第2話 インクの日常
大陸北西部の大州――エウロス。
その中で最も繁栄している都市、グラニにインクは戻って来た。
古代文明の遺産で非常に速く人や物を運べれる陸上交通機関、高速鉄道のターミナルが完成したこともあり、かつてないほどの賑わいに満ちている。
その影響でグラニの中央市場も様々なヒトビトでごったがえしていた。
そんな中をインクはやつれた顔でフラフラと歩いてた。
馴染みの八百屋の前で足を止めると、
「親父、俺だ」
「いらっしゃ……って、あんたか」
愛想を振り撒きながら振り向いた山羊の店主はインクを見ると、不機嫌な顔へと一転させた。
「いつものくれ」
「たまには商品買ってくれないか?」
「あいにく金がないんだ」
「あんた、いつも金がないんだな。まあいい、待ってろ」
店主は不機嫌な顔のまま奥に引っこんでいく。
しばらくすると、奥から中身の詰まった紙袋が飛んできた。
キャッチしようとしたインクの手をすり抜けて、思いっきり顔面にぶつかる。
その衝撃に動じず腕を下げたインクは、顔面を滑り落ちる袋を手のひらで受け止めた。
中身を空けて覗き込むと、傷んだ葉の切れ端や根っこが入っている。
「さっさと失せな。こんなの欲しがるの、お前さんぐらいだよ。今時、物乞いでももっとマシなもの食ってるぞ」
と店主は手を振る。
「……いつも悪いな」
インクはイラッとしながらも、タダで物を貰えたからには文句が言えなかった。
「なーにが物乞い以下だ、バカヤロウ! こんな屈辱を味わう羽目になったのも、全部あのクソガキのせいだ!」
インクは無造作に掴み出した屑野菜をバリバリ頬張りながら、市場を横切って行く。
久々に食える物を胃に入れられて少し元気が出てきたインクは、ネズミの獣人の憎たらしい顔を思い浮かべながら悪態を吐きまくっていた。
目の前に馴染みの食堂が見えてくると、ポケットを漁ってコインを取り出す。
手のひらには二リル硬貨。
またしてもあのネズミ獣人の顔がちらついて、ギリギリと歯を軋ませてしまう。
「恵んでやるとかほざきやがって、あの泥棒ネズミめ! 次見かけたらタダじゃ済まさねぇからな!」
硬貨を持つ手を思いっきり握ると、食堂の入り口をくぐる。
「いらっしゃーい。好きな席に座ってー」
見慣れたウエイトレスが気だるげな声でインクを案内する。
決して美味くはないが、他の店より安くて量も多めで料理を出してくれる店だ。
そのため席はいつもと変わらず、ほとんどが埋まっている。
インクがカウンターに腰を下ろすと、向かい側で鍋を振るっていた熊の店長と目が合った。
「おお、久しいな。何週間ぶりだ?」
「三、四週間ってところじゃないのか?」
「今日は金持ってるのか?」
「……ほらよ」
インクはコインを指先で弾く。
宙でキャッチした店長は手に視線を落とす。
「これだけか? しけてんな」
「……余計なお世話だ」
インクは引き攣った笑みを浮かべて、ムカムカと湧き上る苛立ちを抑えこむ。
あのクソガキ……次に合ったら、絶対に殺す! ギッタギタにしてやるからな!
