第123話 資源輸入国の悲哀



 ドナウ王国がユゴスの支援を決定してから、およそ十日が経過したが、王都は特に代わり映えした様子は無い。勿論水面下では様々な準備が始動していたが、それを知る者はごく一部だ。元よりホランドの目がある手前、表立って支援が出来ない事から、大々的に動く事は難しかった。そんなわけでアラタも表向きは通常業務に精を出しつつ、裏では直轄軍との協議や外務省との連携という調整の仕事が増加していたものの、それを周囲に漏らす事はしなかった。

 今日も定時に我が家へ帰ると、アンナに付き添われたラケルとクロエが玄関で出迎えてくれた。


「先生お帰りなさい」


「とうさまおかえりなさい。おしごとたいへんだった?」


「ただいまラケル、クロエ、それからアンナ。そうそう、世の中に大変じゃない仕事は無いよ。どんな仕事でも一所懸命してれば大変な物さ。例えそれが畑仕事だろうが、王様の仕事だろうが根本は一緒。労働に貴賤なんて無いんだ」


 出迎えてくれた二人の娘の頭を撫でながら労働への個人的見解を語る。このようなある種の平等的な価値観は西方では異端だったが、公式の場を除けば時折口にする事がある。生まれた時から自由の保障されたアメリカで育ち、軍に入ってからは最前線で命の危険に晒され続けた経験から、西方人からすれば独特の価値観を持ったアラタの思想は毒になりかねなかったが、己を曲げる気は無いと矜持を持ち続けていた。勿論、公式の場で声高に主張する愚は犯さなかったが、時々屋敷の中で幼い娘達相手に話す事はあった。それを伴侶のマリアやアンナは咎めた事は無かったものの、内心では仕方の無い人だと少し危ぶんでいた。

 幼い二人は良く分からないという顔をしていたが、取り敢えず仕事というのものはどんな物でも大変なのだと理解し、アラタの事を労った。



 彼等は夕食までの間、居間で寛いでいた。勿論その中にマリアとオイゲンも入っている。

 アンナはラケルを膝に乗せて子供向けの童話を読み聞かせており、アラタはクロエとエリィに勉強を教えていた。クロエには簡単なドナウ語の書き取りを練習させて、エリィには図形の概念や面積の計算を解かせている。

 二人の勉強を見る傍らで、ふとアンナの方に目を向けると、どうにも違和感を感じて首を捻る。幼い娘を膝の上に乗せて書物を読み聞かせるという、かつての自身が経験したこともある地球でも良くある光景だったが、何かが違うと己の感性が齟齬を訴えていた。


「―――そうか、この国には絵本が無いのか」


「絵本…ですか?初めて聞きますが、どういう物なんです?」


 ようやく合点がいったアラタが絵本と口にしたが、ドナウにもサピンにも該当する単語が無いらしく、マリアを始め全員が疑問符を浮かべていた。


「こちらでは書物はどれも巻物の形態を取るけど、俺の国では書物は一枚一枚紙を束ねて片側を糊や紐で縛る形態を採り、それを本と呼ぶ。絵本は文章と絵を同時に紙に載せて、子供の学習教材として使ってるんだ。アンナはラケルに読み聞かせているのは絵が載っていないだろう、それが引っ掛かってたんだ。この国にはそういう類の書物は無いんだよな」


「でもアラタ様、書物って高いからそんな子供用なんて無いですよ。そもそも字が必要な階級の人が少ないんですから、子供に教えるだけの書物なんて誰も欲しがりません」


 元々が村娘のエリィからすれば、書物など一生触れる機会の無い物だと思っていたのに、何の因果か今はこうして不自由なく文字を操り、自分で書類を作れるようになっているのだから、人生とは奇妙な物だと感じていた。そして、アラタの言う絵本なる物がどうして必要なのかが良く分からなかった。


「挿絵の入っている書物は私も幾らか所有していますが、確かに子供向けの書物は少ないですね。そもそもが子供の学習用という区分が書物にはありませんし、字を習う時は教師の方の口頭と見本の文章を並べて覚えるのが一般的です。アラタ様はお気を悪くしますが、絵本なる物の想像が私には付かないです」


 アンナが申し訳なさそうに絵本への無理解を語る。それを聞いてアラタは、現物が無いと想像し辛いのかと納得し、同時にこれから新規開拓できる分野だとも期待していた。

 以前から羊皮紙の代わりに麻紙を導入し紙の生産を行い行政に卸しているが、それだけでは産業として育たないとも考えていた。さらには紙を普及させてドナウ国民が手軽に文字を扱い、誰もが読み書きが出来る下地を今の内に作っておき、基礎学力の向上の一助としたいともアラタは考えている。


「なら試しに今度見本でも作ってみようか。評判が良かったら、それを量産しても良い。ただそうなると、手書きじゃ効率が悪いな。そういえばこの国では活版印刷はまだ導入されていないから、これを機に広めて見るのも手か」


 活版印刷という子供向けの書物以上に馴染みの無い言葉に全員が疑問符を浮かべる。それにアラタは紙と手早く文字を彫った木片を用いて、分かりやすく説明する。

 西方でよく使われる印章は大抵、融かした蝋や粘土に押し付けるが、印刷はその代わりにインクを塗って紙に押し付けて証明とする。それを文字や別の絵に変更すれば、字が書けない者や一字一句書くよりもずっと早く書物を作れると、実際に刷った紙を見せて説明すると、全員が成程と納得した。


