第160話 あなたに会う前から好きだった


「……という風に、未来形を表す言葉はいくつもあるのだが、君、何か一つ、オリジナルの例を出してくれないか?」


 ホワイトボードの前に立った先生に、そう言われて、その真ん前に座る生徒は、教室にいるのが自分一人にも拘らず、大きく片手を挙げて、「はい!」と返事をしてから立ち上がった。そして、先生に知られないように息を吸うと、それを一気に吐き出すように言った。


「あなたに会う前から好きだった」

「……ふむ」


 先生は、スラスラとホワイトボードに、青いペンで生徒の発言を書き記した。ちなみに縦書きで、青いペンを使用するのは、生徒の発言だと区別するためである。

 しばらく、その文字を顎に手を当てて、考えこむように眺めていた先生は、まだ立っている生徒の方を向くと、「これは、」と切り出した。


「厳密にいうと、未来形ではない」

「そうですか……」


 意気消沈して席に戻る生徒。それに対して先生は、生徒を励ますつもりではなかったのだろうが、「とはいえ」と追加する。


「そのチャレンジは買おう。私の説明した、未来形以外の単語や表現を使って、オリジナリティを出したことを」

「あ、ありがとうございます」

「ただ、オリジナリティを出しすぎて、過去形になってしまっているね」

「あー、そうですね」


 一瞬、気分が上がった生徒だったが、先生に追撃されて、目が泳ぐ。短い期間で、怒られる、褒められる、怒られるを繰り返して、感情自体が迷子になってしまったらしい。

 先生は、そんな生徒の様子など全く見ずに、ホワイトボードに縦の線を一歩引いた。そして、生徒を見ながら、「いいかい?」と、その中間あたりに横線を一本追加した。


「ここが、現在だとすると、君が言った言葉は、現在から見て過去の地点に沸き起こった感情を示している。そのため、末尾も『だった』という過去形になってしまっている」

「あ、確かに」

「もちろん、過去形とはいえ、現在まで続く感情を、この『だった』で示しているのは、耳にした時点で分かる。ただ、そうだとしても、感情の起点が過去であることは、揺るがしようがない」

「なるほど……」

「そして、未来形はここだ。君が言い表さないといけなかったのは、この地点を見据えた言葉だった」

「そうですね……」


 ホワイトボードの縦線に、「現在」「過去」「未来」や「過去」と「現在」を湾曲した線でつないだりして、先生は説明する。その口調は淡々としているが、生徒が板書するスピードを見ているため、スピードは思いの他ゆっくりだ。

 先生の最後の一言までノートに書き写した生徒は、パッと顔を上げた。何か思いついたような、最初の一言の時よりも緊張した面持ちで、先生の目を見つめる。


「では、先生は僕の一言を、未来形にするのなら、なんといいますか?」

「ふむ……」


 先生はホワイトボードの、自分が記した縦線を見ながら考え込んだ。生徒が固唾を飲んで見守る中、そのままの姿勢で、先生の口だけが動く。


「会えなくなったとしてもあなたが好き」


 ぽこんと、ポップコーンがはじけるような音が、生徒の頭の中でした。もちろん、先生にはそれが聞こえず、代わりに鳴り響いたチャイムの音に反応する。


「ああ、時間が来てしまったか。では、今日の授業はこれまでにして、未来形の文章は、自戒までの宿題としよう」

「はい、先生、ありがとうございました」

「ああ、また次回に」


 先生はさっさと教科書類をまとめると、生徒の方も振り返らずに、教室を出て行ってしまった。

 残された生徒は、しばらく熱に浮かされたようにその場に座っていたが、次の授業の生徒が来るので、のろのろとだが、片付けを始めた。






   〇






 夜の外へ出た生徒は、歩道から、さっきまで自分がいた、雑居ビル内の日本語教室の窓を見上げる。他の階の電気は消えているため、白く光るその窓だけが、宇宙の中でもよく目立つ星のように、生徒には思える。

 生徒はその場から動かずに思い出す。先生の物思いにふける横顔、顎を押さえる曲がった指、一つ結びにした長い髪が僅かな呼吸によって動く様子、そして、薄く紅を塗った唇が、最低限の開閉をした様子にその時の一言を。


「会えなくなったとしてもあなたが好き」


 今度はこらえきれずに、こめかみ当たりの位置の穴から、ぷしゅーと白い煙が出た。耳とは違う器官のその穴は、感情の高まり、特に恋愛関係のそれに対して、反応してしまう。

 うっとりとしていた生徒だが、すぐに現実を思い出して、溜息をつく。


『先生って、異星人は恋愛対象なんだろうか?』


 母国語でそう呟いて、地球より何億光年離れたイスルタン星からやってきた彼は、トボトボと自宅へと帰っていった。

















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