エピローグ
エピローグ
今夜は暖かい。銀色にきらめいた街の通りを歩きながら何とはなしにショーウインドウに映った自分の姿に目をやる。心なしか姿勢が良くなったような気がする。ヨガを始めて、普段から姿勢に気を付けるようにしたせいか。それまでは割と猫背っぽかったが、今は胸を張れて生活にも自信が持てるようになってきた。
しかし、あれから…先生がヨガ教室をやめてから一ヶ月。今も毎日太陽礼拝は続けているし、先生から教わったヨガのポーズをさらっているし、たまたまタブレット端末で見つけたヨガのサイトで動画を見ながら新しいポーズも発掘している。
ただ、先生とのあの半年は本当にあったことなのかと思い始めている。先生は幻で、本当は自分の中で作り上げた物語なのではないか。ベリタスなんてものは本当は存在しないのではないか。ベリタスなんてなくても昨日があって、今日が来て、多分明日も来るだろうし、今日も世界中で人が生まれたり死んだりしている。
昼は太陽が輝き今は月がこの街を照らしている。この明かりは太陽の光を月が反射した光。ベリタス空間を通った太陽の光の情報が月に当たり光となり、その月の光の情報が再びベリタス空間を通り僕の目に届き光となって、この街へと降り注いでいるように見えている。それを知っているのは今この地球上ではシホ先生と僕の二人だけ。でもそれってなんの意味があるのだろうか。二人しか知らないということは、実はこの世の中にとってはどうでもいいことで、残りの七十三億人は知らなくても何も困らない。だったら僕も知らなくていいしこれを誰かに伝えることもない。だけど、このままヨガは続けよう。何も考えず、ただ感じるだけでいい。
ここは?この角を曲がるとあのヨガスタジオへの道だ。シホ先生と半年一緒に過ごした空間があそこにはある。行ってみようか。行ってもきっとシホ先生はいないが、今のこの気持ちを聞いてもらいたい。ベリタスのことを聞いてみたい。歩くスピードが速くなる。あのビルだ。あのビルのあそこに行くとあの黒い扉があって…。あったが、どこかの事務所になっていた。やはりいない。仕方ない、帰ることにしよう。
《佐藤さん。》
シホ先生?
《佐藤さん。》
どこだ。周りを見回すが姿がない。
《佐藤さん。お元気そうで何よりです。》
「先生、どこにいらっしゃるのですか。」
《どこにいるかは言えませんが、私は今佐藤さんの頭の中に話しかけています。と言うよりもベリタスを通して佐藤さんと通信していると言った方がいいですね。》
頭の中?じゃあ幻聴なのか。
《頭の中ですか?》
《そうです。》
ホンマや!
《人間が見ている、聞いていると思っているのは脳の中の情報処理の結果にすぎないと以前お話ししました。》
そう言えばそうだったな。テレビだったら「それでは確認してみましょう。VTRどうぞ」なんて流れるところだ。
《だったら今先生のお姿を私の脳に見せることはできませんか?》
《それは私自身を私がイメージすればいいのですが、なかなか上手くできませんので…。》
それは残念だ。
《本当に残念です。》
あ、ヤベッ、今は考えていることが百パーセントわかるんだ。
《そうですね。》
なんとなくだがシホ先生は微笑んでいるような気がする。
《先生どうかされたんですか。》
《最後にお別れを言いたくて。》
お別れ?
《私もベリタスと一体化することにしました。》
えっ?
《スタジオを閉めてからずっと瞑想をしていました。そしてベリタスの中で苦しんでいる記憶達の多さに驚かされました。ベリタスと一体化しその記憶を救っている人達…例えば釈迦やイエスといった人達も力を尽くしているのですが余りにも多過ぎて、このままではベリタスが苦しみに呑まれてしまいます。ですから私も微力ではありますが、お手伝いすることにしたのです。》
《それは死ぬということですか?》
即身仏なんて今時流行らないぜ。
《いいえ、このままベリタスに行くのです。この体をパルウム化しそのままベリタスへと向かいます。私は死にません。永遠の命を得、この宇宙とともに生き続けるのです。そして少しでも多くの記憶を救い続けていきます。》
《この世界で救うわけにはいかないのですか?》
《この世界で救うには、人は余りにも心を閉ざし過ぎています。そして、人間としての私の体も自由に動けるわけではありません。》
《先生!》
なんで、まだ!
