第137話 儚い想い



 夜半、ホランド軍司令官ユリウスの天幕に招かれたのは、クロア関守備兵からの猛反撃を受けて、這う這うの体で逃げ帰って来たホランド軍の主だった将軍や部隊長達だ。所々火傷をしていたり、装束が煤塗れになっており、到底軍の指揮官に見えない情けない姿が余計に哀れさを醸し出している。さらに外見だけでなく、彼等はさながら斬首刑執行の順番を待つ死刑囚の気分を味わっている最中で、あまりの恐ろしさに誰一人としてユリウスの顔を見る事が出来ない。

 天幕に招かれてから一体どれだけの時が流れたのか。体感時間は永遠に近いようにも感じられたが、実の所まだほんの数分しか経過していない。だが、自らの中では既に処刑の準備が整っていると勝手に思っている敗残兵の彼等には、永遠に続く責め苦に等しいものに思えてならない。


「―――報告を聞こう」


 罵倒でもなく、嘲りでもない、ごくごく事務的で短い命令がユリウスより発せられる。その声には一切の感情が含まれていないような平坦な調子だ。だが、彼にごく近しい者、副官であり半身のオレクには、主人が過去に例が無いほどに怒り狂っているのだと感じ取れた。これほどの激情はアルニアの地でサピン軍が自軍の兵六千を道連れにして果てた時でさえ沸いていない。

 今首を垂れて這いつくばっている将も詳細までは知り得なかったが、普通の精神状態では無い事ぐらいは察している。これでは天幕に入ってくるなり罵倒されるか、杯を投げつけられた方がまだマシだと全員が感じていた。なまじ何をしてくるか分からない恐怖の方が実害を受けるより精神を参らせる。

 だが、司令官から報告しろと命令された以上は従わねばならず、彼等の中で最年長の将軍の一人が今日の出来事をかいつまんで報告する。それをユリウスは一言も発さず、黙って聞き続けた。



 全てを聞き終えたユリウスは将軍に一言、『ご苦労』とだけ口にし、溜息を吐く。その仕草一つが天幕に集まった者の心に重く圧し掛かり、何も言わないユリウスの沈黙が肌を切り裂くような痛みとなって、這いつくばったままの男達の背中を蹂躙していた。誰も顔を上げない。中にはこのまま首を刎ねてくれと心の中で懇願するほどに、今の天幕内は重苦しく苦痛しかない空間だった。


「―――今日、攻城戦に参加していた二万の内、八千を失うとはな。生きて戻って来た者も重傷者が多い。彼等は明日の朝日を拝む前に父祖の元、先に行った戦友達と再会するだろう。お前達も耳を澄ましてみろ、この天幕の外では彼等の苦しむ声があちらこちらから聞こえてくる」


『あついあついあつい』『いたいいたい』『とどめをさしてくれ、はやくらくになりたい』


 この天幕は救護所から随分離れているが、それでも痛みに苦しむ負傷者の怨嗟の声はここまで届いている。それもそのはず、運良くあの場を離脱出来た一万二千の兵士も、無傷で済んだのは半数程度だ。後は何処かしら火傷を負っており、重度の火傷を負った千人余りは生存を絶望視されている。助からないと判断された者は早々に同僚達が止めを刺したが、何十人程度の従軍医師では一気に数千もの負傷者を治療出来る訳が無く、未だに多くの負傷兵が放置されて、誇張無しの地獄絵図を生み出していた。そんな彼等の苦しむ声がさらに自分達を苦しませている。


「この声は一体誰のせいで聞こえてきているのか。―――――私を含めた我々の責任だ」


「あ、いえ、ユリウス様それは―――――」


 半身の制止を視線だけで切り捨て、今日の敗北は自分に責任があると明言した。それはオレクにとって絶対に認めたくない主人の汚点。栄光ある次代の王の顔に泥が付いた瞬間でもあった。


「ユゴス側にドナウが使っていたトレブとかいう投石器が無いと判断したのは私を含めた軍の将や指揮官だ。我々が油断してノコノコと敵の射程圏内に誘い出されたのも、私達全員がユゴスを見誤ったからだ。