歯ぎしりをさせながら不気味な笑い声を漏らすインク見て、周りの客がドン引きする。
「……迷惑だから、さっさと食って帰ってくれ」
店主は溜息混じりに、二リル分の料理をインクの前に置く。
小さなどんぶりには、蒸かした雑穀と豆に鶏肉の切れ端と魚のアラを揚げた物が乗っただけの雑な飯が入っていた。
「おやっさん……これ?」
インクは溢れそうになる涎を口の中に押し込んで店長を見上げた。
二リルじゃ雑穀と豆ぐらいしか食えないはずなのにと訝っていた。
「サービスだ。少しは食え」
「……え?」
ゴクリと溜まりに溜まった涎を飲み込む。
店の普通のメニューから見たら、残飯同然に見える代物だ。
だが今までインクが食い繋いできた、調味料も無しで食っていた小魚や雑草に比べたら、贅沢のひと言に尽きる。
「あ、ありがてぇっ……!」
震える手でスプーンを持ち、一口分を掬って口に運ぶ。
舌に乗せた瞬間、うま味のビックバンが弾けて頭が吹き飛びそうな感覚に襲われた。
「涙が出る……美味い……美味すぎる!」
物凄い勢いで、インクはどんぶりの中身を掻きこんでいく。
あっという間に空になった食器の中に、スプーンの転がる音が響く。
「ふぃー……染み込んできやがる……体に……」
長らく食べれなかった味付きの暖かい飯に腹を満たされ、インクは思考が蕩けそうになっていた。
「……やべ、意識が」
空腹が満たされた途端、強烈な眠気に襲われて、視界が一気に閉ざされていった。
寒気を覚えて体が震えた感覚に、インクの目が覚めた。
ぼやけた視界には澄んだ青空と、軒先でさえずっている小鳥の群れが映る。
肌寒い空気に首を傾げながら体を起こす。
周囲を見渡すと飯を食っていた食堂の出入り口の前にいた。
その前の通りを見ると、ヒト通りはほとんどない。
「……もしかして、朝か?」
砂埃を払いながら立ち上がると、大きく伸びをする。
腕や足を回してみて調子を見る。
「うん。まずまずか」
まともな食事にたっぷりの睡眠を取れたので、身体が軽く感じる。
感覚が指先まで行き届き、意思通りに手足が動かせれる。
「――さーて、次の仕事を探しに行くか」
大小様々な国が点在しているエウロス州は、かつて世界を滅ぼした魔王「時の神」が産み落とすと云われている機械の怪物――イビルワープの脅威と戦うために地域共同体を築き上げた。
時間や場所を問わず突然現れ、ヒトを殺すためだけに動く。
刀剣や銃を弾き飛ば強固な装甲を持っているため、民間人では太刀打ちできない。
通常は重火器を扱える国軍によって討伐されるが、時と場所を選ばない敵相手に国軍を待っていては皆殺しにされてしまう。
そのような状況で迅速に対応するにも限度があり、各々の国だけで戦っていては民も国も疲弊してしまう。
そこでエウロス中の国々が集まり、国家間の行き来を解放してヒトや物の取引も自由にした。
これが現在のエウロス連合になる。
また、エウロス連合は通貨統一も行い、巨大な経済圏を作り上げた。
ただし、国軍の派遣は国家間の話し合いが必要なため、各地にイビルワープとの戦闘や小さな紛争、犯罪組織の制圧に対応する軍事会社が生まれた。
それらの軍事会社は武器や情報、人材派遣を担う巨大な組合を作り上げた。
それが大半の傭兵や賞金稼ぎが所属しているギルドだ。
インクもギルドに所属し、エウロス中の懸賞金の情報を利用している。
グラニのギルド総本部のビルに入ると、窓口に見慣れた猫の獣人の女性と目が合う。
渋い顔になったインクに、その事務員は満面の営業スマイルを浮かべた。
「お久しぶりね。今回は、やけに顔を出すのが遅かったのね」
相変わらずの小憎たらしい物言いに、インクはカチンと来て何か言い返そうと思った。
だが、今回は隣国からの帰路をショートカットしようとして未開のルートで山越えを決行した挙げ句、吹雪に巻き込まれて足止めを余儀なくされ、おまけに寒さと飢えで死にかけるという馬鹿丸出しな事をしていた。
そんな話を正直にしようものなら、余計に馬鹿にされるだけだ。
「……うっせぇ。さっさと金を渡せ、受付嬢」
さっさと話を済ませたかったインクは苦い顔のまま先へと促そうとする。
