その2

 ヨガを初めて一ヶ月になる。ほぼ週一ペース。ヨガを始めてから生活が変わったような気がする。仕事が見つからないのは相変わらずだが、とりあえず食うためにバイトを始めた。働かざるもの食うべからず、というやつだ。バイトと言ってももちろんヨシオの親のところではない。実家暮らしだから食うに困るわけではないが、やはり居心地が悪い。だから、バイト代貰ったら家に入れるつもりだ。

 それと、健康の為ではないが朝の散歩も始めた。大体三~四十分。のんびり歩くと心が落ち着く。なんと言えばいいか、動くヨガという感じ?いや、きっと違うだろうが。まあ、頭を空っぽにするところは共通している。頭を空っぽにして歩くことで、鳥のさえずり、草花の香り、色んな情報が入ってきて五感が研ぎ澄まされる気がする。それに頭もスッキリして一日のスタートがスムーズになる…ような気がする。

 散歩をすると他にもいろいろなことに気付かされる。まず、ウォーキングをする人が意外と多い。男性も女性も。若い女性も割と目にする。散歩をしているのは犬と僕と年寄りくらいだ。もっとも年寄りの散歩も、本人達はウォーキングのつもりらしいから、それを考えると、犬と僕だけが散歩をやっているということになる。

 それとつい最近だが、紐で括られた新聞を外に置いてある家が何件かあるのにも気づいた。この辺りでは子供会が活動費に充てるのに毎年廃品回収をしているが、最初に見た時には、そのことが頭に浮かび、廃品回収に出してあるのかと思った。しかし、新聞の束の一番上を見ると、「明日は古新聞の回収日です 朝夕新聞」という紙が置いてあった。そうか、朝夕新聞は月一で古新聞の回収をしているんだな。うちは毎朝新聞だから全然知らなかった。まあ、良いことだとは思うが子供会にとっては少々痛手かも知れんな。二十年以上この町に住むが知らないことだらけだ。

 先生の合図で屍のポーズから起き上がった。相変わらず無我の境地とは程遠い。

「今日はどうでしたか?」

「だめです。いろいろなことを考えちゃって。考えたらだめだとは思うんですけどね。」

 今日は主に散歩のことだ。散歩のコースとか、散歩のコースで見つけた事とか、散歩コースでたまにすれ違うジョギングするアラサーの女性のこととか。数え上げればキリがない。よくもまあ、考えることがあるものだ。

「焦らなくても大丈夫ですよ。最初はそういうものです。」

 そうは言われてもな。

「こう考えてみてください。『考えてはだめ』と思っている時点で、もう『考えてはだめ』と考えているわけです。」

 そう言えばそうだな。

「何かを考え始めたらその考え事をスーッとどこかに持っていくイメージですね。次にまた出て来たらそれもどこかに持っていく、その繰り返しです。」

 頭では分かっても…凡人にはなかなか辿り着けない世界なのかもしれない。

「なかなか難しいですねぇ。」

 そう言えば…と、思い出したことがある。最初のレッスンの後、先生が独り言のように言ったあの言葉。あの意味を知りたい。

「先生、一ついいですか。」

「なんでしょうか。」

 先生は待ってましたとばかりに少し前かがみになった。

「最初のレッスンの後に『ヨガの考え方では宇宙と一体だ』とかなんとか仰ってましたがどういうことなんでしょうか。」

 先生は目を閉じ少し沈黙が続いた。触れてはいけないところに触れてしまったのだろうか。それともヨガ界の最高機密なのか。

「少し難しい話になりますけど、よろしいでしょうか。」

 僕の目をまっすぐに見つめる。先生から見つめられると、思わずドキッとしてしまうな。

「はい、構いません。」

 僕は居住まいを正して身を乗り出した。

「分からない時には途中でも質問をどうぞ。」

「はい。」

「ヨガというのは今、エクササイズとして行っている人が多いのですが、そもそもヨガは心身を制御して精神統一をし、解脱に至るために行うものです。」

 おっと、いきなり出たぞ、専門用語。

「『ゲダツ』とはなんですか。」

「解脱というのは漢字では解き脱すると書きます。古来インドでは魂は繰り返し、死んでもまた生まれ変わる、所謂、輪廻転生という考え方があります。」

 お~、りんねてんしょう。聞いたことがあるぞ、アニメで。

「輪廻転生というサイクルから離れて永遠の魂を得ることを解脱と言います。解脱することでこの世の根本原理であるブラフマンと一体化することが出来るわけです。」

 ぶらふまん?

