第152話 白の境に舞う金烏。
ある春の夜。私はベッドルームの椅子に座り、一つだけ点いている電気スタンドの下で、本を読んでいた。ある画家と彫刻家の対談が載ったページに、白い月の光が落ちている。
大きなベッドの上で、娘の凛がすやすやと寝息を立てているのを見抜いたのか、忍び込むように机の上の携帯が震えた。手に取ると、それは電話で、親友の初江からだった。そっと部屋を出てから、通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『もしもし、
「うん。凛も寝たところ。どうしたの?」
『実は、ちょっとお願いがあって……』
リビングのテーブルに座ったところで、初江が少々言い辛そうにした。私は、彼女が言わんとしていることにピンと来て、先に告げる。
「もしかして、引き出物のお願いとか?」
『あー、うん。そうなの。忙しくない? 無理ならちゃんと言ってくれても』
「全然、全然。式は少人数でしょ? やってやろうじゃないの」
『ありがとう! デザインは、好きなようにしてもらっても良いから。そんで、お金は、ちゃんと正規の分を払うからね』
「はーい、こちらこそ、お気遣いありがとー」
初江にはそう言っていたけれど、分からない程度には友達価格にしてしまおうかと思っている。私からの気持ちとして。
詳しいことが決まったら、また電話すると言って、初江との通話は切れた。しばらくぼんやりと、画面の暗くなったスマホを見つめる。
「初江も結婚かぁ」
小学生の頃からの付き合いである友人が、挙式することは前から訊いていたし、そもそもプロポーズされた日も知っている。それでも、しみじみと思い返せずにはいられない。
気は早いけれど、私はリビングの本棚から、スケッチブックを一つ取り出して、テーブルの上で広げた。琉球ガラス作家として、親友の引き出物を作れるなんて、名誉なことは滅多にない。
どういうデザインがいいだろうか。「好きにしても良い」と言われたのだから、私と彼女の思い出を象徴するようなものにしたい。
初めて出会った小学生三年のあの日、彼女の家で外泊して同じベッドで眠った夜、入学や卒業や成人といったイベント、私の結婚や出産を喜んでくれたこと、夫と上手くいかなくなって離婚すると言った時に泣いてくれたこと……。
指折り数えていったら、キリがないほどたくさんの出来事が思いつく。でも、形にしたいと思ったのは、初江のことを親友だと思った瞬間だった。
それは、きっと、初江が覚えていないくらいに些細な記憶。だけど、私自身の道を示してくれた、大切な言葉……。
□
小学五年生の三月だった。最後の図工の授業の課題は、今年度一番の思い出を描こうというものだった。他のクラスメイトは、遠足や運動会、学芸会や宿泊学習などの学校行事、家族旅行や部活の大会のような個人の思い出などを描いていた。
その中で、私だけが、朝焼けの中を飛ぶ
だが、当然と言うべきなのか、クラスの友達はこの絵が変だと言ってきた。この一年でたくさんの思い出があったのに、これが本当に一番なのか、みんなと頑張ったことは良い思い出じゃなかったのか、もっと絵にすべき出来事があったんじゃないかと、無邪気な顔で、次々と告げてくる。
担任の先生は、流石に真正面から否定はしない。ただ、私の目を直視せずに困った様子で笑いながら、「侑美の感性は独特だね」と微妙な言葉を掛けてきた。
下書き状態の画用紙の前で机に座り、私は途方に暮れていた。一本の木から、空に向けて飛び立つ烏が鉛筆で書かれている。まだ、書き直すことは出来るなと思うと、鉛筆も消しゴムも持つことが出来なくなっていた。
その原因は、周囲の反応だった。傷ついたという苦しみよりも、やっぱり自分って変なんだという納得感が強い。
幼少期から、周りと上手く馴染めなかった。盛り上がっている話題とは全然違うことを言ってしまい、場を白けさせてしまうことは多々ある。空気が読めないなんて、何度言われたことか。
