第51話 ハンナ

【概要:婦長ハンナとマシラ】


ケイヤ南東部工業地帯入口。

そこに巨躯の女マシラはいた。


近くにパレナから派遣された人道支援部隊が

駐留しているのだ。


彼女は、今やその部隊員の一人であった。

兵員の不足を補うためにマシラや元ロリュー兵士の収監者などの

一部を採用していたのだ。


そんなマシラが工場脇の道路で中腰で腕を前に突き出し

固まっていた。


站椿(たんとう)という拳法の鍛錬法である。

拳法家が武術として戦えるための、身体内部の基礎を練り上げ

想いどおりに瞬時に動ける身体を創りあげるための重要な練功。


そんな站椿たんとうがもう10時間である。

そろそろマシラも限界がきていた。


しかしやめるわけにはいかない。

やめれば"あの女"にどんな目に合わされるか…


その時、軍靴の音を響かせ"あの女"がやってきた。

身をすくませ、平静を装うマシラ。


傍目からもわかるほど怯えている。

あの傍若無人な振る舞いと凶暴性で人々を

怖れさせたテロリストがである。


マシラに恐怖を与えた人物。

それはこの人道支援部隊ヴァルキリーを率いる部隊長。

看護婦時代の看護帽を常に身に付けていることから

"婦長"の愛称で呼ばれるハンナ・ロマナイエその人であった。


マシラは2度、この支援部隊から抜け出そうとし

このハンナに散々な目に合わされていた。


自分よりはるかに小さいこの女に手も足も出ずに負けたのだ。

そのクンフーたるや尋常ではない。


ハンナはマシラの元へ行くと、上から下までジロりと見回し、

そのまま、また踵を返して去って行こうとする。


5時間前にも見た行動だ。

そしてそのまた5時間前にも。

…ということはもう5時間?


「もう勘弁してええええ!!!」


マシラは狼狽して叫んだ。

たしかにハンナは恐かったがそれ以上にもう

体力の限界であった。ここで許しを請わなければ確実に死ぬ。


そもそもこのイビリのような長時間の鍛錬もマシラが

食料庫の食品を盗み食いしたのが原因である。

すべては自らの素行不良が招いたこと。

納得はしていたが、それにも限界があるのだ。


マシラの必死の懇願を受け、ハンナはゆっくりと口を開いた。


たんを千日とし、椿とうを万日としなさい」


「…え?」


意味が分からず聞き返すマシラ。

その顔を見ることもなくハンナは再び背を向けて歩き出す。


「待って下さい!!ハンナ婦長!!!私が!!

 私が悪かったですうう許してええええ!!!」


再びそう懇願したマシラ。

ハンナは口を開いた。


「許してと言って許されたことは?」


「ええ?」


「許してと言って許されたことは?」


「……」


許してと言って許されたこと。

マシラが過去を振り返るに、こういう場面で許されたことはない。

だが、何故急に婦長はこんなことを言うのか不思議に思ったマシラは

一瞬返答に困る。

そんなマシラに構わずハンナは続けた。


「幼少時、あなたの父親があなたを殴る時、許してくれましたか?」


「うっ…」


「かつて学校で暴力沙汰を幾度か起こしていますね?

 教員はあなたを許してくれましたか?」


「ううっ…」


「今は、数度の爆破テロに関わった罪で収監中の身です。

 被害者も裁判官もあなたを許さなかった。違いますか?」


「ぐっ…」


「そう、あなたの人生において許されたことなど今まで一度たりとて

 なかったはずです。では何故今、あなたは許されると思っているのですか?

 世を憎み、不特定多数の人間にその稚拙な正義を押し付け続けた

 あなたが何故今私に許されると?」


「……ッ」


マシラは悟った。この女はここで自分を殺す気なのだと。

ここで死ねと言っているのだ。だからこそ自分の過去を調べ上げ

こうして徹底的に追い込んでいる…


『いいさ。いいだろう死んでやろうじゃないか。でも今は足が痛いし

 少し休みたい。しかし、休むとこの女が恐いし、でもそれだと死ねないし、どうしよう』


マシラの頭は疲労と恐怖とストレスで混乱していた。

そして、どう返答してもこの場を切り抜けることができないという

絶望が涙と嗚咽となって口から漏れた。


「何故、泣くのですか?私は聞いているだけです。

 答えなさい。何故あなたは自分が許されると思うのですか?」


再びハンナは同じ質問をした。マシラはそれに

こう答えた。


「私は…許されない…許されなかった」


ハンナは口を開く。


「そう…」


「そうです。あなたは許されなかった。だからここにいる」


「経歴だけを見るなら一見、豪放無頼で自分の好きなように人生を歩んで

 きたかにみえるあなただが何のことはない…

 ただ許されず放逐され続けただけの哀れな弱者」


「では、何故あなたはここにいるのですか?

