第135話 クロア関防衛戦


 古来より国境とは山脈、河川、海洋、砂漠など自然の地形変化によって決定するものである。自らの生活空間とは明確に異なる境界線を利用して、人類ないし国家は生活圏を分けている。

 ホランドがユゴス、レゴスと国境と定める境界線は南北を縦断するディナル山脈が担っており、ユゴスやホランドが国家を形成する以前から境界線として利用されていた。

 ただ、大陸を縦断する山脈と言えども、僅かながらに隙間は存在する。ユゴス側には二つの隙間があり、一つはユゴス中部、もう一つは北部にある。と言っても中部の切れ目には大森林が広がっており、何者も通すことを許さない領域を形成していた。一度森へと足を踏み入れれば、昼間でも殆ど日の光が届かず、方向すら定まらない。さらに強烈な地磁気によって人は愚か、野生動物でさえも道を容易く誤るような特殊な環境が形成されて、外来の生物を受け入れず独自の生態系を生み出すまでになった樹海は、さながら聖域、あるいは魔境と称されるにふさわしい領域と言え、古来からユゴス人はその森を常闇の森と恐れて、決して近づかなかった。そのような場所を踏破して進軍するのは幾ら勇猛果敢なホランド人でも避けたいらしく、最初から進軍ルートからは除外していた。

 そうなると必然的に大軍を進める道は一つしかない。

 ディナル山脈北部の切れ目にユゴスが関所を設けてホランド遊牧民の侵入を数え切れないほど防ぎ、今この瞬間にもホランド軍四万の侵略を押し留める拠点として効果的に働いている。関所は建設を命じた当時の王の名からクロア関と名付けられた。

 何百年もの間、増改築を繰り返したクロア関は最早、城塞と称しても差し支えなく、ドナウ王都の城壁を超える高さと倍以上の厚みの石壁によって不作法な客人を威圧し、建設以来唯の一度も抜かれる事なく役目を果たしてきた。そんな難攻不落の関所を護る兵士達は、自分達の数倍の敵兵が襲ってくると知っても、この防壁さえあればホランド兵など押し返せると自らの勝利を信じて疑わなかった。



 既にホランド軍の動きはユゴス軍翼竜隊の偵察によって捕捉されており、兵士達は今か今かと手ぐすねを引いて待ち構えている。ユゴスはドナウ同様北の海岸線に生息する翼竜を戦力化しており、少数ながらも偵察役として重用している。

 偵察隊からの情報を壁の上で受け取ったユゴス軍司令官マカート=シェンコは関所の兵士全てに檄を飛ばし、この関所を抜かれるとはすなわちユゴスの敗北と蹂躙を意味すると煽り立てて、兵の士気の向上を図った。これには兵士らも大いに精神を高揚させ、しきりに打倒ホランドを叫んでいる。

 その様子を冷静に、しかし頼もしそうに観察していた壮年の男がマカートに話しかける。


「流石はシェンコ閣下、これで兵の士気は天にも届くでしょう。それに兵も良く鍛えられていますね。ユゴスの兵は傭兵と徴兵が主体ですが、彼等は急遽集めた兵とは思えません」


「それは当然だ。我が国は何百年も前から隣のレゴスと争い合って実戦で磨き上げられた兵ばかりだからな。年がら年中訓練に費やしている貴殿らドナウの正規軍や生まれた時から騎兵として育てられるホランド兵にも負けはせんよ。

 流石に数倍の兵を相手に野戦は御免被るが、地の利を生かした防衛戦なら士気が下がる事など無い」


 隣の男の称賛にさほど面白くなさそうにマカートが答える。マカートからすれば、守勢ならば互角に戦えても野戦や攻勢に出るのは不可能だと自ら認めたような物だ。それは一人の将として自国の軍事力がホランドに劣っていると認めるに等しく、素直に喜べるような話ではない。これが王城に巣食う雀共なら愛想笑いの一つでも浮かべるだろうが、貴族とは言え戦場で命のやり取りを生業とする軍人貴族の自分には不要なものだ。