「インクさん。何度も言うけど、私の名前はエミーよ。いい加減覚えてくれないかしら?」
「無駄口が多いぞ。さっさと仕事をしてくれ、受付嬢」
インクの嫌味な言い方に、エミーの営業スマイルが崩れかける。
お互い引きつった表情で火花を散らしていた。
今回の仕事で得た五十万リル。
しばらくは飯に悩まされる事はないだろうと、それだけが楽しみだった。
ただ、昨日の弱り果てた姿をエミーに見られたくなかったから、お金の受け取りを必死に堪えて、恥に耐えながら小銭で飯を食っていた。
だが、この面倒な受付の相手を少し我慢すれば、後はハッピーライフが待っている。
「はいはい。今回の報酬ですよ」
エミーはカウンターにキャッシュトレイを叩き付けた。
その中身を見たインクの顔が、一瞬で真顔になる。
「……ちょっと待て。何だ、この額は?」
「はい? 何か間違ってるのかしら?」
「大いに間違ってるだろ! 何で四十三リルしかないんだよ!」
二十リル紙幣二枚と一リル硬貨三枚、五十セレン硬貨一枚しか入っていないトレイを指差しながら叫ぶ。
「じゃあ、内訳を説明するわね。現在、インクさんのギルドへの借金は五百万リル。今回の報酬の九割は借金の返済へ。残りの一割から借金の延滞金と、滞納しているギルドの会費と、諸々の事務手数料を天引き。残金はそこにある分だけよ。不満があるなら、領収書も付けてあげるわ」
「……いらねぇよ」
「依頼主から数多の損害賠償が無ければ、今頃大金持ちだったかもしれないのにね、ホホホホ」
「くっ……ぐぬぬぬっ!」
上手を取って上機嫌なエミ―に言い返す言葉が出ず、歯を食いしばる事しか出来ないインク。
これまでの仕事で様々な高価な代物を壊してしまった賠償金が溜まりに溜まり、目眩がするような金額へ膨れ上がっていた。
ギルドが一時的にその肩代わりをしている以上、何も言うことが出来ない。
「じゃあ、次の仕事を紹介してくれ!」
「んー、今はあまりいい仕事がないわね。大概の依頼が千リルから三千リルの間ぐらいだけど、どう?」
「どうもクソもあるか! 全然割に合わねぇよ!」
頭を抱えるインクをよそに、エミーは顔を下げたまま依頼書の束を見ている。
「まあ、そう言うだろうと思って、いい案件を用意しておいたわ」
「へ?」
「これよ」
エミーが一枚の紙を差し出す。
「――なになに? 護衛の依頼? 報酬額は……二百万リル?」
インクの目が点になった。
単位を一つ間違えたのかと思い、もう一度数字を数え直す。
「インクさんが先の仕事に出向いたすぐ後に出された依頼よ。内容が内容だから、今まで誰も引き受けていないけどね。どうする?」
「受けるに決まってるだろ! 二百万リルだぜ、ヒャッハ――!」
お菓子を貰ってはしゃぐ子供みたいなインクを、半ば呆れた目で見るエミー。
「分かったわ。先方に連絡を入れておくから。打ち合わせ場所はホテル・エル・ドラードのロビーラウンジになっているわ。詳しい時間は今日中に聞いておくから」
「了解、頼んだぞ」
エミーはインクに頷くと、目を落としてメモ帳にペンを走らせる。
「で、インクさん。今日は時間が空くでしょ? よかったら夕食を奢ってあげるわよ? 依頼の話もその時にでも……」
ほんの数秒の間、メモを書き終えたエミーは顔を上げる。
その視線の先に、既にインクの姿はなかった。
「……全く、もう!」
エミーは自分の台詞に顔を熱くしながら、頬を膨らませる。
大きな溜め息を吐いた後、先ほどの依頼書を見返す。
インクは報酬額にばかり目がいっているようだが、エミ―は依頼内容が気になっていた。
その内容にはイビルワープの討伐も含まれている。
普通に考えればギルドに依頼する内容ではない。
国軍級の戦力が必要な依頼であるがゆえに、法外な報酬額を掲げていても誰も食いつかない。
こんな依頼を受けるのは、何かしら特別な力を持っているヒトか、よっぽどのバカだけだろう。
「……あのバカは大丈夫なのかしら」
それなりの付き合いがあるエミーは、インクの強さも力も知っている。
それでも少々不安な気持ちになった。
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