その4
一ヶ月前から僕の頭の中はベリタスのことで一杯だ。朝の散歩の時も風呂に入っている時もトイレに入っている時もヨガの間もベリタスのことばかり考えている。ベリタスとは宇宙の根本原理。ベリタスと生命体の記憶の通信によって生命体が行動している。そしてこの僕も。……う~ん、信じられん。ベリタスとやらと通信している感覚は全然無いが。おまけにベリタスはこの宇宙の全ての場所に寄り添っているって…。寄り添っているというのは何だ。どういうことだ。しかも物体にではなく場所にだ。あ、足がビクッと動いてしまった。
「どうかしましたか。ここのところ元気がありませんが。」
「えーと、ベリタスのことなんですが。」
「ハイ。」
相変わらず無邪気な笑顔だな。
「全ての場所に寄り添っているって仰ってましたが、どういうことですか?」
「ベリタスは大きさや量で説明できるものではありませんし、ここにあるあそこにあるという場所の特定もできませんが、例えばこの千円札です。」
先生は今日僕が渡したレッスン代の千円札を取り出した。今日は意外とあっさり答えてくれる。
「この千円札で見えているのは表、裏、そして横の全部で六面。この見える表面を私たちの認識できる宇宙全体としましょう。いいですか。この表面だけが宇宙ということですから、私たちもこの表面から抜け出せません。」
先生は千円札の表面を人差し指でなぞった。
「しかし、千円札は見える部分だけではありません。見えない部分もあります。表と裏の間にも…これをベリタスと呼んでいると理解してください。ベリタスはこの世界、宇宙全体のどの場所でも同じようにすぐ近くにあります。いや、くっついていると言ったほうがいいかしれません。世界に寄り添っているというのはそういうことです。ただし、ベリタスには触れることもできないし見ることもできません。この千円札の表面から中が見えないように。」
なかなか理解できん。ドーナツの穴のようなものか?
「例えばドーナツの穴は『ドーナツ本体』と『穴』と認識できますが、ベリタスを視覚的に認識することはできません。」
……先生、勘が良いな。
「この千円札の外側は認識できますが、中を見ることはできません。千円札の実態と価値は見えている表面にありますが、中が無くなれば千円札の存在も無くなります。同様に、ベリタスが無くなればこの世界も無くなるということです。」
「なんとなくは分かりますが、すぐそばにあって触ることも見ることもできないというのは…。」
そばにあるのなら触れないまでも、こう、ボヤっとでも見えるような気がする。
「そうですね。え~、今から平面世界の住人には物がどのように見えるか想像してみます。平面世界は高さのない世界です。この千円札の厚みのない状態ですね。その平面世界をボールが横切るとします。この横切るボールは平面世界の住民にはどのように見えるでしょうか。」
「どう見えるんですか?」
「それを今から考えるんですよ。」
先生は笑いなが立ち上がると、神棚みたいな場所に置かれている例のレッスン代入れ(と僕が呼んでいる)皿の横に置いてあった緑色のビー玉のようなものを取りまた元の位置に座った。
「これをボールと考えてください。ボールが横切るというのは、このようにまず平面にボールが点でくっつきます。」
千円札の下に玉をつけてそう言った。
「この瞬間私達の目の前に急に点が現れます。」
…そうだな。
先生は千円札の横から少しずつ上に玉を動かしていく。
「点が小さい円になり少しずつ大きな円になっていきます。実際には平面世界の住民の目には円ではなく直線にしか見えませんがおそらく、目が二つあることでなんとなく円だということは分かると思います。このボールが今私達には球体だとわかるように。」
ふむ。言われてみれば僕らって物を動かして見なくてもそれが立体物だって分かるな。それは目が二つあるからなのか…。確かに片目つぶると立体的に見えなくなる。
「今、円が大きくなり、中心を過ぎると今度は小さくなります。そして最後に点になり、その姿は消えたように見えます。」
そう言うと玉を千円札の上の面から離した。
「こう見えるのはこの平面の世界には高さが存在しないからです。ここの住人に『高さ』と言っても全然イメージできないはずです。」
そう言いながら千円札を指さす。
「今私たちがここの住人に『私はあなたを上から見てますよ』と言っても、住人は『ウエッて何ですか?』と答えるでしょう。平面世界である二次元世界に高さを加えたのが三次元世界ですが、二次元の世界からは三次元の世界はどのように存在しているかわかりません。」
そうか。平面世界の人間には平面上にあるものしか見ることができない。だから平面上から飛び出したものは見ることができない。だから、三次元世界の事は分からない。ウンウン。分かった。
