第2話 王女の祈り




「マリアよ、今日も祈りを捧げるのか?」


「はい、お父様。この国を救うためには勇者様をお呼びしなければなりません。ホランド王国の力は日に日に強くなっていると噂を耳にします。私もこの国の為に何かしたいのです」


「だがマリアよ、お前には神術の適性はない。いや、仮に神術が使えても召喚術など我が国の初代国王の伝説にしか登場せん。来るはずの無い者に願いを託すなど、逃避でしかないのだぞ」


 王女である娘もそれは理解しているのだろう。しかしながら神に、そして始祖に祈らなければならぬほど、この国が逼迫しているのもまた事実。隣国の軍事大国ホランドからの併合の圧力は徐々に強くなっている。

 ドミニク=アラン=カドルチーク、二十年前に即位してから瞬く間に三つの国を滅ぼし、併合した稀代の傑物。元より精強と名高かったホランド騎竜兵をさらに強大化させ、敵対者を叩き潰した非情な王。

 彼の者が次に狙いを定めたのが、我が祖国ドナウ王国だ。



「では、どうすればよいのです!?お答えくださいませお父様。私の命が必要ならば喜んで差し出します。恭順の為に嫁に行けと言われれば、喜んでホランドへも嫁ぎます。あるいは別の国との同盟の為の人質として駒ように扱って頂いて結構です。私はこの国を愛しております。この国の無辜の民が蹂躙され、辱めを受けるなど到底受け入れられません!」


 今にも泣き出しそうに感情を露わにする王女だが、反対に王は冷静なままだ。声を荒げて物事が解決するならば、とうに済ませている。既にそのような段階は過ぎ去っている。


「お前の覚悟は、良く分った。今日はもう下がりなさい。宰相らと協議しておく。マリアよ、お前がそこまでこの国の行く末を案じているのは、王として、父として嬉しく思うぞ」


「……はい、お父様。それでは失礼いたします」


 幾分か感情を吐き出し、冷静になったマリアは重い足取りで、玉座を後にする。



 マリアが退出しても玉座は重い空気のままだ。いや、重い空気はこの王宮全てに蔓延している空気だ。ホランド王国からの使者は度々この国に訪れて、文章は違えども同じ要求を繰り返し伝えている。


『我が国ホランドの一部となれ。さすれば共に歩む栄誉を与える』


 馬鹿にしているのも程がある。王家にとって半身たる自らの国を差し出せなど、絶対に呑めない要求だ。普通ならばこの一文だけで戦端を開くに足る大義名分となるほど屈辱的な要求なのだ。

 しかし今のドナウ王国に、この要求を退ける力は無い。いや、ホランド王国でなければ可能だろうが、相手が悪い。国土は四倍、兵力は五倍以上。その兵力も質は相当上を行く。なにせ騎兵の数だけでもドナウ軍の総数を上回るのだ。通常騎兵は歩兵の三~五倍換算で計算される。

 戦端を開いたらドナウが負けるのは必至。負ければ王家から貴族まで、区別なく根絶やしにされ、平民たちは財産没収の後、奴隷身分に落とされ家畜の如く使役される。



 仮に、恭順した場合はどうか。今ならば平和的に併合され全てのドナウ人の安全は保障されるだろう。王家も、貴族もそのまま領地を安堵され、ホランド貴族として遇される可能性はある。だが、その時だけだろう。いずれ難癖を付けて取り潰しや、改易によって開拓地に送られるのが目に見えている。

 周辺国との同盟を考え、ホランドの危険性を強調して歩調を合わせようとしても、芳しくなかった。国内、あるいは別の周辺国との問題を抱え、ホランドに構っていられないと、断られた。明日は我が身だと言うのに、呑気に構えいる。そう思ったが自らも三つ国を滅ぼされるまで、何の対策も講じていない時点で他国を笑えぬ。



 はっきり言って手詰まりだ。どうにもならん。今はどうにか宥めすかして返答を遅らせているが、それもいつまでも続かない。相手もそれが分かっているのか、性急な返答は期待していない。中から自壊するか、暴発して戦端を開くのを待っているのだ。

