第159話 革命前夜
一日の中で、夜が一番嫌いだ。それは、昼の方がマシというレベルの話で、だが。
昼は、親父を探して、家に借金取りがやってくる。仕事をしていない、始めたと思ったらすぐやめる親父は、それを無視してやり過ごす。
ドアを激しく叩いて、怒鳴り声をあげる借金取りに対して、親父は部屋の片隅で膝を抱えて、丸くなっている。体が小さいので、押し入れに隠れていた俺は、親父のそんな姿を襖の隙間から見て、子供みたいだなと呆れる。俺が六歳の頃からそう思っていた。
夜は、借金取りは来ない。その分、親父のステージだ。俺が借金取りにおびえる親父のことを、心の中で馬鹿にしていることを知っているので、俺のことをボコボコにする。泣きわめくことしか出来ないのが、我ながら情けない。
多分、体の痛みよりも、あんなみっともない姿を見せていた男に、自分がボコられていることにプライドが傷つくのだろう。最近は、自分が大嫌いな親父のようにプライドが高い男だと自覚し始めて、また嫌になる。
物心ついたころから、そんな生活だった。親父は昼間から酒浸り。おふくろらしき女はいつの間にか消えた。学校には行ったことがない。つまり、この家が俺にとっての世界だった。
ただ、腹が減って、家の中に何にもない時は、寝ている親父の目を盗んで、外に出た。それから、野良犬のように外のごみ箱を漁った。この町は、俺たちのように限界ギリギリで生活している奴らばかりだったから、誰も気に留めない。
成長してからは、コンビニや商店で万引きすることを覚えた。チビだったので、あまり目立たず盗めたし、逃げ足にも自信があったので、見つかっても捕まったことはなかった。
しくじったのは、つい先週のことだ。そろそろ現金が欲しいと思った俺は、初めて置き引きというのをやってみた。自販機で何か買おうとしている男の足元に置かれたビジネスバックを、さっと盗って逃げた。
これまでの万引きの技術を総動員させて、上手く行ったつもりだったが、すぐにばれた。持ち主の男は怒りに満ちた表情で追いかけてくる。しかもしつこい。後ろを気にしながら走っていたので、前方への注意が散漫になっていた。
角を曲がろうとしたところで、誰かとぶつかった。俺よりも背の高い相手だったので、吹っ飛ばされて、ゴロゴロ転がった。横になった視界に、追いかけてきた男が近付いてくるのと、ぶつかった相手の男が、俺とそいつを見比べているのが入った。
ああ、ここまでだろうなと、俺は諦めていた。俺をおもちゃとしてもてあそんでいる親父と違って、あいつは容赦しないだろう。ここで死んだとすら思って、目を閉じた。
しかし、殴られた音は、俺の体ではなく、別の方向から聞こえた。目を開けると、倒れ込んでいるのは追いかけてきた方の男で、俺とぶつかった男は、そいつを椅子代わりにして、俺が盗ろうとしていたビジネスバックを開けていた。
状況は分からないが、まだ危ないのかもしれない。しかし、警戒しつつ立ち上がった俺を、ぶつかった方の男はちらりと見ただけで、ビジネスバックを探っている。
「勘違いするな。俺は弱い者いじめが嫌いなだけだからな」
座っている男が言う。「弱い者」と言われて俺はむっとしたが、あいつから見て、チビだし子供だし、しょうがないところもある。
そのバックの中から、座った男が現金の束を取り出したので、ぎょっとした。鞄の持ち主は、高級そうな時計をしていたが、まさかこんな大金を持っていたとは思いもしなかった。
「ほれ」
それ以上に驚いたのは、座った男がその札束を、俺の方に投げてきたことだった。慌てて受け取ってしまう。この金で、何でもできる気がしたが、俺がしたいのは一つだけだった。
俺は、立ち上がった男に、札束を押し返した。男は初めて驚いた表情で、俺を見下ろす。
「金はいい。その代り、俺をアンタの舎弟にしてくれ」
「舎弟って、なんだ、チビ、お前はいくつだ」
「十七」
「まだガキだろ。ガキは舎弟にしない」
「来週の水曜、十八になる」
ハエのように俺を追っ払おうとするが、俺がまだ食い下がるので、男は嫌そうに俺を見下ろしていた。
「……どうしても、舎弟にしてほしいのなら、来週の水曜になった瞬間、ここに来い」
「分かった。絶対来る」
男はますます顔を顰めたが、「まあ、どっちみち儲けたか」と呟いて、俺が押し返す金を受け取った。
俺は、ひょろ長い男が、頼りなさそうな背中ながらもまっすぐ歩いている姿を見て、「来週の水曜、ここに」と心の中で繰り返していた。
そして、今、火曜日の夜だ。夜がこんなに待ち遠しかった一日は、生れて始めてだった。
今夜も親父にボコられた。痛みはあるが、情けなさは全く感じない。ただ、チラチラと時計を見て、まだ九時か、まだ十時かと、落胆するだけだ。
十一時半。俺を殴るのにも飽きて、また酒を浴びるように飲んでいた親父は、やっと寝入った。今まで腹立たしいだけのイビキが、なんだろう、神聖なもののように聞こえてくる。
俺は、部屋を出た。別に、親父が起きようとも構わなかったが、とにかく静かに。
携帯なんて持っていないので、家の中で唯一動いている時計である、目覚まし時計だけを握っていた。通りすがりが見たら、意味不明だろうなと思うと、笑いすらこみあげてくる。
俺は走った。走るというよりも、スキップのような足取りだ。目覚まし時計を見る。十一時四十八分。十二時前には、あそこにつく。
明日、俺は十八歳だ。大人になって、あの人の舎弟だ。
明日は革命の日だ。となると、今日は革命前夜か。じりじりと進む秒針から目を離して、俺は真っ暗な空を見上げた。
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