「あまり自国を卑下する物ではありません。我々とて数と機動力で勝るホランドに野戦など自殺行為に等しいと、教官もはっきりと口にしていました。そして、指揮官のつまらない矜持や面子の為に無駄に兵の命を散らせるなど無能の極み、生還した結果こそが兵に報いる最高の報酬だと、よく口にしています」


「ほう、噂の平民教官殿はそのような事を口にするのか。ユゴスでも噂になっているが、随分と愉快な御仁だな。

 我が軍にも面子が何よりも大事な指揮官は何人も居る。私は経験が無いが、過去に何度か誇りや面子に拘った指揮でレゴスに敗けを喫した司令官は決まって、誇りがどうのこうのと弁明をする。失われるのは兵の命と国の名誉だというのに、自らを守るのに必死だ。そう考えれば、ライス殿を含めたドナウ軍は得難い人材を手に入れたようだな。ドナウ王が自らの娘を嫁にやるだけの事はあるという訳だ」


 ここで初めてマカートが笑みを見せる。他国の軍に有能な教官が転がり込んだのは気に入らないが、今の所ドナウは味方として扱っても問題無い。何より、隣に居るフェルディナンド=ライスを初めとしたドナウ軍五百を自国に派遣したのはアラタ=レオーネの献策だという。それもホランドとの不戦協定がありながらだ。


「それを言うならシェンコ閣下も得難い将ですよ。我々のような飛び入りにある程度の自由権限を許可して頂き、あまつさえ献策を聞き届けてくださいました。並の器量では到底真似出来ないでしょう」


「おだてても何も出でこんよ。それに献策も熟考した末に、有効だと判断したから採用したまでだ。優れた策に国の違いなどありはしないし、我々だって命は惜しい。特に多数の部下の命を預かっているのだ。損失は少ないに越した事は無い。

 それに義勇兵だったかね?傭兵とはまた違った括りだそうだが、報酬を貰わず義憤に駆られて個人的に参戦するなら、建前上はドナウはホランドと剣を交えた事にはならない。私から見れば屁理屈をこねくり回しているようにしか見えないが、正直言って農繁期で兵の集まりが芳しくない時期に、正規軍人五百は今の状況ではかなり助かっている。それも攻城兵器に長けた兵と、翼竜三十頭にナパームも持ち込んでくれたのも大きい」


「むしろ収穫前の農繁期に五千も集められただけでも上々です。傭兵の方は金払いが良ければ集りは良いでしょうが、麦の収穫時に農民から徴兵などしようものなら、例え防衛戦争とはいえ一揆が起きても可笑しくない状況ですよ。

 そう考えればつくづく我々ドナウ直轄軍は恵まれていると実感出来ます。戦が無くても給金の支払いが滞る事もありませんし、常に訓練によって練度を維持出来ますから、今回の様な戦になっても季節を問わず全力でホランド軍にも対応出来ます」


 そう、フェルディナンドはユゴス人ではなく、生粋のドナウ人だ。それもつい先日までドナウ直轄軍で千人長を務めていた貴族士官だ。このクロア関に居る兵士の内、五百名は彼と同じくドナウ軍人として禄を得ていた。彼等は全員が直前に退役しており、一個人としてユゴスに助太刀しているという建前の元、ホランドと戦う任務に就いている。勿論ホランドに捕らえられても、自らがドナウ人だと口外しないと厳命されており、それを護れると判断された者だけが今この場に居る。

 ただ、一つ誤りがあるとすれば、報酬自体はある。彼等は全員、ドナウから通常の給金の数倍を前渡しとして貰っていたり、貴族の場合は本人の生死を問わず、実家の領地の加増や昇進などが内定している。そして仮にユゴスで戦死しても残された遺族に多額の見舞い金を支払うと王家が約束してくれた。この報酬があればこそ、彼等は他国まで派遣されるのを良しとしたのだ。誰もタダ同然で命を危険に晒したくは無い。