 何をするためにここへ?」


マシラは答えなかった。いや、答えられなかったのだ。

ここにいる理由などわかりきっていた。

それ以外に選択肢などなかったからだ。

罪人の自分にはどんな理不尽な要求も断ることなどできない。

つねに首輪に繋がれている獣のようなもの。

何をしても永遠に許されることはない。

ゆえに答えるまでもない。それがマシラの答えであった。


その時、遠くから敵襲を告げる兵士たちの声と

銃声が聞こえた。


マシラが視線をそちらに向けると通りの角からMABVの機体が見えた。

ギー軍の多脚装甲戦闘車両である。それが通りの兵士たちに発砲しつつ

こちらに向かってきていたのだ。


慌てるマシラ。しかし、そんなことにはお構いなしに

ハンナはマシラを睨み、返答を待っていた。


「ふ、婦長!ハンナ婦長!!敵襲です!!敵襲!!」


マシラは叫んだ。しかしハンナは動じない。


「そんなことは関係ありません。答えなさい。

 何故あなたは今ここにいるのですか?

 何のためにここに?」


その時、遠距離からMABVがこちらに発砲してきた。

数十発が地面で跳ね返り、数発がハンナの臀部でんぶに当たった。

しかし彼女は微動だにしなかった。


この女狂っている。

マシラはこのハンナという名の狂気の女を

心底、怖ろしいと思った。


この命も危ぶまれる状況下で被弾しながらも一切動じずに

同じような質問を繰り返しているのだ。もはや正気の沙汰ではない。


しかも、逃げるためにこの站椿たんとうの姿勢を少しでも崩そうものなら

攻撃を加えるという素振りさえみせている。

もはやマシラは逃げることさえできなかった。


巡るマシラの頭は走馬灯さえ出現させていた。

そして解決策さえ見出せない中、悟ったのは

自分は弱者であったという厳然たる事実である。


だからこそ父の暴力に屈し、悪童たちの温いコミュニティに逃げ

あの男に出会い、言われるがままにテロを繰り返した。


ただ認めて欲しかった。愛して欲しかっただけだ。

しかしそこは自らが望んで得た場所ではなかった。

逃避の果てにたどり着いた僻地。

ゆえにここで苦渋を舐めている。

ゆえにここで死にかけている。


そしてこの世に。

真の意味での強者など一人もいない。


「つよくなりたい!!!!」


言葉にならない声を上げてマシラは叫んでいた。

強くなりたい。誰にも何者よりも強く。

もう人に人生を左右されたくはない。

人に翻弄されて生きたくはない。

誰よりも自由に生きたい。

誰よりも孤独でありたい。

そうすればきっと、己が辿りつけなかった境地

やさしさや思いやりにも気付けるだろう。

だがそれには強くならねばならない。

誰よりも強くあらねばならない。


その言葉を受け、ハンナは黙って静かに頷く。

鉄面皮の彼女から初めて見る人間らしい動きと反応。

マシラは少し安堵しこういった。


「な、なれるでしょうか…強く…」


ハンナは首をゆっくりと縦に振った。


「なれますよ」


「こんな風に」


ハンナは突如、路面を踏みしめた。

震脚といわれる拳法の動きである。


何のことはない動きであった。

その何のことはない動きで地面が揺れた。


次の瞬間、路面が波打ち

高速度で接近してくるMABVの足を打った。

その影響で前のめりに倒れ掛かる機体。


ハンナはすぐさま接近し掌打を打ち込む。

その衝撃は機体を打ち、パイロットを打ち、

背面扉を打った。


背面扉ごと地面に投げ出され昏倒するパイロット。

すべてはそれで終わったのだ。


近代兵器さえも凌駕する武力。

それがハンナという稀代の拳法家である。

そして優秀な教導者でもあった。


被弾しながらもマシラに寄り添い

本音を引き出したのだ。

すべては精神医学のテクニックである。


本音を引き出すには自らもまた本気であらねばならない。

基本中の基本であるがゆえに難しい。


精神医もまた人である以上、患者に寄り添うにも限度がある。

しかしハンナは自分の体に構うことなくマシラに寄り添い続けたのだ。

これ以上の本気がこの世にあろうはずもない。


すべては彼女の深い思慮とマシラへの想いがあればこそ。

イレギュラーな事態ではあったが、自らの本気を見せるには

都合がいい敵襲でもあった。


マシラはまだ未熟である。

だが今後は自らの意思で強くあろうとするだろう。

それが人の道であり人生の岐路。


誰もが立ち向かわねばならない壁の一つを

彼女は今、越えたのだ。


ハンナはやさしく微笑み、今だ站椿たんとうを続けるマシラに

初めての許しを与えた。

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