▽2
かすかな波の音、小さくはぜる焚火。陽はすっかり暮れているのに、驚くほど辺りは明るい。それは真白い砂浜に降り注ぐ、銀を溶かしたような月の光のせい。
衣擦れの音に、エクスは読んでいた本から目をあげた。起き上がった相手は砂浜を眺め、掛けられていた毛布をじっと見つめていたが、枝のはぜた音に顔をあげた拍子に、エクスが見ていることにようやく気付いた。
「ええと。……あれ、こんな時間に人と会う約束なんかしてたっけ?」
「目が覚めた? 僕はエクス。君のことは右大臣って呼べばいいのかな?」
「へ?」
右大臣は目を白黒させて、胸元まで毛布を引き上げ、それが自分のものではないと気付いて、とにかくおろおろと辺りを見回す。
「大丈夫、落ち着いて。僕らは旅をしていて、ついさっきここに着いたばかりなんだ。海岸でお月見をしていたんだけど、小舟に乗った君がすっごい勢いで砂浜に乗り上げてきたんだ。……覚えてる?」
「……そうだった! そうだよ、舟から放り出されたボクを君が抱き留めてくれたんだよね!」
立ち上がった拍子に毛布が砂浜に落ちる。エクスの手を取ろうと一歩踏み出したところで、服の上から体をぱたぱた叩く。
「お礼と自己紹介が遅れたね。助けてくれてどうもありがとう。ボクは右大臣、かぐや姫がいる都を任されている若輩者さ。あいにく手持ちは何もないから、お礼らしいお礼は出来ない……」
すまなそうに眉をひそめた右大臣が目を伏せたと思った瞬間、くしゅん、とかわいらしいくしゃみをした。たき火のそばでお茶の用意をしていたレイナが、小さく笑みを浮かべながら話に入ってくる。
「困ったときはお互いさまよ。そういうお礼はいいから、少し話を聞かせてもらえるかしら。私はレイナ、まずはほら、火にあたって。もうすぐお湯も沸くから、そうしたらお茶にしましょう?」
「お腹は空いてない? 月見団子もあるんだよ」
右大臣は心底嬉しそうに、明るい笑顔をレイナに向けると、エクスの両手ごと包みをぎゅっと握ってありがとうとはにかんだ。
「お、目が覚めたみたいだな。俺はタオ。このタオ・ファミリーの大将だ。詳しい話はゆっくり温泉に浸かりながら話そうぜ?」
一息ついたところを見計らったよう戻ってきたタオとシェインだったが、2人は立ったまま、焚き火の輪には加わらない。
「やった、温泉見つけたのね!」
「シェインの鬼ヶ島流温泉探索術にかかれば造作もないこと。手がかりさえあれば、位置に場所、泉質だってぴたりと当ててみせますよ?」
手放しで喜ぶ3人に、エクスと右大臣は全くついていけてない。
「ふふ、予備も含めて用意しておいて正解だったわ」
レイナは自慢げに、箱庭の王国から木の桶を取り出して各々に手渡す。中には、タオル、石鹸、そして薄手の衣が畳み込まれている。エクスが取り出して広げると、ひざ下くらいまである衣は白い無地の浴衣のような作りだが、とにかく手触りが滑らかでやわらかい。
「これは何なのかな、レイナ?」
「湯あみ着よ。こういうの着てれば、みんなで一緒に温泉入れるでしょ?」
「……え?」
エクスと右大臣が、間の抜けたつぶやきをはもらせた。同時に湯あみ着と相手の顔を指さすと、お互い慌てて大きく顔を振る。
「邪魔くせえけど仕方ねえよな、これくらいは我慢しないと」
「ねえタオ? みんなでって、衝立くらい置くんだよね?」
エクスは不思議そうな顔を返され、何が何だかわからない。隣のレイナに目で問えば、首をかしげて答えらえる。
「ないわよ、そんなの?」
「お前、この前みんなで海で泳いだだろ? 水着の方がよっぽど面積すくねえじゃねえか」
「そういう問題なの?! だって、そりゃ丈は長いけど、生地だってちょっと薄すぎない??」
「そんなごわごわしたもの着てお湯につかるなんて、私は嫌よ?」
「新入りさん、姉御のいう通りです。これでも浴衣よりは厚いんですから、全然問題ないですって」
3人の息の合った、羞恥の欠片もない言い分に、エクスは言葉を詰まらせた。右大臣の顔は相変わらず真っ赤だが、よくみると、ちらちら湯あみ着を見てる。
「温泉はちょっと気になる……けど」
「入りましょう! ……こんな楽しそうなこと、逃す理由なんてありません」
じっと見ていた湯あみ着を、右大臣は握りしめる。タオは笑いながら近づくと、その肩をばしばしと叩いた。
「なんだ、話が分かるじゃねえか。庶民と一緒に風呂には入れないとか言うかと思ったが、お前、案外大物だな」
「そ、そうかな?」
「よし、なら一番風呂はお前に譲ってやろう。ほら、さっさとここで着替えちまえよ」
「じゃあ、シェインたちは向こうの木陰で。さあさあ、姉御。急いで急いで」
「そうね」
呆然とするエクスを除いて、皆が動き始めた。
「……え? あ、いや! 一番風呂とか、気を使わないでも。そういえば今日はもう風呂に入ったし、大丈夫」
急にそわそわしだした右大臣は、レイナに伸ばした手を戻し、エクスに声を掛けようとして言葉を詰まらせる。
「遠慮すんなって。体は温めといた方がいいし、少なくとも潮風でべたべたしてるだろ。流せばすっきりするし…… ってああ、あれか? 従者がいないと服が脱げないとかか? しょうがねえなぁ」
風呂桶を突き出していたタオは豪快に笑い飛ばすと、それをエクスに放り投げてから右大臣の帯に手を掛ける。
「いやいやいや、そうだけど、そうなんだけどそんないいです! ぎゃー!」
「ちょっとタオ。そんな無理にって、右大臣?」
掴んだタオの腕を押し戻せないまま、だが右大臣は波打ち際を指して騒ぎ始める。
「さささっきの! こいつらが急に船に取り付いてきて!」
「レイナ、シェイン! 温泉行くの待って、またお客さんが来た!」
エクスが空白の書をつかみ取って走り出す。ひと際大きな波が寄せると、その白波が一つ残らずヴィランに成り代わったように、群れとなっておしよせてくる。
「これはまた、団体さんでのご到着ですね。……まさか本当に温泉狙いだったりするのでしょうか?」
「さすがに定員オーバーよね。さっさとお引き取り願いましょう?」
名残惜しそうに木桶を置きながらも、立ち上がった2人はすでに気持ちを切り替えていた。シェインは大きな杖を構えなおしながらずれ落ちた赤いずきんをかぶり直し。レイナはふわりを体を包んだドレスとヴェールを優雅にまとめながら短い杖を小脇に挟み。始まった剣戟に向かって詠唱を開始した。
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