その3

 道を歩いていたら、やたらと子供の姿が目につく。学校はどうしたんだと思っていたら、母親の情報によると三日くらい前から夏休みに入っていたらしい。そう言えば今朝も散歩の時にラジオ体操の音が聞こえていたな。僕も毎朝行って体操していたな。体操終わったらスタンプ押してもらった。今でもスタンプを押しているんだろうか。スタンプ押してもらっても嬉しかった記憶はないが、なんで律儀に押してもらってたのか訳わからん。

 それは置いといて、今の僕にはラジオ体操よりもヨガだ。ヨガは楽しい。最近は太陽礼拝も先生のポーズを見なくてもできるようになってきた。家でもやってみようかしらん。だったらヨガマットも買わないとな。あ、ヨガマットってどこで売ってんだ?ホームセンター?スポーツショップ?まあ、どっちかにあるだろうから。明日にでも行ってみようか。おっと、先生の合図だ。

「佐藤さんどうですか。瞑想の状態は。」

「まるでダメですね。私の魂が私の頭を空っぽにするのを拒否しているみたいです。」

「アケミさんはどうですか。」

「私も全然です。もう二年になるのに。」

 アケミさんと呼ばれた人は四十~五十歳位か。中肉中背、若い頃は可愛かったんだろうな。多分。装いもなんかおしゃれ~な感じだし。僕はと言うと相変わらずテツトモの恰好だ。って言うかアケミさん二年もやってるんだ。頑張るな~。

 そういうことで、今夜は珍しく…と言うよりも初めて他の生徒さんも一緒にレッスンした。ちゃんと他に生徒さんいたんだ。僕一人だけなんじゃないかと心配していたよ。

「焦らなくて大丈夫ですよ。ある日突然やって来ると言うか飛んで行くと言うか。そういう感じでできるようになりますから。」

「そうでしょうか…。」

 先生経験者だし、先生がそう言うからそうなんだろうが、アケミさんやっぱり不安そうだな。僕にも未だにやって来ないし、飛んでも行かない。

「何よりも続けていくことが大事なんです。それにポーズもちゃんとできてますし。」

「そうですかぁ? じゃあ、もっとがんばらないと。」

 アケミさんは可愛いファイトポーズを小さくやった。

「そうですよ。」

「あら、もうこんな時間。子供が塾から帰って来ちゃう。今日はありがとうございましたぁ。じゃあ、失礼します。佐藤さんもお疲れさまでした。」

「あ、お疲れさまでした。」

「じゃあ、先生ありがとうございました。」

 先生とアケミさんは二人で玄関の方に歩いて行った。玄関からは二人の声が聞こえる。結構な長話だ。なぜ女性はあんなに話が長いのだろう。無口な僕からすれば不思議でならない。子供が帰って来るんじゃないのかよアケミさん!

 うちの母親もそうだが、忙しい忙しいと言いながら携帯で結構長話している。通話だけで充電が切れるんじゃないかと気が気じゃない。さんざん話をしておいて、「本当にあの人は人の悪口ばかり、イヤになっちゃう」って、お前も結構乗っていたじゃないか。そんなに嫌なら着信拒否しておけ!おっと。「じゃあ、お休みなさい」という声が聞こえてきた。早いもんだ、五分も経ってしまった。ようやく帰るらしい。

「あ、お待たせしました。」

「いや、特に待ってはいませんが…。」

 まあ、その実はお待ちしていたんだが。

「それより、以前、先生が宇宙と一体化したいって仰ってましたけど、でもその後に、生まれ変わりたいみたいなことも仰ってましたが、それって矛盾しませんか。」

「あ~、それですね。」

 先生はいつも通り僕の前に座る。

「言葉足らずだったかもしれません。私自身生まれ変わりたいとは思っていませんが、生まれ変わった方がお得だろうな、という考えから抜け出せないでいるということです。」

 なるほどね。でも…。

「しかし、既に宇宙と一体化しているんだったら、改めて一体化したいというのもおかしくはないですか。」

 一ヶ月前と同じく先生は目を閉じ沈黙した。この間よりも長い時間。そんなに難しい質問だったのだろうか。僕がもう良いですと言おうとした時先生は目を開いた。

「実はブラフマンとアートマンという考え方は違っていると思っています。」

 えっと?聞き間違い?

