第18話 格子戸#の向こうの女 2(コウシドノムコウノヒト2)
さゆりは、仏壇にお線香をあげてから、玄関の掃除を始めた。
打ち水のしぶきが、朝陽に照らされて光り輝く朝だった。
主人が亡くなってから、まだ中陰の忌明けにもなっていなかった。
彼女はこの期間も、主人と繋がりのある人々に上手く応対しながら、最後まで良き妻として過ごしていくつもりだった。
長い夫の介護の期間があり、彼女はとうに女を捨てたつもりでいた。
それでも、化粧をして和服を羽織り、小綺麗にすることで、自分のアイデンティティを保ってきた。
真面目で几帳面な性格の彼女は、けして淋しさや気弱なところを人にみせたくなかったのだ。
そんなさゆりが、唯一、心を開く存在がいた。
毎朝、彼女が庭を掃き清めていると、小さな池の周りで、黒いヤモリをよく見かけた。
子供がいないさゆりは、いつしか、このヤモリに話しかけるようになり、朝になり庭に出てヤモリがいないと、探すようにまでなっていた。
「ヤモリちゃーん、どこかな〜🎶」
さゆりにとって、ヤモリはいつしか擬人化されていて、人間味を帯びてきているように思われるのだった。
だが、じつは、彼女のほうが、ヤモリに近づいて、それに似た性質さえもつようになってきたのである。
もともと人間には、この世界に存在する全ての生き物の性質が備わっている。
だから、あらゆる動物の鳴き声を真似できたり、その生態を理解できるのだった。
さゆりは毎日ヤモリに接することで、自らの中にあるヤモリに似た性質がひきだされてきたのだった。
格子戸#の外は、ヤモリにとっては別世界だった。
ヤモリは、いつも草むらから目を凝らして外の世界を観察している。
新聞配達員、セールスマン、回覧板を持ってくる隣のおばさん......彼にとっては、みんな知った顔だった。
ある夜の更けた頃に、ヤモリはさゆりの寝室へと足を運んだ。
彼は音も立てずに部屋に入ると、鏡台の上から彼女を覗きこんだ。
白いさゆりの顔が暗い寝室の中に浮かんでいた。
ヤモリが夢の中で彼女に語りかける。
「さぁ、これから、どうしようかな?」
「わからないわ......わからない」
「やっと自分の人生が始まるんだよ」
「そう、そうなのね。
ゆっくり考えてみるわ」
さゆりとヤモリの会話は続く。
「ぱぁ〜っと、恋に花を咲かせるのも、いいんじゃないかな?」
「はぁ、そんなこと、いまさら......」
そう言いながらも、さゆりの躰の中には、まだ女の炎が消えずにくすぶり続けていた。
なにかのキッカケさえあれば、それは身を焦がすほどに燃え盛るはずだった。
さゆりは何度も寝返りをうち、自分の肩を抱きながら夜明けを迎えた。
その日、Jが彼女の家にやって来たのだ。
彼は信頼できそうな男で、後家のさゆりの弱みにつけこむような素振りもなかった。
さゆりは、着物に飲み物をこぼして隣室に入りながら、中が見えるように襖を少し開けておいた。その時には、さゆりの理性よりもオンナが勝っていた。
いや、それからの領域は、彼女ひとりでは到底踏み込めない世界だった。
隣室には、やってきた彼女をじっと見つめるヤモリが待っていた。
彼の大きな眼は、さゆりがオンナへと変貌していくタイミングを見逃さなかった。
そして、このヤモリに宿っていたのは、Jと共に現れてくる、あの天使の👼JJだったのである。
天使がプロデュースする悦楽の世界はあまりにも深く、時間も空間も存在しない。
永遠に続く快感なのだった。
それは、さゆりが着ていた和服を肩から落とした瞬間から、始まった。
さゆりは、叫んでいた。
閉じ込められていた本当の自分を、解き放つように。
魂の声は、さゆりの躰の奥底から発せられていた。
そして、彼女の躰は、いままで使っていなかった筋肉を用いながら、快楽を存分に享受するために暴れ回っていた。
そのさゆりの全てを、Jは受けとめて、優しく接してくれた。
Jとさゆりは、黒と白のヤモリとなって、絡み合い溶けてしまうような永遠の快感の海を漂っていた......
どのくらいの時が流れたのだろうか。
それは測ることができないくらい長い時間であり、また、一瞬のことでもあった。
Jはまた、座布団の上に座って、さゆりと向かい合っていた。
——さっきまでのことは、きっとオレが時々みる白昼夢だったのだろう。
夢から醒めても、Jの中にはまだ心地よさが続いていた。
どこか嬉しそうなさゆりが、お茶をとりに立ち上がった。
彼女の白いうなじには、薄っすらと赤く、噛まれたような跡が残っていた。
それを見たJは思った。
——あれは、本当のことだったんだ。
保険手続きを済ませたJは、さゆりの家を後にした。
ガラガラと格子戸を閉めて振り返ると、家の中からさゆりが手を振っていた。
庭の草むらからは、ヤモリが大きな眼でJを見ている。
格子戸の向こう側には、たしかに、別の世界があるようだった。
それが何なのかを突き止めるために、Jは、また、そこに行ってみたくなっていた。
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