飛び降りる姉

 秘技・それただのキスですからバターンを発動させた二日後のこと。




「姉さん…大丈夫?」




 ノエルが不安そうな顔であたしの額の布を変えてくれる。その顔に、もう死にかけた暗い影は見当たらない。あたしはぜいぜいと息をしながら満足そうににまりと笑った。




「なに笑ってるの」




「ん…元気になって良かったなと、思って」




「良くない。元気になってない。全然」




 ノエルは初めて見る不満そうな顔であたしの額で温まった布を水に浸した。




「えっ、元気じゃ無いの、ノエル、まだどこか辛いの、大丈夫!?」




 あたしはノエルの言葉に飛び起きた。急に起き上がったからか、それともこの高熱のせいかぐわんと目眩がして、横からノエルに支えられる。




「姉さん!どうして僕のことなの。元気じゃ無いのは姉さんでしょ?」




 その声に小さく苛立ちを感じ取って、あたしは内心驚く。天使のようなノエルはそういうマイナスな感情とは無縁だと思っていたからだ。




「ノエル、まさか怒ってるの?どうして?」




 そう言うと、ノエルは虚を突かれたように少し沈黙した。




「…僕は怒っているように見えるの?」




「うん…ちょっとだけ」




「そっ…か」




 そう言ったきり、ノエルはまた押し黙った。ふと、ノエルの肩に首を乗せ、上半身を凭れかけているこの体制は些か近すぎて、熱をうつしてしまうんじゃ無いかとあたしは思い当たる。それに、筋肉付いているせいで重いあたしなんて支えてたら病み上がりのノエルの骨がポキリと逝ってしまうかもしれない。




「ごめんね、姉さん重かったよね。ありがとう」




 そう言って体を離せば、すんなりと腕は外れた。




「折角良くなったのに、うつしちゃ悪いしね」




 冗談めかして言うと、ノエルの表情が強ばった。




「ごめん。もとはといえば、僕の風邪が…」




「えっ、違う違う!さっきから言ってるでしょ?これは別に、ノエルのせいじゃなくて…」




「でも…」




 そう眉をさげるノエルの前であたしはぶんぶんと手を左右させる。いや本当に違うのだ。この高熱の原因はわかってる。わかりきっていると言っても良い。アベルさまが、あんな、あんな…だめだ、ホント、考えているとまた熱が上がってきそうで、あたしはしかめっ面をした。




「姉さん。般若(はんにゃ)みたいな顔して・・・辛いの?」




 途端にノエルが心配してくれるが、い、言えるわけ無いでしょ!?熱が出た経緯なんて!そもそもキッ…いえ、「最上級のお礼」をしてしまったのも、偏にあたしがバカだった所為(せい)だ。彼はあんなに気遣って止めてくれたのに…。




「全然平気。ノエルが良くなったから姉さんは元気いっぱいよ!」




ゼェゼェと息切れの随(まにま)に力こぶを作ってニッと笑ってみせる。




「…」




 けれど、ノエルはそんなあたしを見て笑うでも無く、ふいと顔を逸らせた。




「あれ?ノエル?ノエルちゃーん」




「…姉さんはさ」




 ノエルはこちらを見ないまま、ぽつりと言う。




「どうしてそんなに、僕のことを大事にするの?」




「えぇ?愚問ね。あなたのことが、大事だから」




 あたしは何でもないことのようにさらりと言う。そう、ノエルを大事にするなんて、あたしにとっては呼吸をするように普通のことなのだ。昔から、そして今も。でもノエルはその解答がお気に召さなかったみたいだ。




「それは何故。あれだけの怪我がこんなにはやく良くなることなんて普通だったらあり得ない。姉さんが何かしてくれたんでしょう?こんな世の中、薬だって医者だって、お金が無ければ誰も手を貸してくれることはない。ねぇ、一体何と引き替えにしたの?何を犠牲にして・・・そんな価値が『僕』にあるの?苦しい思いをしたって、風邪をうつされたって、なにがあったってあなたはこうして笑っている。それはなぜ?」




 ええ、と…。思春期かしら?ノエルがこんなに長々喋るのを見るのは初めてかもしてない。自分の思いを、こうして口に出してくれるのは珍しい。いつもぐっと自分の中に堪えてしまう子だから…。これはいいチャンスよ。姉として、母の代わりとして、しっかり受け止めてあげなければ。




「ノエル…何度だって言うわ。あなたが大切だからよ」




「それは僕が『弟』だから?」




「それももちろんあるけれど…。でも、別にあなたを大切に思うのはそれだけじゃないわ。例えあなたがあたしの兄弟でなくても…同じように愛している」




 ぱっとノエルが弾かれたようにあたしを見た。もう熱のせいで朦朧としたあたしは半目だが、その狭い視界でもなんだかノエルが珍しい表情をしているのは見えた。なんだか、水面の奥に炎を揺らめかせるような…力強い目をしている。そしてやっぱり怒っているような…。今日のノエルは表情豊かだ…。