 彼等が今苦しんでいるのは、我々の仕出かした失態の所為だ。だからこそ我々は彼等の犠牲を無駄には出来ん。お前達、顔を上げて私の顔を見ろ」


 ここで初めて彼等はユリウスと正面から向き合う。若いながらも王者の風格を持つ王子は、その蒼い瞳に涙を堪えて必死で激情を押さえつけながらも、自らの責務を果たそうとしていた。そう、軍人としての責務とは、勝つ事に他ならない。


「この涙は負けた悔しさでは無い。明日、ユゴスの兵士達を皆殺しにして、勝利の勝鬨を上げる嬉し涙を今流しているだけだ。残りの三万の兵全てを投入して明日一日で関所を陥落させる。例え多くの犠牲が出ても、何の成果も無しにすごすごと逃げ帰るよりは、傷を負った征服者として、ユゴスを蹂躙する。それが出来ないと思うなら、今すぐに申し出ろ。私が首を刎ねてやる」


 ここまで年若い王子に叱咤されて黙っているような腰抜けは生まれついての戦士であるホランド軍人にいるはずもない。命からがら逃げ延び憔悴した将達も、瞳に生気と闘争心を再び宿し始める。中には雄叫びを上げて明日の戦を待ちわびていると自己主張する者もおり、その闘志は次々に周りに伝播して、先程までの処刑場の如き暗い雰囲気は吹き飛んでいた。

 ユリウスもこれには満足し、ようやくまともなホランド戦士に戻ったと将軍達に笑みを向ける。そして、彼等に明日の方針を発表する。


「明日夜明けと共に全軍で敵の関所に総攻撃を掛ける。本陣に残してあった破城鎚全てを投入して門を打ち破るぞ。予備に残してあった投石器も出し惜しみするな。騎兵も降りて戦うか、それが嫌なら囮として敵の目を惹きつけろ。可能な限り破城鎚を敵門に辿り着かせろ、この際どれだけ犠牲を払っても構わん。負けて逃げ帰るぐらいなら潔く死ね」


 そうだ、負けて故郷に逃げかえるなど絶対に嫌だ。今ならまだ大きな犠牲を払いながらも敵の要地を陥落させたと誇れるのだ。戦士にとって誇りや矜持は時として命よりも重い。この生き様こそホランド戦士の本懐だ。


「異論は無いようだな、ではすぐに兵達に明日は負けられない一戦だと通達して準備に取り掛かれ。後で私も兵達を鼓舞しに行く」


 絶叫と取り違えかねない命令の受諾し、彼等は滾る闘争心のままに明日の決戦に備えようと天幕を辞そうとした瞬間、外から聞こえてくる轟音に足を止めた。さらに兵士達の絶叫があちらこちらから生まれ、次々と聞こえてくる轟音と嗅ぎ慣れた臭気に、外で何が起きているのかが、およそ予測出来た。

 まさか、そう呟いてユリウスは真っ先に天幕から飛び出て、周囲で何が起きているのかを把握する。現在は夜にも拘らず、まるで夕暮れ時の様に大地は赤く染まっている。そして大地からは無数の黒煙が立ち上り、吐き気を催すような臭いをユリウスの鼻孔へと運んでいる。

 ここ毎日、日課のように嗅ぎ、サピンとの戦いでも当たり前のように嗅いだ不快な臭い。人が、それも自分達ホランド人が焼ける最悪の臭いだ。


「敵だー!!ユゴスが夜襲を仕掛けて来たぞ!!応戦しろーー!!」


「いったいどこから襲ってきてるんだよ!!ここは本陣の中央だぞ!幾ら投石器を使っても届かねえし、届いてもあんなデカい物すぐに見つかるだろうが!!見張りの目玉は泥でも詰まってんのかよ!!」


 突然の襲撃、それも一体どこから攻撃を受けているのかも分からない状況では誰も冷静な判断が出来ず右往左往するばかり。情報も錯綜しており、関所の側から攻撃を受けたと言う者が居れば、反対に後方から攻撃された者も現れて一層混乱を助長してしまい、さらには既にユゴス兵が入り込んでいるのではと恐怖に駆られた兵士が、やみくもに剣を振るって同僚を死傷させてしまい、一部では同士内すら始まっていた。だだし、この証言も一部は間違っておらず、ホランド人を燃料に燃え続けるナパームの炎は既に二十を超えて、宿営地の至る所で起きているので、余計に状況把握を困難にしていた。