その癖、こだわりが強く、自分が思った通りにしないと気が済まない頑固さがあった。小さい頃、決めていた片付けの順番を乱されて、癇癪を起こしたこともある。
このままじゃあ、駄目なんだろうなということは、いくら疎い自分でも、そろそろ気付き始めていた。友達から、露骨にいじられることはまだ無かったけれど、ひそひそと陰口を言われているのも知っている。
変わるのなら、今がチャンスなのかもしれない。もちろん、大好きな絵に妥協なんてしたくないけれど、周りが変だというのなら、正すべきなんだ。私はそう自分に言い聞かせて、消しゴムを手に取った。
「ゆーみー、ちょっと、聞いていい?」
そこに話しかけてきたのは、前の席に座っている初江だった。彼女は、こちらが何をしようとしていたのか本当に知らなかったみたいで、あれって顔をして、私の顔を見ていた。
取り繕った笑顔を見せて、「どうしたの?」と聞いてみると、目の描き方についてアドバイスが欲しいのだという。私は、彼女の席の前に回って、真摯に教えて、初江も納得できる目を描くことが出来た。
「……ゆーみーの絵、描き直すの?」
お礼を言われた後に、声を落として、そう尋ねられた。私は、気まずさを抱えつつ頷いて、分かりやすいくらいに強がって言い切る。
「やっぱ、運動会か学芸会のことを描こうと思ってね」
「でも、ゆーみー、この烏の旅立ちのこと、嬉しそうに話していたじゃない」
心配そうな初江の眼差しに、ぐぐっと言葉が詰まる。この烏の旅立ちのことを話した時、他の友達の表情は芳しいものではなく、初江があの話をちゃんと覚えていてくれたのに驚いたというのもあった。
「初江はさ、私が変だとは思わないの?」
「思ったことないよ」
初江は、本当に可笑しそうに笑った。私から、そんなことを尋ねられるのすら予想していなかったのだろう。
「人によって、見えている世界は全部違うんだから。ゆーみーが変だったら、私の方だって変だよ」
「そっか」
そういう考え方もあるのかと、目をパチパチさせていると、初江は、こう続けた。
「ゆーみーの絵、完成できるの楽しみにしてるよ。私、ゆーみーの絵、好きだから」
「ありがと、頑張るよ」
二人で小さなガッツポーズでエールを送り合い、自分の席に戻った。周りから変だと言われた瞬間よりも、すとんと腑に落ちるものがあった。
私は変かもしれない。でも、こんな変な私だから、自分にしか見えない世界があって、描きたい風景があるんだ。そしてそれを、卑屈に思う必要なんて、絶対にない。
誰になんと言われようとも、私は自分の描きたい絵を完成させた。白い朝の境界線から黒い夜へと向かって飛び立つ烏の絵は、貼り出されてみると他の人物画とは大きく浮いていたけれど、私はむしろそれを見て満足していた。
初めて、この感性を肯定してくれた初江のことは、私にとって特別な友達になった。そして、周囲からの声に自分の心が揺るぎそうになった時、初江からの言葉が灯台のように、いつでも私を導いてくれた。
□
口が広く、背の低くて、厚みがあると言う琉球ガラスの特徴を備えた試作品のグラスは、下半分が透明で、上半分がコーラのような色をしている。本当は、もっと真っ黒にしてみたかったのだけど、この色が限界になってしまったのが悔しい。
下と上の境目は、特に手を加えていないので、自然に生まれた波模様をしている。琉球ガラス制作では、あまり手を加えずに偶然生まれたものをそのままデザインとしているのだが、このあやふやな境目もいつか見た朝焼けのようにできたと、自負している。
「すごい。綺麗にできたね」
試作品を手に取って、初江は目をキラキラと輝かせている。自信のある出来栄えだけれど、改めて他の人からそう褒められるのは嬉しい。
場所は私と凛が暮らしているマンションだった。初江は地元を離れて暮らしていたけれど、日曜日に丁度実家に帰る用事があったので、ここに寄ってもらった。ちなみに、凛は公園へ遊びに行っている。