「僕を愛してくれるの?」




「愛しているわ。ずっとよ…。昔から…」




「過去のことは知らない。これからのことが聞きたい。姉さん、僕の傍に居てくれるって言ったね。それは嘘じゃ無い?」




「嘘なんかじゃ無いわ。あなたが可愛い奥さんを見つけてくる日まで、あたしがあなたを守る…。…ごめんなさい、ノエル。あなたが家を出てしまってから、ずっとずっと心配していたのよ、ホントよ。母さんが許してくれなかった、なんて言い訳ね。なりふり構わず、すぐに後を追って飛び出せば良かった。母さんが怒るから、あなたの事はタブーのようになってしまって、家族の中で話題に出ることもなくて…。でも心のどこかでずっと返しの付いた針みたいにひっかかっていた。ひもじい思いをしているんじゃ無いか、寒い思いは、暑い思いは、寝るところはあるのか、誰かにいじめられていないか…そんなことばかりよ。ごめんなさいノエル。姉さんを許してね。ううん、許してくれなくたって良い。こうしてまた会えたから、それでいい。すぐ探さなかったあたしを憎んでても良いから…ノエル、元気で居てくれて、よかった…」




 途中から朦朧として自分でも何言っているんだかよくわからなくなっていたけど、あたしは頬を流れる涙を感じて身じろぎした。やだ、なに泣いてるんだろ、あたし…。




 そっと、米神に何か柔らかいものがあたる感覚がして、あたしの背に優しく手が添えられる。




「無理させちゃったね。おやすみなさい、姉さん…」




 心優しいノエルがあたしを横たえようとしてくれているようで、あたしもその手に逆らわずお言葉に甘えようとした、のだけれど…。




 見てしまった。




 ベットの横に付いている、細い通りに面した道。その薄暗い路地を通る人は、あまりいない。そう、いつもなら。けれど、何気なく視界に入った大きな人影。頭まですっぽりローブを被った人間。そのローブの隙間から、緋色の長い、棒が見えた…。




(アムだ!)




 あたしは咄嗟に閃き、思わずノエルを突き飛ばしてしまった。哀れか弱いノエルは、すってんと床に転がり、頭をごつんと打っていった。




「姉さん!?」




 その驚きは当然のものだったろう。うとうとと微睡んでいた病人に、突如殴り飛ばされたのだから。




 しかしあたしは今、そんなノエルに構っているヒマは無い!




 アムは背が高いだけあって、恐るべき速さで迷い無く、一直線にこの宿屋を目指していた。目的なんて疑うべくもない。ノエルだ!アムはどうしてかノエルに危害を加えようとしているのだ。ヤツには前科がある。




 ノエルを守らなくちゃいけない。それも、一刻も早く!




「どうしたの、姉さん」




「ノエルッ!今すぐこの宿出るわよっ!とりあえず入り口に鍵かけてっ!」




「えっ!?今すぐ!?それに宿出るのに鍵かけるの?」




「いいからっ!かけてっ!」




 わけもわからずノエルは部屋のドアを施錠する。




「かけたよ。それより姉さん、どうして急に宿を出るなんて。無理だよそんな体で…」




「無理じゃ無いっ!この世にはねぇ、やってやれないことはないのよっ!ノエル、姉さんについてきなさいっ!荷物はちゃんと持ったわね!?」




 あたしは窓をバカンと大きく開け放った。既に階下にアムの姿は見えない。うそ、もう中に入ったんだ!部屋の入り口には鍵がかけてあるとは言え、それも時間の問題だ。はっきり言って、アムは強い。ノエルを背にしてあたしが絶対に負けられないのは別にしても、そもそもこんなへろへろの体調じゃデコピンでも瞬殺されそうだ。




 東方にはこんな時に使う良い言葉がある。曰(いは)く-…三十六計逃げるに如かず。




「姉さん窓を開けて、何を…まさか」




「ついて来なさいノエル!ちぇすとおぉ~!」




「姉さんっ!」




 当然のように、あたしは勢いよく飛び降りた!




「はっ!?」




「えっ!?」




 しかし、華麗に飛び降りたはずが運悪く窓のサッシにすねを強打したあたしは、つんのめって真下にあった日よけの幕が張られているところにズボリと落ちてしまった。わああああ弁慶の泣き所がぁぁあぐぁあ~!おまけになんだかこの感触、幕と共に下にいる生き物も巻き添えにしてしまったような・・・。




 ような、ではない。日焼けして黄色くなった幕に包まれた誰かがあたしの下でもごもごと蠢いていた。




 あたしは慌てて幕の波を手繰り寄せる。哀れなその人の腕が見えたから、掴んで引き起こす。




「わああ、本当にごめんなさいっ!わざとではないんですっ、わざとじゃ…。あの、ごめんなさい、本当に急いでいて、あの、お怪我は、ご、ざいま…」




 声が止まった。




 するりと幕が落ちて出てきた超絶不機嫌そうな顔は、黒い髪に黒い瞳を持つ、カルミナ族のアム、その人だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る