 しかし、襲撃は一時的なもので、現在も数十の炎が燃え盛っているものの、別の場所で火災が起きなくなったのに気付いたユリウスが周囲に居た将軍達に事態の把握と火災の鎮静化を命令する。魂の抜け落ちていた将軍達もすぐに我に返ると、慌ただしく命令通りに宿営地全体に散って行く。

 近習達にも護衛より火災の消火を命じると、彼等は危険だと苦言を呈すが、どこから攻撃してくのか分からない以上は、何処に居ても危険な事は変わりがないと突っぱねて、無理矢理行かせた。

 周囲には半身のオレクだけとなったユリウスが、溜まりかねたように膝を着き、子供のように泣き崩れる。護衛達を遠ざけたのは、みっともなく泣き喚く姿を見せたくないという羞恥心と王子としての意地があるからだ。そんな主人をオレクは優しく抱き留め、壊れ物を扱うように丁寧にあやす。オレク自身もこの異常事態に心が参ってしまいそうだったが、こんな様子の主人を放ってはおけず、どうにか魂を奮い立たせて務めて冷静に振る舞っていた。

 その心が通じたのか、次第に落ち着きを取り戻したユリウスはオレクに礼を言って、手近にあった水桶で顔を洗って涙の痕を消す。そして冷静になった頭で、これからどうするかを考え始めた。



 しかし、そんなユリウスのなけなしの労力を嘲笑うかのように、さらなる火の手があちらこちらで噴き上がる。中にはユリウスの居た天幕のすぐ近くに何かが落ちて来て液体を飛び散らせる。慌ててオレクが手を引いてその場から離れると、天幕中の照明に引火したナパームが付近を赤く染め上げる。二人の身に火傷は無かったものの、オレクは自身の手が震えている事に気付くが、それは間違いだとすぐさま知る事となる。


「私は、私は、一体何と戦っている?敵は一体どこにいる?ユゴスは人ならざる悪魔と手を結んだとでも言うのか?答えてくれオレク、私は私は―――」


 震えていたのはオレクの手では無く、ユリウスの手だった。ここに来てとうとうユリウスの心は、見えざる敵、理解し難い正体不明のナニかに、完全に砕かれてうわごとを繰り返すだけの抜け殻に成り果ててしまった。

 この主人の錯乱にはさしものオレクも絶句して、しばらくどうして良いか分からず、ただ幼い子供を落ち着かせるように抱き留める他無かった。



 だが、彼等ホランド軍の受難は終わるどころか、さらなる混沌へと蹴り落とされる。最初に気付いたのはクロア関側の見張りの兵士だった。彼は陣営内の火災も気になってはいたが、最も敵襲の可能性のある敵陣を警戒していた。しかし、投石器のような大型の建造物やそれを運用する兵士など終ぞ目にしていない。こちらからの敵襲は無いと踏んでいたが、二度目の襲撃の後、遠目に闇夜の中の光る物に気付いた。


「こっちだ!!ここに敵が居るぞー!!!早く来てくれー!!」


 ありったけの大音声で敵の存在を知らせるが、他の兵士が気付いた頃には既に手遅れとなっていた。先程は小さな光だったものが、兵士の声に反応するかのように一気に大きくなり、数十もの燃え盛るナニカに生まれ変わり、段々とこちらへ近づいて来る。それも兵士の大音量を遥かに勝る地鳴りと雄叫びを纏ってだ。

 徐々に近づいて来る明るい物体に恐怖を感じながらも、勇敢なホランド戦士としての矜持から逃げずに踏み止まったが、そんなちっぽけな誇りで近づくナニカが退く訳も無く、その正体に気付いた時には兵士の身体は無残な挽肉と化して、今宵多くのホランド人が先に旅立った死後の世界の仲間入りを果たすのだった。


(炎を纏った甲竜だと?そんな御伽話の怪物なんて知らない……)



 三度目の襲撃のあったホランド軍の宿営地を喩えるなら、誇張抜きで地獄と称される程に目を覆う有様だった。とは言えそれは地球の仏教やキリスト教由来の価値観になるが。

 ドナウもホランドも死後は父祖の元に旅立つというのは共通した価値観だったが、余程悪行を重ねた場合は父祖からこちらに来るなと拒否されて現世を彷徨うと言われており、地球のような永劫続く責め苦などは考えられていない。だが、今夜のような阿鼻叫喚の凄惨な状況を称するには、地獄という言葉以上に正確に当てはまる言葉は存在しなかった。