 この義勇兵と言う名の援軍をホランドが知ったら、恐らくドナウを卑怯な詐欺師集団と罵っただろう。ホランドのユゴス侵攻を黙認していると見せかけつつ、裏では物資どころか人、それも正規軍人を援軍に送り込んでいるのだ。それどころかドミニクの前で、いけしゃあしゃあと友好を謳って見せたアラタは二枚舌の卑劣漢と言われても文句は言えない。

 そして、実際に派遣される兵の選別をしなければならなかった司令官のオリバーは、毎日胃の痛くなる思いで人選をして、どうにか纏まった兵を揃えたわけだが、彼等の無事を考えると今でも胃薬が手放せない。その事を知ったアラタは『善人は軍人に向かないんだなあ』と他人事のように呟いて、ウォラフから『悪いと思っているなら気遣いをしてあげなよ』と窘められていた。


「カリウス陛下は貴国との友好を重んじていますが、何分国同士が結んだ不戦協定を破る訳にはいかず、このような遠回しな援軍しか送れないのを残念に思っています。ですが、我々ドナウは貴国を決して見捨てませんし、ホランドを野放しにしてはならず、僅かでも兵力を削げる機会があるのなら、迷わずすべきだと私自身も思います」


 フェルディナンドの言葉を借りたカリウス王の心配りにマカートは私人として思わず涙腺が緩みそうになったが、同時にユゴスの将としてドナウもホランドと同じく、統制の取れた軍が一年中戦える体制を整えている事実に強い危機感と抱いてしまう。

 西方の国々の軍事体制の殆どは徴兵と傭兵によって成り立っており、常に万の軍集団を維持しているドナウやホランドはむしろ少数派でしかない。理由はもちろん、金が掛かり過ぎるからだ。徴兵なら領主や国が税の代わりだと命じて集めるだけで、後は兵自身の手弁当と食糧の配給で事足りる。傭兵ならば戦の期間だけ雇って給金を払って、戦が終わればそれで終わりだ。限られた予算の中で国家を運用しなければならない以上、無駄飯喰らいは少ない方が良いに決まっている。

 実はホランドが二十年前にアルニアを滅ぼせたのも、この常識が大きく味方している。元々が遊牧民の集団から発展したホランドでは誰も農業などしないので、常に戦える体制を利用して農繁期で人の集まらないアルニアを速攻で滅ぼし、続いてリトの故国リトニアも同様の手段で下している。そうなると流石に西方でも自衛の為に常備軍を持とうと動きだす国もちらほら有ったわけだが、何分金が掛かり過ぎるのが足を引っ張り、思うようには導入出来ていない。

 ドナウは建国時からの伝統で最初から常備軍を抱えており関係なく、ユゴスとレゴスはホランドとは山脈を隔てているので、要所さえ抑えておけば農繁期でも傭兵を使って防衛出来ると踏んで軍制に手を付けていない。サピンは少々特殊で、北は小麦を、南は米を育てており、両者は農繁期が重ならないので、すぐさま総数の半分を徴兵出来ると考えてそのままにしていた。それ以外の東の小国や都市国家はある程度暗黙の了解を作って、互いに出し抜かれない様な協定を作っているので今の所導入した国は無い。

 とは言え今回の様にホランドが進行するたびに他国から援軍を受け入れるのは防衛の観点と面子を考えると多用出来ない為、マカートはこの戦の後、常備軍の保有を王家に進言する腹積もりだった。流石に全ての兵を国が面倒見るのは負担が大きすぎるので、その一部だけでもというのが妥協点と言えるだろう。あるいは最近のドナウの様に普段は訓練を兼ねて砦の補修や街道普請でもさせておけば無駄飯ぐらいと文句を言う奴は幾らか抑えられるだろう。

 まだホランドを撃退したわけでもないのに、その先の事を計画し始めたマカートが再び戦に意識を向けるのはそれから数時間後の事である。



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 翼竜部隊からの報告から二時間後、クロア関の目と鼻の先には四万ものホランド軍が整然と並び、関所に立て籠もる五千五百の守備兵をしきりに威嚇するなり、挑発を繰り返して相手の士気を挫こうと行動していた。ホランド軍からすればユゴス軍は砦に籠って縮こまっている臆病者でしかないのだろう。あるいは打算的な思惑もあり、この挑発に上手く乗って関所から打って出てくれれば面倒な攻城戦をせずに済んで戦が楽になると考えての行動だった。