「ブラフマンは宇宙の根本原理のことですが、人間のことはアートマンと呼んでいます。」

 あーとまん?

「人間というよりも、自分を自分たらしめている霊魂と言ったほうが良いかも知れません。そして、このブラフマンとアートマンは本質では同じなんだという考え方を『梵我一如』といいます。梵はブラフマンの音訳の梵天の梵、我はアートマン、『われ』自分の事です。ただ、多くの人間はそのことに気付いていません。」

 ぶらふまん、あーとまん、ぼんがいちにょ…。断言してもいいが絶対に覚えられん。

「修行を通してそのことに気付くこと、これが悟りを得るということです。悟りを得ることで解脱が叶います。ブラフマンである宇宙と、アートマンである人間は同じもの。私が『ある意味宇宙と一体』と言ったのはそういうことです。」

 そういうことか!とは残念ながらならない。一回聞いただけで理解できるほど賢くはない。とりあえず一つずつ確認をしていこう。

「え~と、まずですね、人間は生まれ変わるんですね。」

「ハイ、生まれ変わるという考え方です。」

 オット、生まれ変わるって認めた。

「解脱するということは、生まれ変われなくなるわけですね。」

「ハイ、生まれ変わるよりも、ブラフマンと一体化することが永遠の幸福であるという考え方ですね。」

 僕としては生まれ変われた方が何かとお得な気がするが。

「宇宙全体が、あのぅ…。」

「宇宙の根本原理がブラフマン。」

「あ、はい、ブラフマン、ブラフマン。で、人間がアートマン。」

「人間というよりも、人間の中の自我、もしくは霊魂です。」

 難しいな。大体定義が良く分かっていないからな。

「あ、そうでした。その…ブラフマンとアートマンが同じというのは?」

「こう考えてください。ブラフマンというのは大宇宙、霊魂であるアートマンは小宇宙。大宇宙の中の小宇宙ですからこの二つはつながっているわけで、だから同じものと言えるのです。」

 なんとなく分かってきた。

「えっと、宇宙の根本原理であるブラフマンと、自分の中の原理であるアートマン。元々は同じものだということですね。」

「概ねそういうことです。」

 宇宙と人間は同じなのか。物語の設定としてはなかなか面白い。

「解脱すると、すぐにブラフマンと一体化するんですか?」

「すぐにということではなく、死んだあとにです。人が死んだら二通りの道があります。一つは別の何かに生まれ変わること、そしてもう一つがブラフマンと一体化すること。」

「でも、生きている時にはある意味ブラフマンと一体化しているんですよね。だったら生まれ変わった方が得じゃないですか?」 

 生まれ変われば前の自分と変われるわけだし、今よりも楽しい人生を楽しめるかもしれないじゃないか。やっぱり生まれ変わった方が良いと思うのは当然だ。

 すると、先生は眉を上げ、そして頭を少しだけ横に傾けた。

「生まれ変わったとして、生まれ変わる前の今のこの記憶が残っていればいいですけど、生まれ変わる前の記憶は残っていない人がほとんどではないでしょうか。」

「…え~と~…。」

「前の記憶が残っていないのに、生まれ変わった今が前と比べて幸せなのかそうでないのか分かるでしょうか?」

「…そう言えばそうですねぇ。」

「だから損得の問題ではないです。輪廻転生のサイクルから離れられない限り死の恐怖からは逃れられません。もしもブラフマンと一体化して永遠の命を得られたら、ブラフマンが無くならない限りは死ぬことはないのです。その方が幸せだとは思いませんか。」

 う~ん、言ってることは分かるんだけど。やっぱり生まれ変わったほうがお得感半端ない。

「でも、安心してください。佐藤さんのような考え方の方が圧倒的に多いと思いますから、私も含めて。」

 そう言うと先生はニッコリと微笑んだ。

「だから人間は楽しいんです。」

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