第151話 ぼんのくぼ


「Aのぼんのくぼは、世界で一番綺麗だ」


 ソファーの上で、Bが私の耳に顔を近づけて、囁いた。驚いた私は、彼の顔を見る。ゼロ距離のBは、怖いほど真剣な表情をしていた。

 そういえば、私がBにナンパされたのは、夏祭りでの出来事だった。初めて浴衣を着て、髪の毛もお団子にしていたから、ぼんのくぼがよく見えたはずだ。


「一目惚れだったんだよ。このチャンスを逃したら、二度と会えない気がして……」

「だから、慣れないナンパなんてしたのね」


 ちょっと揶揄う様子で言ってみても、Bの表情は一切変わらないから、私は面白くない。こんな真面目に語る話でもないはずなのに。

 Bは、私の後ろ髪を書き上げて、ぼんのくぼを見る。だんだんとそこへ顔を近づけて、匂いでも嗅いでいるかのように、動かない。


「私、自分のぼんのくぼを見たことないの。他の人と違うの?」

「全く違うね。比べるまでもないよ。左右均等のくぼみ、首を下に向けてもはっきり見える存在感、肉付きの少ない首筋のラインに邪魔をしないように控えめに生えた髪……。完璧すぎて、こんなに美しいものは見たことがない」


 嚙みしめるように褒めながら、Bは溜息を吐く。ぼんのくぼにかかった息が、急に気持ち悪いもののように思えた。

 私は、Bを愛している。でも、Bは今まで、このぼんのくぼしか見ていなかった。悲しいというのか、悔しいというのか、よく分からない感情に、心がゴリゴリと削られている。


「ねえ、君のぼんのくぼに住んでもいい?」

「……いいわよ」


 だから、Bのよく分からない頼みにも、深く考えずに頷いていた。

 「ありがとう」という一言を残して、彼の気配がふっと消える。私のぼんのくぼに潜んだのだろう。


 咄嗟に自分のぼんのくぼを触ろうとしたが、Bを潰してしまうかもしれないと思い直して、辞めた。






   〇






 Bが私のぼんのくぼに住みだしてから間もなく、私に新しく好きな人が出来た。

 その相手、Cは、私の職場の後輩で、今まで眼中になかったのだが、最近、会話が増えてきて、少しずつ距離が縮まっていった。


 一緒に食事をした夜には、Cのことをすっかり愛していた。彼は、私の全てを愛してくれている。べろべろに酔っぱらって、ずっと言ってくれた褒め言葉に茹で上がりそうになりながらも、そう意識した。

 「付き合ってください」と、一昔前のお見合い番組よろしく、Cが頭を下げて手を伸ばしたので、私は「喜んで」とその手を握った。これで、私はCと恋人同士になったことになる。


 宙ぶらりんになったのは、Bとの関係だった。私のぼんのくぼに住みだしてから、彼とは一度も顔を合わせていない。一応、「別れよう」とは言っていないので、彼も恋人だということになるのだろう。

 別れ話を切り出せば、Bはそれを拒否するだろうか。仕事中、ぼんのくぼに一人の人間の熱を感じながら考える。もはや、Bと私の関係は、家と住民のような形になっていたが、「恋人同士」という言質を失えば、彼を追い出せるかもしれない。


 そんなことで逡巡している内に、Cが私の部屋へ遊びに来た。


「Aさんの部屋、って感じがする」


 リビングの真ん中で、天井を見上げてぐるぐる回りながら、Cは無邪気に笑っていた。まるで、満天の星空にはしゃぐ子供みたいだと、私も微笑ましく思う。

 夕飯は、やっぱり子供っぽいCのリクエストに応えて、カレーライスにした。「カレーライスの味が、その人の育ちをよく表している気がする」とか、もっともらしいことを言いつつも、彼は頬一杯にカレーライスを頬張っていた。


 食後は、互いの熱が高まっていることに、どちらも意識している。テレビをつけて、ドラマを流していても、その内容は頭に入って来ず、こうして並んでソファーに座っているのすら、もどかしい。

 「先、お風呂に入ってきて」——私のその一言に、Cは素直に従ってくれた。お風呂場のドアが閉まる音がして、寝室の準備をしようかなと、私が腰を浮かしたその時、


「さっきの、誰」


 すぐ隣から、声がした。ひゃっ、と、短い悲鳴が出る。

 いつかと同じ体勢で、Bがソファーに座っていた。いつの間に、ぼんのくぼから出てきたのだろう。また、私の耳に顔を近づけて、問い詰めている。


「あの、後輩」

「ただの後輩じゃないよね」


 Bは存外にしつこかった。私は言い訳も思いつかず、分かるか分からないか程度に頷く。

 叱られることを覚悟した。あるいは、いっそのこと、開き直って彼に別れを切り出すことも。しかし、Bは、「ふうん」と頷くだけだった。


「……気にしてないの?」

「どうして? 君が誰と一緒に過ごそうと、それは君の勝手だ」


 ああ、と、心の内で溜息が出る。やっぱり、そうだ。Bは、私のぼんのくぼしか見ていない。出会った時から、変わらずに。

 Bは、下を向いている。いや、何も見ていないかもしれない。私のぼんのくぼ以外の物事全て、働くことも食べることも、情欲すら捨ててしまった男だから。


「ねえ、そろそろ後輩が戻ってくるよ」

「あ、そうだね」


 そんな男を、捨てられないのも、私自身だ。多分これは愛情じゃない。Bを夢中に出来るのは、このぼんのくぼだけだという、奇妙な優越感だ。

 私に促されて、Bはぼんのくぼの中に戻る。この部屋に、彼のいたという形跡すら残らない。


 ドアの向こうの廊下から、パタパタとスリッパが鳴る音が聞こえる。風呂から上がってきたCを、何食わぬ笑顔で迎える心構えで待っていた。



















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