、部屋は……と」

 ポケットから取り出したカードキーを眺めながら歩き出す父に、僕たちはまたついていく形になる。

「ここだ。一三〇六号室」

 扉の横に設置された機械のスロットに、カードキーをスラッシュ。ピピピという甲高い音と共に赤いランプが緑へと切り替わり、ついでガチャンと金属が落ちるような音が響いてきた。ロックが外れたのだろう。

「うわー、すごーい」

 先程と同じような反応を見せながら、妹が我先にと中へ這入り、どこで覚えたのか華麗なステップで小躍りなどをしている。

「ほらほら、危ないわよ」

 それを窘める母の声も、しかしどこか浮かれているように聞こえた。

 やれやれ、といった心持ちで、僕も後に続いていく。

 外観に負けず劣らずというか、内装も立派なものだ。おまけにリビングは東京で暮らしていた家の二倍はあるのではないかというほどに広い。小洒落た照明器具と、丁寧に磨き上げられた対面式キッチンが高級感を一層引き立てている。

「お前たちの部屋は……。ここか、ここだな。まあ、どっちがどっちにするかは二人で話し合ってくれ」

「はーい。ね、お兄ちゃん、あたしこっちがいい。こっちの方がかわいいから」

「好きにしたらいいさ。じゃあ、僕はこっちの部屋だな」

 よく分からない理由で部屋を選択する妹に、いつもと変わらない調子で同意する。

 晴れて自室を獲得して、そこに荷物を置いてのんびり過ごす。

 やがて、玄関のチャイムが鳴った。引越し業者がやってきたのだろう。

 それからは家具や大量の段ボールが運ばれてきた。

 業者が運んできたダンボールはこちらで仕分けして、あるべきところへと配置する。家具は僕たちの指示で業者がやってくれる。

 てきぱきと作業は進んでいき、さほど時間も掛からずに引っ越し作業は完了した。

 あとは僕たち個人個人での荷解き作業だけだ。

 リビングに集い、お茶菓子を摘まみながら、この日の頑張りを労いあう。

「さて、そろそろ父さんたちはご近所さんに挨拶して回ってくるけど、お前たちはどうする?」

 一息ついて、いい感じに全身の筋肉が弛緩し始めた頃、父が切り出した。

「あたしもう疲れちゃった」

「僕もいいや。家にいる」

 何とも反社会的な兄妹である。

「そう、じゃあお留守番お願いね」

 そんな僕たちを咎めるでもなく、柔らかに微笑むと、母は父と連れだって出ていった。


 それからしばらく、自室でだらだらしていると、玄関のロックが外れる音が聞こえた。

「おーい、起きてるかー?」

 玄関から父の声がする。

 動き出すのが面倒だったので、寝たふりをしてやり過ごそうかとも思ったのだが……。

 何やら僕の名前を呼んでいるようだ。

 仕方がない、行こう。

「どうしたの、父さん?」

 玄関へと向かってみれば、そこには父と母がいて、そしてその二人の間に、見たことのない少女が立っていた。

「お隣さんよ。あなたと同じ学校で、同じ学年なんですって。そんな話をしたら、是非ともご挨拶に伺いたい、って」

「ああ、そうなんだ」

 そういうことなら、ここで悪い印象を与えておくわけにはいかないな。

 気を取り直して、その少女へ目線を向ける。

 少し小柄で、華奢な少女。

 しかし、言われてみれば、確かに僕と同年代くらいに見える。

 どこかあどけなさを残した双眸が印象的で、加えて一部が跳ねたセミロングの髪がチャームポイントだろうか。

 この県の人間に会うのはこれが始めてだ。

 どういう訳だか、しっかりと地図上に存在し、その存在を全国民が認識しているにも関わらず、この県の人間に会ったことがある者はほとんどいない。彼らは、滅多なことでは県外には出てこないらしい。

 しかし、彼女を見る限り、僕たち県外の人間と、何ら変わりのないように思われる。流石に角や翼や尻尾が生えているのではないか、みたいなことを本気で考えていたわけではないけれど。

「えっと、よろしく。僕は――」

 名前を告げ、簡単に自己紹介を済ませる。

「うんっ! これからよろしくね」

 実に魅力的な笑顔で微笑んでくれる。

 後光が差したような眩しさに、直視できなくて思わず明後日の方角へ目線を逃がす。

 これが、生涯忘れることのない、彼女との出会い――。

 春羅木はるらぎまりんとの、初邂逅だった。

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