金貨四十枚と姉

「金貨三十枚」




 あたしは目玉が飛び出るかと思うぐらい驚きすぎてすぐに声も出なかった。




 今のあたしは客観的に見たらクワッと白目をむいて口から泡もちょっと吹いているかもしれない。そこまでじゃないとしても、年頃の乙女がするフェイスじゃないのは疑いようもない。




 しかし医者はあたしの様子になんて興味なんかないとでも言うように、極めて事務的に同じ内容を繰り返した。




「聞いているかね。金貨三十枚」




「きっ、聞いていますけ、ど…」




「けど、何だ?言っておくが、このままだとこの子、危ないよ。すぐ手当てをした方がいい。勿論、貰うもんは貰ってからだが」




 医者は追い打ちをかけながら、ほれほれとあたしに向けてゼニの形にした手を出す。勿論、こんな小娘がそんな大金を持っていないことを承知の上でだ。




 こ…っこの腐れ医者…!




 あたしの額にびきびきと青筋が浮かぶ。でも医者はやっぱり顔色一つ変えることなく面倒くさそうに言う。




「あ、ちなみにこの町医者はワシしかいないから。隣町結構遠いから」




「わかりましたお金は絶対に準備しますから治療をお願いしますッッ!」




 あたしは一息に言った。そう、可愛いノエルのため。背に腹は代えられないのだ。代えられない…。




「ふうん、そうかね?じゃあ、後払いと言うことで金貨四十枚だな」




「この強突張りの腐れジジイ!」




 「え、今なんて?」と言われて「なにも言っておりませんが?それでは治療をよろしくお願いします」とキリッとした顔で宿を出てきたのがかれこれ三十分前のこと。そして即座に飛び込んだ金貸し屋ににべもなく叩き出され、質屋にすら塩を背中に受けながら追い払われた。ヒートアップしちゃう性格はあたしの悪いところだけど、ちょこーっと詰め寄っただけでまるでハエを追い払うようにしなくてもいいんじゃないの!ねぇ?




 結局どこからもお金を借りられずにとぼとぼと歩くあたしははああああ~~~と大きなため息をついた。そんなあたしを、胡乱げに町の人がチラ見しながら通り過ぎる。




 金貨、四十枚、四十枚か…金貨四十枚と言えば、嫁入り道具にもなるとびきり良い馬が買えるほどの金額だ。大の大人の丸二年・・・いや三年の給料にも値する。そんな大金、ド田舎村出身のあたしが持っているわけもない。でも確かにノエルは骨も折れていそうだったし、ずっと息をしているのか不安なぐらい静かに眠っている。できるだけ早急に治療が必要なのは疑いようがなかった。




 お金、お金か…お金…。




 銅貨一枚ならいざ知らず、こんな得体の知れない旅人に金貨四十枚もの大金を貸そうなんて豪胆な人間がいるはずもないのはわかりきっていたことだった。借りるのがだめなら、一体どうしたら・・・。




 ぶつぶつ呟きながら、当てもなくただ考えるために歩き続けたあたしは、ふと周りの景色が変わっているのに気がついて立ち止まった。




 どれだけ悩んで歩き回ったのか、いつの間にか日は落ち茜色に景色を染めている。その中に、ぽっと灯った黄色い明かり。




 目に入るのは、こんな田舎町に不釣り合いの、まるで東国にでも行ったかのような鮮やか・・・だったであろう朱塗りの柱。年季が入って色は褪せているけれど、それでもひらひらと衣を靡かせて花のような女官が顔を出す幻が見えるようだ。




 夕焼けと相まって、その風景はまるで厚く絵の具を塗り重ねた一枚の絵画のようだった。あたしは暫く、その見慣れない建物に見惚れた。




 ・・・噂には聞いていた。町にはこういうお店があると。




 無意識でもこんなところにたどり着いたのは、もしかしたら神のお導きかもしれない。




 そう、選択肢などはじめから一つしかないのである。あたしが持っているもので、売れるものといえば、たったひとつだけ。




 はあああ~~とあたしはまた大きなため息をついた。




 ひらりと想像に違わない華やかな衣を纏った女の子が明かりを持って出てきて、あたしを見つけて不思議そうな顔をする。かろんと音を立て、持っていた提灯を入り口脇の黒い金属の輪っかに吊すと、あたしを気にしながらも中に戻っていく。提灯には達者な崩し字でこう書かれていた。『夢廊』。




 あれだけ眩く美しかった太陽は地に吸われるように、その存在を急速に無くしてゆく。そして闇の訪(おとな)いと共に、ぽつりぽつりと川のように明かりが灯る。どうやらここいら一帯は、同じようなお店が集まった場所のようだった。あたしは光のあたらない路地裏で激しく高鳴る心臓を押さえ、呼吸を落ち着けていた。




 いつしか路地は昼間のように光が満ち、活気が溢れていた。どこから出てきたのか、驚くような数の人間が、笑い、酒臭い息を吐きながらよろけるように道を往く。その袖を可憐な女が引く。引かれた男は、二言、三言女と言葉を交わすと、建物の中に消えてゆく・・・。




 情報としては知っていても、実際に目にしたことのなかったあたしの衝撃は凄まじかった。




 男なんて、男なんて・・・。




「・・・お、おォ?なんだぁ?こんなところで。ニイちゃんいくらだァ?」




 何に対してかわからない怒りに震えるあたしの耳に、熱に浮かされたような言葉が飛び込んできた。それがあたしにかけられた言葉だと気づくのに時間はかからなかった。横顔に受けていた光が、何者かに遮られていたけれど、あたしはあたしに声をかけてきたその人物を目認することを拒絶するように、睫すら動かすことなく低い声で言った。