「ただそうなると巻物の形態は印刷に合わないから、一枚一枚刷った後で纏める冊子の形態も流行らせないといけないな。まあ、形式にこだわる様な書物じゃなければ問題は無いか。今度印章を作れる職人と銅の加工に長けた者に話をしてみよう」


 特にドナウに逃げて来たサピン人の中には何人か冶金職人が居たから、彼等にも仕事を与える意味合いも兼ねて試作品を造らせることにした。

 ラケルやクロエは単に面白そうな玩具が増えると喜び、マリアとアンナは夫の育った国がどれほど高度な技術や知識を有しているのかを肌で感じ、どうにも気後れする思いだった。夫からすればこの国は蛮夷の遅れた国でしかないのに、一度も見下す事が無かった。 それどころか自分達に気を遣って理解出来る範囲の知識を小出しにしている節すらある。幼い子供に一から足し算を教える様に、あやし宥めて辛抱強く付き合ってくれているのだ。頼り甲斐があると同時に頼り過ぎて、ドナウ全てがおもねっていると感じていた。それをどうにかしたかったが、女の自分達には出来る事などたかが知れていると限界も知っており、せめて屋敷に居る間は居心地の良い時間を過ごしてもらいたいと、毎日二人で知恵を絞っていた。

 と言っても当のアラタからすれば、こうして妻子に囲まれた暖かい家庭以上に価値のある物など片手で数えるほども無かったので、二人の思いは取り越し苦労に近かったのだが。



 数日後、アラタは十人程のドナウ人の彫り職人とサピン人の装飾職人を集めて活版印刷の概念を説明する。勿論彼等は教育を受けていないので自分の国の言葉しか分からない。その為、アラタがドナウ、サピン両方の言語で話していた。

 説明だけでは今一つ理解出来ない職人を見て、念の為にサンプルとして幾つかの動物や道具の絵とその下に名前が彫られた小さな木板を用意しており、インクを塗って紙を刷る。出来上った数枚の印刷物を見ると、全員がその手軽さに感心したように歓声を挙げる。


「貴方達にはこの原版の制作を頼みたい。まずは文字を正確に彫る所から始めてくれ」


 そう言って全員に西方で使用される文字全てを書き記した紙を見本として配布する。彼等のような職人で読み書きの出来るものは殆ど居ないので、まずは字に慣れる事から始めるのが第一歩だと考えていた。

 渡された紙の文字を見ながら職人達は大きさや期日などを質問してくる。


「期日は特に設けない、貴方達の納得出来る作品が出来た時が納期だと思ってくれ。あるいは渡した製作費用が尽きた時が期限だな。

 大きさに関してはこちらも手探りの段階なので、複数作って一番使いやすく造りやすい大きさをこれから我々で探していこう。ただし、出来が良い者に優先的に今後の仕事を依頼するというのは頭の隅に残しておいてくれ」


 こういう時は素人があれこれ口を出すより、製作サイドに丸投げしたほうが要らぬ軋轢を生まずに済むので、頑固な職人の自主性に任せつつ、最低限の手綱は握るつもりだった。

 渡された資金にホクホク顔の職人が、アラタに礼を言って早速製作の為に工房に戻る際に少し気になる事を口にしたので、少し詳しく尋ねると、サピン人の職人が大した事では無いと前置きを付けて話しだす。


「いえね、ドナウで出回っている銅と私等がサピンで扱っていた銅と質が少し違うんですよ。聞いた話じゃ、今ドナウにある銅はうちじゃなくて、東のカッパニアから取り寄せた物なんで、何か彫る感触が違うんです。ただまあ、私共は職人ですから泣き言言わずに良い物作りますんで、期待していてください」


 ああ、そう言う事かとアラタは職人の話を把握する。元々ドナウで銅は産出されないので他所から輸入しているが、現在はサピンを征服したホランドの所為で碌に採掘も出来ないし、安全に輸送も出来ない事からサピン産の金属は途絶えてしまっている。さらに火薬の原料となる硫黄の入手先でもあったのでアラタも少し困っていた。

 火薬は木炭、硫黄、硝石を調合して作られるが、その一つの硫黄はドナウでは採集出来ない。一応、サピンとホランドが戦を始める前に大量に仕入れておいたので、現状の訓練の他に2~3度の戦に使える分は確保出来たが、正直言って心許ない。サピン以外にも旧プラニアの南部で硫黄は採掘可能だが、あそこもホランドの領地なので簡単に仕入れられないし、東側にも幾つか目星は付けているが、あまり大っぴらに仕入れると機密が保てないと考えて手を出さなかったが、やはり背に腹は代えられぬと、今後の入手先をどうにか作らねばならなった。


(原始的でも脱硫装置があれば原油なり石炭から硫黄を取り出せるんだが、この国の工業力じゃ無い物ねだりにしかならんか)


 技術漏洩を覚悟で他国から資源を輸出する危険性に溜息を吐きたかったが、無い物は仕方ないのでどこかで妥協せねばならないと、幾つか別の用途を大々的に宣伝する事に方針を切り替える算段を練り始めた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る