 しかしそのような安っぽい挑発に乗る様なレゴス兵がいるわけもなく、お返しに壁の上に居た守備兵が一斉にズボンを下して、ホランド軍に尻を向けて尻を叩くといった挑発行為をして一部のホランド兵を激昂させていた。

 中には血気に逸った兵士が早速矢を放つが当然届くはずもない。放たれた矢は虚しく防壁の遥か手前の地面に突き刺さって、それが却ってユゴス兵の笑いを誘っていた。

 とはいえこのままお見合いが続く事は無く、この矢を鏑矢として戦が始まるのではと両軍の心が一致したが、ホランド側の先頭に居た一騎の騎兵が壁へゆっくりと近づく。マカートやフェルディナンドは盛った無謀な兵が突撃してくるのかと、弓兵に矢を番えさせたが、よく観察すると他の騎兵と違い、遠目からでも非常に凝った拵えのラメラアーマーと外套、そして巨大な羽飾りの兜が唯の兵士では無いと一目で分かる出で立ちだった。さらにその騎兵を護るように十騎程度がすぐさま彼の前に出て壁を作るが、護られている当人は特に彼等を気にせず、戦場には似合わない透き通るような美声でユゴス、ホランド両軍に聞こえるように演説を始める。


「ユゴスの兵士諸君、私はホランド王国王太子ユリウス=カトル=カドルチークである!!諸君等は今か今かと戦いを望んでいるだろうが、勝てぬ戦いで命を落とすなど馬鹿げていると思わないのか!今すぐに降伏し、固く閉ざした門を開け放つというなら、私は慈悲の心を見せ、諸君等の命を取らぬと保障しよう。それを拒むというならば、残念ながら我々はこの関所に居る者全てを殺さねばならん。諸君等の賢明な選択を切に望む。返答はどうか?」


「ご丁寧な降伏勧告痛み入る!私はこの関所を預かる司令官のマカート=シェンコだ!貴殿のご期待に沿えず申し訳ないが、何人もここを通すわけにはいかん!特に犬畜生以下のホランド人が祖国の土を踏んだら百年は作物が育たんわ!!貴様等の様な疫病神は大人しく逃げ帰って羊と一緒に草でも食べていろ!!」


 溢れんばかりの慈悲を見せたユリウスの降伏勧告をマカートは嘲笑し蹴り飛ばす。その笑いはユゴス守備兵とドナウ義勇兵全てに伝播し、クロア関は爆笑の渦に包まれた。

 反対にホランド軍は、敬愛するユリウスの慈悲の心をこれでもかと言うほどに踏みにじって嘲ったユゴス人全てを寸刻みにして、無礼者が後生大事に護るユゴスの大地にぶちまけてやりたいという衝動を必死に抑えようとしていた。特にユリウスの側で盾となっている副官のオレクの怒りは凄まじい物で、クロア関だけでなく全てのユゴス人を殺し尽して愛する主人を貶めた愚行を、その血と命を以って贖わせてやると父祖に誓いを立てていた。

 ただ、ユリウス本人は特に気にする風体も無く、まあそうだろうなと達観して降伏勧告の拒否を受け入れている。


「貴殿の主張は理解した!賢明な選択をしなかった事は残念でならないが、自らの納得する答えに殉ずるのを私は否定しない!!マカート=シェンコ司令官よ、私が次に貴殿と対面するのはその首だけだ!!せめて見苦しくない様に毎日髪と髭を整えて戦うが良い!!

 全軍、戦闘配置だ!身の程知らずのユゴス人に後悔の念を刻み込んでやれ!!」


 戦闘開始を告げて後方へと下がって行くユリウスをマカートは見送りつつ、守備兵にも同様の命令を下した。

 ドナウ歴495年6月、ユゴス軍五千とドナウ義勇兵五百対ホランド軍四万の戦いは上記のような口上を以って始まったと、後年の歴史書に記されている。



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