第75話 アブサン



 冬が深まり、あと十日もすれば新年を迎える時期になったドナウでも、アラタは仕事に追われていた。彼は今ソルペトラの村で代官の仕事をしつつ、ある物の出来栄えを確かめていた。


「―――効力はそれなりに認められるな。取り敢えず試供品という形で流通させてみよう。最初はタダで配る事になるが、相手はホランドの貴族や軍団指揮官だ。気に入れば追加注文が望めるから始めは損をしても次回からは金が入る。勿論貴方方にはこちらから金は払うよ。良くやってくれた」


 樽になみなみと入っていたアルコール臭のする緑色の液体を一舐めして、成分を分析させたアラタは満足出来る品を作った村の酒造職人を労う。

 お褒めの言葉を賜った職人は、職場と道具を提供し、自分を認めてくれたアラタに深々と頭を下げる。彼は貧民街に流れてくる前は地方都市で酒蔵を営んでいたが、徴税官への賄賂を断ったというだけで自分の蔵を潰された過去があった。王都に流れてきてからは日雇いの仕事をしつつ糊口を凌いできたが、いつかまた酒を造りたいという夢を忘れず十年以上待ち続けていた。そして、アラタが貧民を集めた開拓村を立ち上げると知り、酒造職人として参加したのだ。

 最初は指定された酒を造るのには幾らか不満があったが、開業資金もない身では逆らう訳にはいかず、黙々と蒸留酒を造るだけだったが、それでも酒造りには違いなく、楽しかった。同じような境遇の職人も居たので、すぐに仲良くなり、いつかは自分達で好きな酒を造りたいと話し合った。

 代官から指定された条件は、仕込んだ麦の蒸留酒は最低でも三年寝かせる事と、用意されたヨモギという草を材料にして酒を造る事だった。職人たちも酒に薬草を漬けこむ手法は知っていたが、果物でもない草を材料に蒸溜するのは初めてだった。

 それもドナウではそこらに生えている草で、名前など無いような雑草でしかない草を使って酒が出来るのかと、同じ酒造職人達としきりに疑っていたが、命令である以上従う他なかった。

 代官の説明では薬草との事だったが、試飲は可能な限り控える事を厳命され、盗み飲みも絶対にするなと警告を受けた。信用されていないのかと気分を害したが、説明では依存性が通常の酒より強いらしい。こちらの健康を気遣われていると知り、年甲斐も無く涙が溢れていた。

 そうして数ヶ月経った年末に近い日にやって来て、自分達の成果を見定めていた。結果は合格。今までの長い雌伏の時が報われる思いだった。


「今は数が少ないが、このアブサンは数年はホランドに流し続けるので、これからもどんどん製造してくれ。貴方達には期待している」


「ははっ!お任せください、レオーネ様のご期待に応えるよう努力を惜しみません!」


 この若く誠実な代官の期待を裏切らない為にも、自分達は命を賭ける必要があるのだ。



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 年の瀬も近い時期に関わらずアラタがソルペトラにやって来たのには代官の仕事以外にも理由がある。諜報部の下請けを担当していたリトから、サピンが宣戦布告の使者をホランドに派遣した情報を掴んだからだ。実際の布告は年明けになるだろうし、実際に戦端を開くのも少し時間が掛かるのだが、ドナウも何もしない訳にはいかなかった。

 ホランドとは不戦協定を結んだことから、直接的に剣を交える気は無いが、この期を逃す気は無く、僅かでもホランドを弱体化させる工作をするつもりだ。それがソルペトラで製造したアブサンをホランドの貴族や軍指揮官に提供する事だった。アブサンは地球にも存在した毒性の強い酒である。ニガヨモギを原料としたこの酒は、高い度数と良質な味に加えて、幻覚作用と向精神性を有していた為に、製造を禁止された経緯がある。ドナウにこのニガヨモギに似た成分の植物が至る所に自生していたので、ホランドへの弱体化の為にアラタが製造する事を考えたのだ。

 最初はタダ同然で貴族らに配るつもりだが、次回からは高額の値で売りつけ、依存し始めたら財産を根こそぎ奪い取りつつ、正常な判断力を奪い取るつもりである。その為、価格設定は平民には届かない様わざと高額にしてある。安価で大量に流して中毒者を徒に増やすよりは、頭を抑える方が効率が良い。アラタも万が一、他に流れた場合を危惧しており、多数の中毒者の面倒など見たくないからだ。そして製造はこの村の秘中の秘とし、集めた葉の幾らかは防虫剤の材料にして、誤魔化していた。