 主導権もあちらに握られ、絡め手も通じない。真っ向勝負も勝ち目が無い。民草の安全の為なら国を明け渡す事も考えたが、今度は貴族たちが黙っていない。ここで併合されれば遠くない未来、領地を召し上げられるのだ。自らの糧を差し出すなど出来ない相談だ。

 あるいは今のうちに率先して、ホランドに寝返る輩も出てくるかも知れぬ。積極的に協力すれば、使える者として重用されると都合の良い夢を見ているに過ぎない。裏切り者など信用されぬと言うのに、自分は特別だと都合の良い考えで動く愚物はどこでも一定数いるものだ。


「私とて神に祈りたいのだよ。祈ったところでどうにもならんのを知っていてもな」


 誰にも聞かれない呟きは、王座に消えていく。この国はどうしようもなく重い空気に包まれていた。



      □□□□□□□□□



「マリアよ、今日も祈りを捧げるのか?」


 謁見の間から退出し、トボトボと廊下を歩いていると父に言われた言葉を一字一句違えず口にする青年に呼び止められる。


「ああ、エーリッヒ兄様ごきげんよう。勿論そのつもりです。私に出来る事などその程度ですから。兄様こそ政務はよろしいのですか?」


「今は休憩中だよ。宰相も人使いが荒い。王子の私を遠慮なく扱き使うから、息抜きしないと身が持たない」


 ひどい話さ、そう言いながらも笑っている。口ではああ言っているが、本気ではない。兄は何年も前から宰相の下で、国政を担っている。次の王になる為の勉強中なのだ。そういう意味では王子であっても宰相とは、教師と教え子に近い。勿論王族として扱われているが、あまり遠慮が無い間柄で、失敗をすれば容赦なく小言が飛んでくる。


「仲がよろしいですね。お二人の様に国の為に何も出来ない我が身の矮小さを恨めしく思います。もっと私に力があれば―――」 


「それは思い上がりと言うものだ、マリアよ。お前一人が加わった所でこの大きな流れは変えられぬ。よしんばお前の祈りが届いて、勇者が召喚されても、万の軍勢を打ち払うなど伝説か、夢物語に過ぎん。そんな不確定な要素に頼っていては国政が滞る。我々は今出来る事を、命がけでやるしかないのさ」


「はい、申し訳ありません兄様。王族である私は私の出来る事を致します。兄様もお身体にお気を付けて政務に励んでくださいませ」


「そうだな、良い結果が出せるよう励むとするさ。お前もこの国の行く末を神に祈ってくれ」

 それから兄妹は、それぞれの役目の為に別々に歩いていく。



 マリアは城内の礼拝堂で跪き、祈りを捧げる。もう半年も前から見慣れた光景になり、城の使用人たちは悲痛な面持ちで王女を遠巻きに眺めている。

 城で働く者達は全員、ホランドの要求を耳している。緘口令が敷かれ、まだ城の外までは洩れていないがそれも時間の問題だ。耳ざとい貴族達は既に情報を掴んでおり、生き残りを図ろうと謀略に動く者もいずれは出てくる。

 城内の礼拝堂は石造りの質素なものだ。日光を取り入れるためのガラス窓は至る所に取り付けられており、宗教施設特有の雰囲気で何とも言えない神聖さを作りだしている。石造りの質素さもそれに一役買っており、祈りを捧げるマリアの心情が伝播したのか、近寄りがたい空気を作りだしている。


「初代国王フィルモよ、御身の子孫であるマリア=クラウス=ブランシュが奉ります。どうかこの無力な子孫たるわたくしめに御力をお貸しください。私の身が必要とあらば如何様にもお使いくださいませ。私の命が必要ならば喜んで捧げ申します。どうかこの国をお救いくださいませ。どうかわたくしに、救国の勇者を御使い下さい」