 次々に生まれる炎と、それに焼かれる兵士達。動く者全てが敵だと誤認して同僚に斬りかかる錯乱した兵士と、それを殺してでも止めようとする同じ兵士。さらには炎に身を焼かれて狂乱して、ひたすらに陣営内を走り続けて手あたり次第に踏みつぶして行く、人間の十倍以上の体躯を誇る数十頭の甲竜。

 最早そこは、炎に狂ったケダモノ共が延々と殺し合いを続けるだけの正真正銘の地獄でしかなく、例え勝った所で何かが残る訳でもない。自分自身の命すら危うい状況での最善手など、さっさとこの場から離れる事だけだ。事実、比較的冷静な者は即座に陣営を抜け出し離脱に成功している。勝手に宿営地を抜けるのは重大な軍規違反だったが、罰せられるのも命が有ってこそだ。今ここに残っているのは錯乱した者や、それを抑えようとしている者、負傷して動けない者や、それを放っておけず助けようとする者、自身の職務を全うしようとする者など多岐に渡ったが、その多くは明日の朝日を拝めないのは確かだった。



 その中にはユリウスとオレクの主従も含まれており、かろうじて正気を保っていたオレクがユリウスの手を握りながらノロノロと炎が巻き上がる宿営地からの離脱を図っていた。

 抜け殻のような状態のユリウスは当然歩く事もままならず、仕方なくオレクが担いで移動しているが、幾ら屈強な兵士でも、大の大人一人を抱えて迅速な行動は難しく、その歩みは緩慢だった。


「はあはあ、ユリウス様、もう暫くの辛抱ですので今は耐えてくださいね。私の命に代えても貴方をお救い致しますので」


 このような状況下にあっても主を決して見捨てないオレクは筋金入りの忠臣と言えるが、心だけで状況が好転する事は無い。所々炎が邪魔をして迂回を繰り返し、自分が何処にいるのかも分からず、とにかく火の気の無い場所を探し続けて歩いているだけで、状況は刻一刻と悪くなるばかり。度々火に煽られ熱が身体の水気を奪い、呼吸をすれば喉を焼く。そのような絶望的な場面であっても、オレクはただ、ユリウスの安寧だけを求めていた。


(そういえばまだ幼い頃、二人で城を抜け出して遊んだ時、疲れ果てて眠そうなユリウス様をこんな風におぶって城まで帰った事があったな。この方はあの時から全然変わっていない。いつまでも私が付いていないと駄目なお人だ)


 主人の重みを背に感じ、かつての美しい思い出が脳裏をよぎる。あの時から自分も随分成長して、今や次期国王の片腕、否、半身としてこれ以上無いほどに重用されているが、実の所そんな地位などどうでも良いと考えている。今も昔も、自分はただ、ユリウスの側に仕えて、彼の為に働きたいだけなのだ。朝も昼も夜も、起きる時、食事の時、身を清め、寝床を共にする時、ずっとそばに居て、愛しい男に仕えられれば、それ以外の物も者も何も要らない。


(この世で最も愛おしい主人が生き残ってくれさえいれば他に何もいらない。自分の命だって捨てて構わない。だから父祖よ、どうか今しばらく我が主を現世に留めて頂きたい)


 しかし、そのような忠臣の悲痛な想いは脆くも崩れ去る。二人と同様に火の無い場所を探し求める狂った凶獣になった甲竜が猛烈な勢いで後ろから突進し、オレクは逃げる間もなく愛する主人共々、踏みつぶされて生涯の幕を閉じる事となる。ズタズタになった二人の遺体はそのまま炎に焼かれ、後日多くの兵士等と共に一纏めにされてユゴス兵の手で埋められる事となった。

 大国ホランドの王子としてはあまりにも粗末な扱いだったが、誰の骨かも分からない状態では当然の扱いだろう。



 クロア関での戦いから十日目、四万の軍の内大半の物資と二万以上の兵を失い壊滅したホランド軍は、残存兵を纏めた将軍の方針により王都へ撤退する事となる。そして敗戦と同時に息子は生きてはいないと悟ったドミニクは、人目も憚らず泣き崩れ、数日間政務に手を付ける事は無かった。

 ユリウス王子の死により、ひたひたとホランドに滅亡の足音が忍び寄っているのが、西方全ての人間に認識される事となる。



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