「・・・金貨、四十枚」




「なんだって?金貨四十枚?おいおい、冗談はいけねぇぜ。せいぜい銀貨一枚・・・」




「触るんじゃないわよーーーーッ!」




 腕を掴んできた男を思わず背負い投げしてから、あたしははっと我に返った。そして逃げた。ダッシュで。




 ち、違う。何か違う。嫌悪感から反射的に投げ飛ばしてしまったけれど、これは違う気がする。いや、あいつは金貨四十枚なんて払えそうもなかったから、いいってことにしておこう。というかあたしを男と思って声かけてくるなんて、どういう神経してんの・・・。




 騒ぎになる前に逃げ出せたようで、あたしはまた別の、同じような路地のところで立ち止まって息を整えた。




 いや、いけない。これはいけない。声かけてくる男を片っ端から投げ飛ばしていたら、いつまでたっても金貨四十枚なんて稼げそうもない。




 ニイちゃん、か・・・。




 あたしはふと思い立って、いつも高く結い上げていた髪を解き、ばさりと肩に落とした。




 これで少しは、女っぽく見えると良いけれど。




「うへ、ニイちゃんいいなぁ。客じゃないだろ?うへ」




 そう思ってたらまた早速お声がかかった。残念ながら兄ちゃん認定だが。




 とても生理的に受け付けない声だったけれど、えり好みをしていられる余裕はあたしにはない。




「いくらだぁ?うへへへへ・・・」




「金貨四十枚。びた一文負けない」




「そりゃあむりだぁ。うへ、うへ、うへ・・・」




「うへうへうへうへおまえはルッペンか!」




 触られたわけでもないけれど、あまりの気持ち悪さに、気がつけばまた手が出ていた。足下には地面とキスをし、鼻血を出しながら伸びている…ルッペン男。あたしはまた逃げる羽目になった。




 気を取り直して三度目の正直・・・と思ったら、今度は全く声がかからない!




 汚いものでも見るようにあたしを睨み付けながら通り過ぎる人たち。一時間たち、二時間たち・・・そうしてあたしは気づいた。それは、遅すぎたぐらいだった。通りゆく男達に絡みつく女の人たちは、綺麗な衣に綺麗な髪飾りを纏い、一分の隙も無く化粧を施した顔に赤い口紅をひいていて、誰もが皆「女」であることを、自分がどんなにいい「商品」であるかを競い合うように全身を磨き上げていた。そんなところに、髪はざんばら、埃で薄汚れた頬にくったくたになったズボンを履いたドブネズミのようなあたしがいたって、誰も声をかけるわけがない。せいぜいが、横目で見ながら「場違いな人間はどこかへ行け」と思われるぐらいだろう。




 あたしは俯いた。多分、あたしのやり方は失敗だったのだ。女を買うどこかの店の戸を叩いて、あたし自身を売りたいと言うべきだった。そうすれば少しは治療費の足しになるぐらいの額を握り締められたかもしれない。今すぐ金貨四十枚は無理でも、働いて返せるだけの額を。




 ううん、今からでも遅くない。そうするべきだ。こんな見世物みたいな状況から、早く立ち去るべきだ・・・。




 そんなことを考えながら地面を見つめていたあたしの視界に、ふいに大きな革の靴が飛び込んで来た。だいぶ上等そうな、でも長く履きこんでいそうなその靴のつま先は、両方ともあたしを向いていた。あたしの目の前に、その人間は立ち止まっているのだった。




 ざわりと周囲の人間のざわめく音が聞こえる。まるで、あたしの前にその人が立ち止まったのがありえないとでも言うように。



「・・・いくら」




 押し殺したような声が聞こえた。まるで怒りを抑えているような。てっきり何か言われるとしてもこんなとこにいるんじゃないという苦情もしくは忠告だろうとのんきに考えていたあたしは驚いた。この人、今…何て言ったの?思わずその革靴をまじまじと見てしまう。




「・・・え?」




「いくらだ、とそう聞いている」




 聞き返したせいか、声のイライラ度数が上がってる…。なんだかわけのわからないプレッシャーを感じながら、あたしは答えた。しかもなぜか敬語で。




「金貨、四十枚、です・・・」




「金貨、四十枚?」




 男の語尾が不快そうにあがる。ああまた高すぎるって言われるのか・・・。でも、だって仕方ない。ノエルのためだ。それにしてもなんでこの人は初めからこんなに怒っているのか摩訶不思議だ。




「買おう。来なさい」




「…えっ?」




 あたしは予想外の言葉に思わず聞き返した。しかし男はそれに返事をすることなく、あたしの腕をとると歩き出した。あたしは思わず顔を上げた。そして息が止まるかと思った。




 男の足は速い。あたしは手を引かれるがまま、ただ小走りでついて行くしかない。周りの景色がぐんぐんと後方に流れてゆく。誰もが彼を見て驚いたように道を譲る。「えっ、ラトゥミナ族・・・」そう声が聞こえたかと思えば遠ざかってゆく。夢、そう夢のようだ。現実味がまるでない・・・。あたしの長い髪と、男の背の半ばまである赤い髪が、風と共に棚引いてゆく。




 繋がれた手が、ただ熱かった。

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