 この半年、毎日のように祈り続けた。この国の初代国王フィルモは神術により、異界から勇者を召喚し、建国の一助としたという伝説がある。

 神術――――読んで字のごとく、神から与えられた術。使い手に共通性は無く、親が神術を使えるからと言って子が使えるとは限らない。それは王族でも貴族でも変わらない。そして希少な技能であり、どれもがただの人間にとって成し得ない神の術だ。

 火を操る者もいれば、雷を落とすもの、人の精神を操る者も居ると聞く。この国にも少数だが確認されており、多くは国に仕えている。

 しかし、異界より何かを召喚する者など聞いた事が無い。それどころか、物体を遠方に移動させる術など未だ確認されていないのだ。始祖の伝説も、単なる伝説でしかないと王家ですら思っている。

 そう考えればマリアの祈りも、逃避と断じられても無理のない事だ。元よりマリアには神術の素養は無い。いや、現在の王族にも神術の使い手は居ない。無くて当然なのだから、それで困る事もない。しかし、今は命を投げうってでも欲しいのだ。この国を救うために。


「神よどうか私に力をお与えください。この身が業火に焼かれて、呪われた身になっても構いませぬ。どうか哀れな娘に一欠片のお慈悲をお与えください。神よ」




      □□□□□□□□□



 そして願いは聞き届けられた。

 それは何の前触れもなく、礼拝堂を破壊しながら現れた。金属とも焼物ともガラスともつかぬ塊。この世のどんな生き物にも共通性が見当たらぬ、異形。

 強いて言えばカタツムリやヤドカリの様に殻を背負った生き物に見えなくはないが、大きさが違い過ぎる。小さな礼拝堂とはいえ、その半分ほどを占めるカタツムリなどこの世界をくまなく探しても見つかるはずが無い。

 それほどの巨体が目の前に突然現れて、転がりながら壁の一部を破壊している。マリアの反対側に転がったのが不幸中の幸いと言える。でなければ、あっさりと人一人分の肉片が生まれていただろう。

 あまりの非常識さに思考が停止し、呆然と跪いたまま瞬きすら忘れる。十秒ほど呼吸すら忘れて呆けていたが、周りの人間が轟音を聞きつけやってくる。


「姫様お下がりください!!ここは危険でございます!」


 騎士甲冑を身に纏う近衛騎士の一人が、マリアの体を無理やり立たせて、引き摺る。王族に対して相当礼を失する行為だが、この状況では騎士はむしろ褒められるべきだろう。



 段々と悲鳴と轟音を聞きつけ、人が集まって来る。


「マリアッ!無事か!?一体どうしたんだ!」


 集まった中にはエーリッヒ王子もおり、宰相も一緒だ。誰も状況を把握できず、右往左往しながら騒ぎを拡大させている。


「静かにせんか!うろたえるんじゃない!まずは王家の方々をお下げするのだ。その後、我ら近衛騎士団が警戒に当たる」


 40歳ほどの騎士が矢継ぎ早に指示を飛ばす。この国の近衛騎士団長を務めるゲルト=ベルツ団長だ。野心家だが有能と言う評価を得ている。


「ベルツ団長、危険だがお願いする。私も何が何だか分からぬ」


「お任せくださいエーリッヒ殿下。一命に代えましても御身らの命は護り抜きますゆえ」


「ああ、頼もしいな。ところでマリア、君が一番近くに居たようだが、どうしてこうなったか説明できるかい?」


 急に話を振られたが、マリアも何が何だか分からない。兄は怒っているわけでは無いが、困惑していていつもの様な人を気遣う余裕が見られない。


「申し訳ありません兄様。私もまるで分かりません。ただ、いつもの様に礼拝堂で祈りを捧げていただけです。もしや私の祈りを神や始祖フィルモが聞き届けて、この物体を遣わしてくださったのでしょうか?」


「何とも言えないなあ。こんな事は初めてだ。人の所業だとも思えないから、案外マリアの言う事が正しいかもしれないけど、危険には違いない。なにせ城の壁を簡単に破壊しているんだ。用心に越したことは無い」