《ずっと考えていたのです。なぜ私がベリタスの世界の事が分かったのか。》
?
《それはベリタスの記憶を救うため。》
…………。
《少しでも早くあちらに行って救うこと。宇宙の長い時間に比べればほんの一瞬かも知れませんが、少しでも早く多くの記憶を救うこと。それが私に与えられた使命。》
《私はまだ…。》
《大丈夫です。佐藤さんはもう大丈夫です。この世界で周りの皆さんが苦しい記憶を積み重ねないようにできる筈です。どうか、今この世界で皆さんを救ってください。》
《私には無理です!》
何も知らないのに!
《最後に言いました。私は道標だと。》
道標?
《佐藤さんにベリタスの事を伝えるのもまた私の使命。》
……。
《佐藤さんがこの世界で皆さんを救えるように…。》
《先生、先生も一緒に…。》
《もう時間です。あの光が届きました。》
あの光?
《私の体をパルウム化するあの光です。》
どこに?
……あの光?
……どこで光っている?
…………どこも光っていない!
…………道の向こうか?
《あ~私の体が少しずつ軟らかくなっていくのが分かります。まるで浮いているよう。》
《先生、ダメだ!》
どこだ!探せ!
…………空気が痛い!
《周りの物がだんだん薄くなっていきます。周りも静かになってきます。これが自由?あ~なんて幸せな気持ち。》
《先生!》
……なんだこれは!
………………押しつぶされる!
《あなたはそこにいるの?分かる。今からそこに行きます。なんて懐かしい、なんて温かい、優しい…》
「…………!」
空気が…!
破裂?
揺れた?
…………目眩がしたような気がする。
……周りは?
…何も……変わっていない……。
皆気付いていないのか?
……何もなかったかのように歩いている。
…先生はベリタスと一体化したのだろうか。
……肌に当たる空気が今までと違う気がする。
……汗が、汗が半端ない。知らない人が見たら具合悪い人に見えるだろうな。
………幸い近くに人はいないが。
…なんだ?
……犬が吠えているな。二匹…いや、三匹。
今、一人、ベリタスを、宇宙を救いに旅立った。一体どれほどの記憶が苦しんでいるのだろう。そして、シホ先生はどれくらいの記憶を苦しみから救えるのだろう。それは先生の永遠と続く仕事。ベリタスでは今、苦しんでいる記憶を救おうと力を尽くしている人達がいる。荒波に立ち向かう船乗りのように。
気が付けば街は静まり返っていた。銀色の煌きが寒々しい。空には星が瞬いている。この地球にもあの幾千万という星の中にも今日を生き抜いている生命が存在している。ベリタスは何故命を生み出したのだろう。ベリタス自身を蝕むであろう苦痛に満ちた記憶を生み出すような生命を何故作り出したのだろう。
苦しむ記憶を作らないように昔から多くの人が世界の人間を導こうとしてきた。でも最初の教えは後世の人間に、私利私欲の為都合のいいように捻じ曲げられてきた。そして今もなお苦しみの記憶は作り続けられている。
ベリタス空間はパンドラの箱を開けてしまったのだろうか。悲しみ、恨み、病気、ありとあらゆる災いがこの世の中に蔓延している。ベリタス空間は今もその苦しみによって蝕まれている。
僕たちの記憶はベリタスに蓄積されていく。良い記憶も悪い記憶もベリタスの中に積み重なっている。そしてその記憶は次の世代へと受け継がれる。だとするとこの宇宙を救うことができるのはこの宇宙に生きとし生けるもの全て。苦痛に満ちた記憶を残さないように生きることが宇宙を救うこと。
パンドラの箱の底には希望が残されていたという。希望が全ての鍵。僕はその希望の鍵を探す。
ベリタスの海 サ卜ウマコ卜 @makoto-satou
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