 既にアラタの息の掛かった行商人がホランドに持ち込む算段を付けており、すぐに瓶詰して受け渡すつもりだ。

 今はまだこの程度の妨害でしかないが、まだドナウには二年以上の時間が残されている。その間、絶えず妨害工作を続ける事で、僅かでもホランドを弱体化させれば御の字と言える。

 アラタからすれば敵対者が弱体化する事で味方の被害が少なくなるのであれば、どんな手段でも躊躇いは無い。人の命が掛かっている以上、勝つ事が第一なのだ。面子や誇りを大事にする人間からすれば相入れない価値観を有していたが、表面上取り繕う必要性は理解していた。この辺りのバランス感覚が他人から見て、軍人より商人のような男だと評価される点なのだろう。



 アブサンの出荷を見届けたアラタは、通常通り代官の仕事をこなす。大抵の事務仕事は村長のジャスティを始めとした読み書きのできる文官がやっているので、最後の確認が主な仕事だが、それでもまだまだミスが多く、やり直しを命じていた。

 他にも最近始めた製糖業や、製紙業の指導もあり、毎日忙しかった。さらに硝石丘の視察が入っており、もう直接手を出す事は無かったものの、現場の見回りは欠かさなかった。これも代官という責任者が、いつでも下の人間を見ているというパフォーマンスに近かったが、コストの良い士気の上げ方だったので、欠かす事をしなかった。

 その合間を縫い、住民の要望を聞いて回り、不満の解消にも手を抜かなかった。およその不満点は報告書から把握しているが、当人達から直接聞いているという事実が重要なのだ。彼等の事を同じ視点で考え、見守っているという安心感を与える事が、不満を蓄積させず、背信行為を抑制する事に繋がるとアラタは士官学校で教えられた。彼らは兵士では無いものの、人間である事に違いは無い。ならば良好な人間関係を築くための要素に大きな差は無いのだ。

 それを考えていない貴族は、平民に威張り散らし、反感を武力で押さえつけ、税を納める人間の労働意欲を減少させている事に微塵も気づいていない。その結果、見えない所で手を抜いて、税収を落ち込ませ、夜逃げする領民を生産してしまい、結果的に税収を減少させてしまっているのだ。

 アラタはそんな非効率な手段を望まないので、こうして可能な限りコストの掛からない手法で不満を抑え、良い関係を保持し続ける事を選択した。尤も、この手法の効果を理解しない者は、アラタの事を平民上がりと馬鹿にしているが、当の本人が一顧だにしないので、却って馬鹿にされていると思い込み、勝手にアラタを逆恨みしていた。



 そうして数日を村で過ごし、ある程度仕事を消化出来たと判断したので、王都に引き上げる事をジャスティに伝えると、少し早いが年末の祝いを一緒にして欲しいと請われ、了承した。

 まだ年が明けるには十日ほどあったが、アラタが居る内に何かしら祭りをしたかったらしく、少し前から計画していたらしい。幾らアラタでも、新妻を放って置いて新年を他所で祝う気は無く、余裕のある内に王都に帰るつもりだった。

 了承が得られた事で、住民達は早速祭りの手配に取り掛かる。立ち上げたばかりの村なので、大した物は無かったが、この村で作っていた売り物にならない大豆油や砂糖を使った料理や酒類、定番の家畜の丸焼きなどが用意されて、これまでの苦労を讃え合った。

 その中には新しく村の住人になった元娼婦の女性らもおり、彼女達は早速夫となる相手を見つけて、家庭に入った。娼婦達は全員年増だったが、その夫も30~40を超える歳だったこともあり、年齢の釣り合いはそれなりに取れていたので大きな不満は聞こえてこなかった。男女なぞ妥協してしまえば、簡単に夫婦になれるのだ。ジャスティもその内の一人と所帯を持ち、年甲斐も無く恥ずかしそうにしていたが、満足そうな顔をしていた。

 中にはこの村に来てから妊娠した女性もおり、生まれたらアラタに名付け親になって欲しいと申し出る女性が後を絶たなかった。夫は放って置いて良いのかと尋ねても、貴方の名前の方が幸運に恵まれそうだと言われて、苦笑する他なかった。

 彼等はみな貧民街にいた時よりも余裕があった。仕事は今まで経験した事の無い物ばかりだったが、給金も良く、手厚い保護も受けられた為、精神的な安定性は比較にならない。国が全面的に保護してくれるという安心感は、この国では極めて貴重な物であり、住民はアラタに感謝していた。

 アラタもまた彼等の思いに応えようと、常に気を配りつつ働いていた。両者の関係は極めて良好であり、一年未満の付き合いであったが、容易に壊れるような脆弱な信頼関係では決してない。

 翌日、村で作った製品を載せた竜車と共にアラタは多くの住民に見送られて帰還するのだった。


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