 混乱を聞きつけ、王家の相談役であるミハエル=ベッカーもやってくる。既に65歳の高齢だが、足取りは軽く元気なものだ。


「いやはや、騒がしいですな。まるでどこかの国が攻めてきたような喧騒ですな。まあ、前代未聞のこの状況では仕方がありますまい。しかし、急いで来たものの私は役に立てませんな。これはどう見ても生き物には見えませぬ。どんな相手でも生き物であれば、儂の神術で意思の疎通が図れたのですが」


 ミハエル=ベッカーは神術の使い手だ。得られた術は、どのような相手の言語も自国の言葉として聞き取り、逆に相手にも自国の言葉に聞こえるように翻訳すると言う、地味ながらも使い勝手の良い術だとは本人の談である。人間に限らず、動物でも意思の疎通が可能という使いようによっては、非常に便利な能力なのだ。

 この術をもって外交官として50年近く、国の為に尽くしてきた男だ。


「あれはどう見ても生き物ではないね。かと言ってあんな物を人の手で作れるのだろうか?ちらりと見たけど、あれが何で出来ているのかさえ我々には分かるかな」


「エーリッヒ殿下のおっしゃる通り、あれは人造物にも見えますが、我々には計り知れぬ物でございます。もしあれを作りだした者が側にいれば、色々と聞く事も出来たのですが」


 礼拝堂の外に締め出された王子らも、興味本位からその場を去らず、離れた場所であーでもないこーでもないと意見を出し合っているが、明確な答えは出てこなかった。



 暫く、話していると礼拝堂から悲鳴が聞こえ、王子ら三人の耳にも届いた。


「あの塊が動いたぞ!!口が開いて中から人が出てきたぞ!」


 人と言う言葉を聞いて、真っ先に動いたのが神術の使い手のベッカーだ。急いで人の壁をすり抜けて前へ前へ、進んでいく。人型となれば言葉を操る可能性がある。そうなればこの事態を収拾できる人間は自らを置いて他にはない。最悪ここで死ぬ事になるが、他の若い者が死ぬよりは良い。特に、若い王族二人を死なせるわけにはいかない。

 騎士たちの制止を振り切り、前に進む。ただ、その制止に力が無いのは、自身の神術を知っており、この騒動を収める適任者だと知っているのだ。


「危険ですぞ、ベッカー殿!あまり近づいてはいけません」


「危険だからこそ儂がここにいるのだよ。儂の術がこの騒動を収めるのに適していると、騎士団長も理解できるじゃろう?」


 それはそうですが、言い淀むゲルト=ベルツ騎士団長だったが、一挙手一投足を見逃さず警戒しており、目の前の人型が動きを見せたので問答を止める。



 目の前の人型はそんな二人のやり取りを気にせず、両手を頭に添えて被り物を取り払う。被り物を脱いだ後には、黒い髪のまだ若い20歳ほどの青年の姿がそこにあった。


「※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※」


 右手を額に付けながら、左手に被り物を持って何か喋っている。どの国の言葉とも違う、未知の言語。感情の読み取れぬ瞳からは警戒とも、観察とも見える感情が窺える。少なくとも知性を有しており、言語を操り、敵対の意志が無い事を示している事だけは、この場にいる者も察することが出来た。



 騎士団長もここはベッカーに任せる事にして成り行きを見守る。隣の老人は内政も軍事もからきしだが、交渉事では自身が及ばない事を理解している。今はこの老人だけが頼りなのだ。いざとなれば身を挺しても護るつもりでいる。

 既に神術を行使し、相手の言語を理解してここから会話を成立させねばならない。


「おお、これはこれは丁寧なあいさつ痛み入ります。異国の方のように見えますが、地球統合宇宙軍とおっしゃりましたが、さて私には初めて耳にする名称ですな。私以外には貴殿の言葉は通じませぬ、この老体にもう少し詳しく教えていただけまいか?」