「引き出物としては、結構尖った色合いをしていると思うけれど、どうかな?」
「いいじゃない? って言っても、ゆーみーが決めたものだから、文句なんて最初からないけど」
そっとテーブルの上にグラスを戻しながら、初江は思った通りのことを言ってくれた。彼女の芯の強さはよく知っているから、私をおだてたのではなく、本当に信用してくれているのが伝わってくる。
「このグラス、私が小学五年生の時に描いた絵をイメージしてるんだけど……」
「あ、もしかして、烏が巣立ちする絵?」
アイスコーヒーを飲むのを中断までして、初江は嬉しそうに声を挙げた。まさか、あの絵のことを覚えていてくれているなんてと、私の方が驚いてしまう。
だけど、私がこの絵を描いた時に初江がかけくれた言葉については、覚えていなかった。そのことにはちょっとほっとする。親友相手とは言え、あなたの言葉を支えに頑張ってきたと言うのは、気恥ずかしい。
「でも、私にとっても、ゆーみーから言われて嬉しかった言葉があるよ」
「え、何それ」
意外過ぎる返答に、首を捻ってしまう。初江とは色々話してきたけれど、心当たりが全くなかった。
「とはいっても、私に直接言ったという訳じゃないけれど……。ほら、私と綾兄について、噂になった頃に」
「ああ、私たちが、小三の時だね」
初江には二人の兄がいるのだが、その内の一人、私たちの二つ年上の綾兄は初江が小一の時に彼女の家族となった。それも、親の再婚でとかではなく、親戚を引き取ったのだという。
これが噂になった時、私たちは違うクラスで、私もこのことを人づてに聞いていた。だから、あの時の話が出てきて、大分面食らっている。
「なんかのきっかけで、綾兄と私が実は血の繋がらない兄妹だって知られて、広まったでしょ?」
「そうそう。まるで、少女漫画みたいって、みんなはしゃいでいたよね」
実際は、実の母親の再婚で沖縄に来た綾兄が、両親を飲酒運転で亡くしてしまい、再婚相手の父方の親戚である、初江の家にやってきたのだというのだが、何も知らずに、そんな話ばかりしていた。
流石に、その綾兄が事故から二年経った当時、引きこもり状態だという話を聞いて、誰も無責任なことを言わなくなったのだが、最初から私は非常にモヤモヤしていた。
「通学路で、他のクラスの女子たちがその話で盛り上がっていて。後ろを歩きながらも、声が聞こえるから、なんだかいたたまれない気持ちになっててね」
「当事者からしたら、大変な時期だったのにね。初江も、綾兄も」
「うん。でも、そんなこと、言えるわけないじゃない。そしたら、その集団の中にいるゆーみーが」
「え、なんか言ったっけ?」
「覚えてない? 『それが、初江の家の普通なんだけどね』って、言ってたの」
明るい顔で言われても、全く思い出せなかった。ただ、あの時も空気が読めていない発言をして、変な感じなったんだろうなぁというのは想像できてしまい、苦笑した。
「嬉しかったよ。色んな人たちに、変わった家庭環境だねって言われていたから。でも、それを否定して、これが私たちの普通なんだと胸張っても良いんだと思って」
「そうなんだ……」
「だから、五年で同じクラスになった時、ゆーみーと仲良くなりたくなったの。今でも、この仲が続いているのは、奇跡的だとは思うけどね」
「私たち、ちょっと似ていたからかもよ」
テーブルの上に目を落とす。グラスに刻まれた白と黒の境界線を、朝の光を体いっぱいに浴びて、金色に輝く烏が、舞うように飛び続けているのが見えるようだ。
私たちは、「変」と「普通」の境を、自由に飛び越えることが出来る。初江と出会って、お互いにそう笑い合えるようになって良かった。
「……引き出物、全部丹精込めて作るからね」
「ありがとう。でも、無理はしないでね」
大きな仕事をしないといけないのに、気負う気持ちもなく、晴れ晴れとしているのは、親友への思いを形に出来るからかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます