恋に落ちる姉
「…っはぁ、はぁ、はぁ…」
どれくらい走ったのか、男は民家も疎(まば)らな町外れをすり抜ける。あたしが息も絶え絶えなのに対して、男が乱しているのは服の裾ぐらいだ。夜の静寂(しじま)に響くのは、無機質な二人分の足音と、あたしの荒れた呼吸音だけ。
どこまで…行くのだろう。
そう思った時だった。男は、イキナリ足を止めた。そして間髪入れずに真後ろのあたしを振り返る。それがあまりに急だったものだから、手を引かれるがままただ男についていこうと必死だったあたしは、前に進む勢いもそのままに男の固い胸板に顔面を思いっきりぶつけてしまった。
「いッ…!あ、すみません…!?」
鉢の中を泳ぐ金魚のように口をパクパクさせながら走っていたせいで、歯もぶつかってしまった気がして、反射的に当たったと思しき所に手を当てて怪我がないか確認する。だって母さんから『あんたの歯は兄弟一丈夫だねぇ』って言われていたから…。
けれど男はそんな心配など全く意に介さない様子で、あたしを怖い顔で覗き込んだ。
「あそこがどういうところかわかっているのか?」
なんだかわからないけれど、男はとても怒っているようだった。
そう言えば、声をかけられた初めから彼は怒っていたような気がする。
あたしはかけられた声に返事もせず、酸素の足りないのぼせたような頭でやたら近くにある男の顔をぼけっと見上げた。
夜闇に蠢(うごめ)く焔(ほむら)の色の髪を持つ彼。より鮮やかな赤を彩るその視線は今、燃え上がるように強い。
そう、赤い髪、赤い目のラトゥミナ族…。
川であたしの腕を掴んで引き上げてくれた時と同じ瞳が、その時よりも強い光を放ってあたしを捕えて離さない。
「キミが行くようなところじゃない」
「あ、え、っと…は、はい…」
話の内容もよくよく理解しないままにあたしは頷いた。
「そもそも金貨四十枚も何に使うつもりなんだ」
「おと、弟が…」
「なに?弟?」
「怪我、を…」
「…怪我?」
男は怖い顔のまま、一瞬沈黙した。それからあたしの手を取って歩き出す。
「その弟がいるのは、どこ」
「あ、えと、宿で…」
「その宿は、どこ?」
「え、えっと、中心街から北の、緑の屋根の…」
言うが早いか男は左に進路をとる。今どこを歩いているのかすら理解していないあたしにとって、それが正しい方向なのか、間違っているのかもわからない。
それより何より、再び繋がれた手にどうしても意識は集中してしまう。
「…あんなところにいてはいけない」
「…え?」
先ほどよりも落ち着いた声で彼が何かを言ったけれど、進行方向を向いたままだったので、引っ張られるがままのあたしの耳では全く聞き取れなかった。
「金貨四十枚は治療費なのか。それだけの金額ということは命にかかわる傷なんだろう。家族のことが心配で仕方がない気持ちはわかる。だが、キミが自分を売って手に入れた金貨だと知って、果たしてその弟は喜ぶのか?」
…。
…えっと…。今、なんて?
男に言われたことがじわじわと染み入ってきたと思ったら、空っぽだった頭が一気に鮮明になった。
「ご心配いただきありがとうございます!」
受け答えもろくにできなかったのが嘘のように、あたしは繋がれていた手をはっきりと振り払った。なぜだかちくちくとする胸を押さえて唇をきゅっと噛みしめる。
あたしの変わり身を感じ取ったのか、男は進む足を止めて怪訝そうに振り返った。
「喜ぶも喜ばないも、関係ありません!ええ、それは喜ぶわけないに決まってるじゃないですか!あの子はとても優しい子ですから…。でも、じゃあ、この行きずりの町で、何の保証もないあたしが、他にどうやってお金を手に入れれば良かったと言うんですか!誰にも貸してもらえるわけもない、高価なものなんて何一つ持っていない、ただの小娘が金貨四十枚なんて大金…。…あたしは、どうしてもどうしてもあの子を助けたくて…やっと出会えたあの子を、もうこれ以上苦しめたくなくて…それで残っているものと言えば、もう…この体しか、ないじゃないですか…」
なんだか悲しい。とても悲しい。そうだよね、あんないい革靴を持っているような、髪に宝石を編み込んでいるような、金貨四十枚をぽんと出すと言ってくれるような身分の人には、お金がほしいから身を売るなんて、きっと理解できないし、侮蔑の対象に違いないんだよね…。
なんだろう、今すぐ、ここの人の前から逃げ出したい。誰でもいいから、あたしの体をここから隠してほしい。
わけのわからないやるせなさに口を真一文字に引き結んで俯いていたあたしは、不意にあたたかい腕に抱き寄せられた。
「…すまない。私の考えが足りなかった…」
さっきぶつかった厚い胸に今度は優しく抱きしめられている。そう気づいて息が止まった。後頭部を彼の大きな手が撫ぜる。
「キミの気持ちも考えず…。そう、だな。好きであんなところにいる子はいないな。すまない…許してくれ」
後ろの手が離れたと思うと、なぜか男はあたしの首をくいと左側に傾ける。
…ん?
その不可思議な動作に、なんだか既視感を覚えて、あたしは石化状態から戻った。
『…決してキミを侮辱する意図があったわけではない。許して欲しい…』
男と会ったのは、今と、そして昨日の二回だけ。昨日、そうだ、別れ際に…。
「わあああああああああ!?」
近づいてきた男の顔をあたしはもぎゅりと両手で受け止めた。
お、おも、思い出したぞ!むしろなぜすっかり忘れていたのか!
だって前回、あたしはそれで逃げ出したのだから!
「なっ、な、なに、なにをするんですか!」
あたしは狙われていた首筋を押さえて、男から盛大に飛び退(すさ)る。
「何とは…許しを…」
「ユルシ!?」
シリアスな気持ちもぶっ飛んで、あたしは悲鳴のように叫んだ。
そういえば前回もそんなことを言っていた。許して欲しいとかなんとか…。そうしてこの目の前の男は、あたしの耳の後ろに、き、き、キスしたのだ!
許して欲しいからって、なぜそんなことをする必要があるのか全く分からない。行動の因果関係が、一切掴めない。
言葉、言葉ありますよね!言ってくれれば、アタシ、ワカル!ダイジョブ、ワカル!
歩み寄ってきた男に逃げるより先に手首を捕まえられて、それがあたしの混乱に輪をかける。
どっひゃあ~~~~~~!
もうもう、頭の中が限界越えで思わずカタコトになるぐらいわけわかってないから、とりあえずこの場から一刻も早く逃げ出したいの、に!
「すまない。キミといると私は失礼なことばかりをしている。でも弁明をさせてくれ。逃げないと、話を聞くと言ってくれないか。今にもキミはここから去りたそうな顔をしている」
そうです全くその通りです…!わかってるなら手を離して欲しい…!
男は真摯に言い募る。
あたしは繋がれている手を振り解こうと何度も大きく振った。が、男の手は離れる気配が一向にない。
「逃げないでくれ。私は治療師(ミナ)だ」
その切羽詰まった声に、あたしの動きがぴたりと止まった。
え、今、なんて…。
あたしがまじまじと男を見ると、男は頷いた。
「知らないか。ラトゥミナは皆、治療師の力を持つ」
…し、知らない知らない知らないっ!
あたしはぶんぶんと首を振った。
ミナなんて、産まれてからこの方、出会ったことありませんから…っ!
あたしが驚いているのには理由がある。ミナ…と呼ばれる治療師は、医者と全く別の存在で、魔法使いのようにどんな怪我や病でも癒やせる者達のことだ。でもこの広い世界に片手で数えられるぐらいしか存在しないと言われているし、もう伝説級の御伽話(おとぎばなし)みたいな存在だと、思って、いた、の、に…!?
「えっラトゥミナ族って全員でどのくらいいるんですか!?」
「ちゃんと数えたことはないが…三百人ぐらいか」
多っ!めっちゃくちゃいるじゃんか!誰だ五本の指で数えるぐらいしかいないとか嘘言ったヤツ!百足(ムカデ)の足全部足しても足りないぞ!
「だから、キミの弟も治せる。私のことを信用してくれ」
男の目に嘘はなかった。あたしはその熱意に押されて、気がつけばこくりと頷いていた。
「ありがとう」
男はほっとしたように微笑んだ。あたしの心臓がどきりっと跳ねあがる。
顔が熱くなり、どくどくと流れる血を意識する。
ああもう、あたしはなんでこんなに緊張して…病気なのかも。ノエルのあとにあたしも診て貰うべきかもしれない。
あたしは汗ばんだ頬に手を当てる。
この人を前にすると、いつもの気の強さがどこかに行ってしまったみたいにあたしは自分が女であることを強く意識してしまう。それが、こそばゆいような、誇らしいような…奇妙な気持ちだ。
「赤の色素を持つラトゥミナでは、赤いものが神聖とされる。例えばこの身をあかあかと流れる、血液」
男は挙動不審なあたしの様子を気にすることなく、あたしの手を引いたまま三度(みたび)歩き出す。
「血には神が宿ると言われる。左耳の下、右耳の下、心臓、足の付け根、唇…右の耳にいるのは慈悲の神だ。唇に宿るは誠(まこと)の神。互いをあわせ、己の誠でもって相手の慈悲に許しを乞う」
男の言葉は聖職者が唱える祝詞(のりと)のように、また王の御前で唄う歌姫のように、なんの違和感もなく澄んだ水のような清らかさを以(もっ)てあたしに染みこんできた。このまま、ずっと聞いていたいぐらい…。
「だから、その…急にあんなことをして驚かせたのは申し訳なく思っている。が、決して悪意あってのことではないのだ。私はラトゥミナを出て長いが、どうも、ラトゥミナの風習が抜けきらない。他人を動揺させることは避けるべきだと思ってはいるのだが…」
男は困ったように笑うと、ぽんとあたしの頭の上にその大きな手を乗せた。
「…たまにキミのようにラトゥミナのことを全く知らない人間を驚かせてしまうことがある。先ほどの『誓い』、友には本気で嫌がられた。ははは」
…ん、うむ。つまり、ラトゥミナ族では誰かに許して欲しい時、相手の右耳の下?にキスをするのが恒例行事ってこと?わ、わあぁ…さすがは希少民族。
「…そんなことしなくても、口で言ってくだされば許します」
「そうだろうとも。しかし…もう体に染みついていてしまってね。できるだけキミたちの『普通』にあわせるつもりだが、また何かしてしまったら、その時は同じように許してくれるかい?」
「…はい」
男はあたしを振り返るとまた目尻をとろけさせるように笑った。ああ、この人、なんて優しそうに笑うんだろうー…と思ったそのとき、不意にすとんと自覚した。
ああ、あたし、この人が好きだ。
まだ名前すら知らないこの人のことが―…好きなんだ。
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