 やや声を張り上げて会話を続ける。出来るだけ多くの人間に聞かせるためだろう。やや説明がかった、口調もそのためだ。

 青年の目が僅かだが細くなる。ベッカーが自らと同じ言語で会話をしたのを不審に思い、警戒心を上げたのだろうか。



 しばらく無言だったが、再び異郷の言葉を紡ぐ。


「□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□」


 誰も聞いた事の無い言語だが、先ほどと何かが違う。異なる言葉というより、言語そのものが異なるような印象を受ける。文法から発音や音の強弱も異なる、そんな印象だ。

 周りの何人かがそれに気づく。ベッカーの隣にいたベルツもそれに気づいたうちの一人だ。

 おそらくこの青年は、複数の言語を操れる教養の持ち主。ミハエルの神術を不審に思い、多言語でこちらの反応を試している。ゲルトはそう判断する。

 何より警戒しつつも、こちらを観察しつつ、一切油断をしていない。武人であるゲルトや他の騎士達も、青年の姿勢の良さや立ち振る舞いから、戦闘技能を有していると予想する。

 見知らぬ土地で、大勢の人間に囲まれてもなお冷静に判断を下せる理性。この青年は軍人、しかも貴族の出だ。どういう理由でこの場所にいるのかは分からないが、あまり乱暴な手段は執れない。つくづく早まった行動をしなくて良かったと、己の判断を褒める。



「私も貴殿が人に見えます。しかしながら私も今年で65歳になりますがその二つの、あー宇宙と地球ですかな、記憶にございませぬ」


 宇宙に地球―――確かに初めて聞く言葉だ。恐らくは青年の故郷、あるいは所属する軍団の名だと予想できるが、まるで分らない。


「▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲」


「おお、これは気づきませんでした、申し訳ない。私はこの国ドナウ王国、国王の相談役を務めるミハエル=ベッカーと申します。貴殿はアラタ・レオーネ殿でよろしいですな。姓を名乗ると言う事は、貴族の出で?」


「▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲」


 今度は最初の言語に似ているが、若干発音が異なる。これで確信した、この青年は多言語を操る教養を持つ貴族だ。何より姓を持っている。

 『アラタ・レオーネ』どちらが姓で名かは分からないが、二つの名を持つのなら貴族に違いない。しかし、ベッカー老の次の言葉で再びざわつき、疑惑が生まれる。


「では平民でも姓を名乗れると。しかも数百年前から貴族以外が姓を名乗れるとは、この辺りの風習とは随分と異なりますな。ならば貴殿は平民ということでしょうか?」


「※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※」


「ほほう、平民でありながら将校に任ぜられ、外交官として行動を容認する法律があると?いやはや、私も外交官として長年各国を回ってきましたが、貴殿のような御仁は初めてお目に掛かります」




 場の混乱が一気に加速する。青年の国が平民に姓を許すというのは、文化や風習の違いとある程度は納得できるが、目の前の青年が平民だとは受け入れ難い事実だ。平民で、これほど教養と能力を持ちながら、あまつさえこの若さで軍の将校を務めるとは。

 軍の中には百人程度の部隊を指揮する平民出の指揮官は何人かいる。だがこれほど若くない。

 騎士団の中にも平民の騎士はいる。だが複数の言語を修めたような教養のある者はいない。

 後ろの集団には平民と聞いて侮る声が多いが、騎士や観察眼に優れた者は却って警戒や、困惑を強めている。

 この国にも軍人を駐在武官として外国に派遣することはある。情報交換や情報収集を担当する武官であり、外交官として振る舞うこともできる名誉ある身分だ。

 だからこそ有り得ない。平民がそんな責任ある立場に就くことなど無い。外交官は、王国の顔なのだ。平民が国家の代表などと嘯いて良いものではない。



「※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※」


「そうですなあ、私は王の相談役であって貴殿の扱いを一任されたわけではありません。となるとここは宰相殿の意見も聞いておきたいのです。なに、安心召されよ。悪い扱いは致さぬと、この老骨が保証致しますぞ!」


 平民と侮る空気を察したのか、異郷の言葉はやや挑発的な感情を乗せている。自身がどのように扱われるのか、想像したのだろう。ベッカー老が宥めようとしているが、雲行きが少し怪しくなっていくのがゲルトにも分かる。

 いつでも動けるように剣の柄に手を添えておく。ここで一番危険なのはベッカー老だ。目の前の青年は丸腰に見えるが、我々の常識は通じない。どんな武器を隠し持っているのか、想像もつかないのだ。目の前で死なれるのは騎士であるゲルトにとって己の栄誉を汚される行為に等しい。



 だがレオーネの言動に注視していると、その後ろから何かが動いている。とっさに目を向けてしまい、一瞬だけレオーネから目を離してしまった。青年が入っていた入れ物の蓋が突然動きだしたのだ。

 目を離した隙に手にナイフを握られてしまった。唯のナイフ一本だが、油断はできない。ゲルトの手の中の騎士剣に及ぶはずもない小さな物だが、それでも危険には違いない。それが己に向くならば、一刀の元に斬って捨てるだけだ。

 しかし、隣には戦えぬ者がいる。投擲でもされて、当たり所が悪ければ―――そう考えれば迂闊には動けない。

 そんな一触即発の事態に攻めあぐんでいると、徐々に後ろに下がられて入れ物の側に寄られていた。


「※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※」


「ま、待ちなさい!君は言葉も通じない土地でどうやって生きるのかね?私のような通訳が必要ではないのかね!?考え直しなさい」


「※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※」


 交渉が決裂して慌てているベッカー老とは対照的に、感情の無い声で冷静に話しかけるレオーネ。もはや注意の対象はベッカー老からこちらに移っている。彼もまたこちらを最大の警戒対象に見ているのだ。

 にらみ合いが続くと、後ろから騒ぎが聞こえる。しかし、視線はレオーネに固定してある。こうなっては一瞬の隙が命取り。その所為で、誰が騒がしくしているのかに気づかなかった。


「お待ちください勇者様!!どうか私の話を聞いてくください!」


 馬鹿な!なぜここでマリア殿下が出てくるのだ!これではみすみす戦場に王家の方を放り込むようなものではないか!

 ベッカー老以上に護るべき貴人が増え、さらに身動きが取れない。


「※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※」


 レオーネの表情からは何も読み取れず、異郷の言葉が紡がれる。マリア殿下に詰め寄られているベッカーでなければ、誰に向けた言葉か分からず、内容も分からない。

 その言葉を無視して、隣の二人はなにやら言い争った後、ベッカー老が諦めたように口を開く。


「マリア殿下は『異郷の勇者様、どうか我が国をお救いください』とおっしゃっておられます。私の言葉は信じなくて結構です。ですから殿下の目を見て決められよ。それから、貴殿は王家の賓客として遇します」


 特大の混乱を投げつけられて、却って周囲は静まり返ってしまった。誰もが思考停止する中、件の青年を見据える。彼もまた、混乱する者の一人であり、表情からは何も読み取れないが頭の中では、知能を総動員してこの状況を分析しているに違いない。

 暫く、王女をじっと見つめる。やはり何の感情も読み取れない。好意的なのか、敵愾心を抱くのか、猜疑心を持つのか、まるで窺えない。

 しかし、レオーネの口から『ふう』と息が漏れ、手に持ったナイフを足の鞘らしき容器に入れ、マリア殿下に向け、直立不動で右手を額に当てる。最初に交渉する態度を示した姿勢と同じだ。


「※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※」


 柔らかい口調で敵対行動を否定しているのだろう。レオーネが受け入れた以上、ここで反対すれば王族の面子を潰すことになる。周囲の面々はそれを理解しており、渋々ながらも受け入れるつもりだ。

なにより、正体不明の人物と敵対するのは出来れば避けたい。いざ戦場となれば躊躇う必要はないが、ここでは不確定要素が大きすぎる。

この人物を受け入れることが、ドナウ王国にとってどのような影響を与えるのか誰にも分らない。

しかし、願わくば幸福な結果が訪れる事を神に願うばかりだ。



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