「古来インドで言われていたブラフマンとアートマンというものは無いのではないかと考えています。」

 じゃあ、なぜあんな説明をしたんだろう。

「ヨガをやっている以上ヨガの宇宙観を知っていただきたかったのであの話をさせていただきましたが、私は違う考えを持っています。ただ、ヨガの宇宙観と大筋では同じですから、前回の説明でご理解いただけていれば私の考えもご理解いただけると思います。」

 ヨガの宇宙観。前回のはヨガの宇宙観だった……っけ?

「その、先生の宇宙観というのは?」

「宇宙の根本原理であるブラフマンはアートマンとなって人間の魂になっているとされています。ブラフマンとアートマンは本質では同じだと説明しました。」

 うん、そうだった、そうだった。

「しかし、私はアートマンというものは無いと思っています。ですからブラフマンと区別するために宇宙の根本原理のことをベリタスと呼んでいます。」

 ベリタス!このスタジオの名前だ。

「ベリタスはこの宇宙の全ての物質の元であり、宇宙の物理法則を司っています。」

 ウン?物質の元って原子だし、宇宙の物理法則って言われてもなぁ。

「そして、先ほども言った通り人間の中にアートマン、つまり霊魂は存在しません。」

 へ~。

「人間、いや全ての生命体には魂など無いのです。」

 ふ~ん。

 …………。

 え?今先生なんつった?

 ……………………。

 魂が……無い?

「魂というのは幻想に過ぎません。」

 驚いた。

 いや……驚いたと言うより……なんと言うか……自分を否定されたというか……お前はすでに死んでいると宣告されたと言うか……。

「まず、生命体は命を得てからの全ての経験をその体に記憶として蓄積します。蓄積された記憶とベリタスが繋がる…ではなく、通信…正確には通信とは違うのですが、他に適当な言葉がないので、通信と表現しますが、その、ベリタスが生命体に蓄積された記憶と通信することで、魂と呼ばれるものがあるように見えるのです。」

 ……いや、生きてるし。……生きてるから……魂あるし。

「じゃあ、その…ベ…ベ…。」

「ベリタス。」

「すみません。そのベリタスが記憶と通信しなければ?」

「生命体は増殖するただの記憶装置になります。」

 ただの記憶装置…。なんか恐ろしい考え方だな。

「こう考えてみてください。リモコンの自動車、ロボットでもいいですが、そこにあるのは何もしなければただの動かない機械です。ただし、人間がコントローラーで通信をすると、まるで魂が宿ったかのように自由に動けるようになります。人間もこれと一緒なのです。」

「ベリタスが人間をコントロールしていると?」

「ベリタスには明確な意思というのはありません。意思と言えるかどうかは分かりませんが、広がろうとしているのは確かです。しかし、人間を何かの意思をもってコントロールしているわけではありません。ただ単に人間の記憶と通信をしているだけです。」

 ただベリタスと通信しているだけで人間が人間として動けるようになるのだろうか。

「例えば人工知能と呼ばれるものがあります。いろいろな情報を蓄積することで様々なことが出来るようになりますが、なすべき目的を示されなければただの記憶装置です。生命体もそれだけならばただの記憶装置ですが、ベリタスと通信することで意思を持つようになります。」

「その、ベリタスから何かしらの命令が来ていると。」

「いいえ、先ほど言った通りベリタスは意思を持ちません。その生命体の行動はその生命体に蓄積された経験に基づくものです。おそらくベリタスはその経験の記憶の整理をしているのではないかと考えます。生命体に命がある限りベリタスと通信し続けるのです。」

 ベリタスは通信しているだけで何もしない…。

「オギャ~と生まれた時からですか。」

「人間でいうなら、お母様のお腹の中で受精した瞬間からです。」

「受精卵の段階からですか?」

「そう…言って良いと思います。」

「つまり、この世の中のすべての生命体がベリタスと通信していると?」

「はい。」

「植物も?」

「はい。」

「ウイルスも?」

「はい。」

 それが本当ならベリタスも相当忙しいだろうな。

「ベリタスには大きさがありませんし、この宇宙の全ての場所に寄り添っていますから、全ての生命体と通信できるのです。ベリタスと生命体の記憶との通信という現象、それが魂と呼ばれているものの正体です。」

 寄り添っている?なんだそれ。どういうことだ。

「実はベリタスは生命体だけではなく全ての物質と通信しています。このことに関してはまたお話しする機会もあるかもしれませんが。」

 僕の頭で理解、いや、受け入れられるだろうか。一度帰ったほうが良いかも知れない。

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