「同じように私たち三次元世界の人間には、一つ上、或いはもっと上の次元に何が加わるかはわかりませんし、どういう世界かもわかりません。私達の住んでいる三次元世界よりも上の次元の世界にベリタスはあるのです。私たちの三次元の世界では、ベリタスの大きさも場所の特定もできないのです。」
平面世界で、三次元世界の場所なんて特定なんてできないからな。なんとなく分かった。イメージはできないがなんとなく感覚的には理解できた気がする。それにしてもだ。
「魂が存在しないということがどうも納得できません。」
先生は深く頷いた。
「分かります。すぐには納得できないのは当然です。今自分は考えているし、自分の考えで行動しているし、人を好きにもなります。」
自分で自分の考えを確かめるかのように、一言一言をかみしめながら続ける。
「こう考えたことはありませんか。死んだら魂はどうなるのか。」
「あ~、あったような気はします。」
小学五、六年の頃、死んだらどうなるのか、死んだら自分で死んだことが分かるのか、いろいろ考えていた記憶が蘇ってきた。
ばあちゃんが死んだ時だ。一日前まで普通に話していたのに目の前に眠ったように横たわっている。声をかければ起きてくるんじゃないだろうかとも思った。昨日まで生きていたばあちゃんの魂は今どこにあるのだろう。それとも死んだら魂はどこにも行かずに消えてしまうのだろうか。
「仮に魂があるとして、以前もお話ししましたがインドでは古来、人が死んだらこの魂は新たな生命の中に行く、つまり輪廻転生していくと考えられていました。解脱するとこのサイクルから外れ宇宙の根本原理ブラフマンと一つになる。」
「はい、そうでした。」
「輪廻転生するということは魂の数―解脱した魂は除いて―宇宙全体の魂の数は変わらないという話になります。」
「そういうことですね。」
「もしそうだとしたら、輪廻転生を始める前の魂はどこにあったのでしょうか?」
えっ?それはそうですけど、それ言い始めると、宇宙ができる前には一体何があったんだっつう話になるし、それはそれで困ることになると思う。
「魂はブラフマンだという事でしたが、なぜわざわざアートマンとして個々の生命体に宿らなければならないのでしょうか。」
ブラフマンに何か恨みでもあるのだろうか。だんだんと熱を帯びてきた。
「まだあります。その魂はこの体のどこにあるのでしょうか。頭でしょうか。心臓でしょうか。それとも体全体に散らばっているのでしょうか。魂が、この体のどこにどのような形で存在しているのでしょうか。」
そう言われればそうだ。魂のある場所なんて考えたことなかった。考えるのは脳だけど、心っつうくらいだから、胸の辺りにあるのも否定できないな。
「このことはどこにも説明されていません。誰も説明してくれません。知ろうとしてもいけない、とも言われています。なぜでしょうか。それは説明ができないからです。」
説明ができない…確かにそれは言える。
「私たちが二次元世界のことが分かっていても二次元世界に入れないのと同じで、三次元以外の世界の物はこの世界に入れません。例え三次元世界以外で実体があったとしても、この三次元世界で実体が無ければ、三次元世界では存在していないということと一緒なのです。」
実体が無いというのは存在が無い、なんとなく分かるな。空気の成分である酸素も二酸化炭素も窒素も実際には見えないから無いように感じるが、実験などによって存在は確認されているから、実体があることになる。つまり、観測しても存在が確認されないものはこの三次元空間に存在しないのと同じだ、ということは言えるな。
「例えば、人間は四十兆個くらいの細胞で出来ていると言われていますが、この膨大な細胞を統率しているのは一体どの細胞なのでしょうか。脳で統率しているのでしょうか。脳で統率しているとして、その指揮系統はどうなっているのでしょうか。脳の中の司令官は一体どの細胞なのでしょうか。」
そこまで…普通は考えないよ。
「この体はただの記憶装置で、ベリタスとの通信によってあたかも魂を与えられたかのように行動していると考えると全ての疑問が解決するわけです。魂だけではなく全ての物理法則も。なぜならベリタスはこの宇宙にある全てのものと通信しているからです。」
ベリタスが生き物の記憶と通信して、しかも物理法則も?全ての疑問が解決する?つまりベリタスで全ての物理法則が説明できると?
「繰り返しますが、ベリタスと生命体の記憶の蓄積との通信という現象、それが魂と呼ばれているものの正体です。そして命尽きた時ベリタスと生命体としての通信は途切れ、生命体の記憶の一部がベリタスに蓄積されます。」
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