第147話 想定外な潜入 前・まずは潜入せよ
その男が取り出したのは、一丁の自動回転式拳銃だった。
長い銃身も、蓮根型の弾倉も、引き金や撃鉄も、全て真っ黒に塗り潰されている。中古の白い軽自動車内で、助手席に座る薄いブラウンのグレンプレイドのハイブランドスーツの膝に無造作に置かれたその拳銃は、あまりに現実離れした物体だった。これを握る助手席の三十前半の男が、平然としているのも、この違和感に拍車をかける。
運転席で、ハンドルを握るネイビーのリクルートスーツの青年は、こちらに銃口が向いていないそれを見ても、ごくりと生唾を飲み込んだ。憐れみを覚えるほどに緊張した顔を、助手席の男の顔を見上げる。
「……本物ですよね?」
「当然だろ」
「僕の人生の中で、それを見るのは初めてです」
「こっち側に属していたら、見る機会はあったんじゃないの?」
心底不思議そうな助手席の男の質問を、運転席の青年は「まあまあ」と苦笑しながら返す。
その時、後続車がクラクションを鳴らした。ビクリと飛び上がるほど驚いた青年は、青になった信号を見て、慌ててアクセルを踏む。
異常な初期加速の中でも、助手席の男は動揺せずに、悠々と拳銃を自分の背中側、ズボンと腰の間に差し込んだ。
そして、自分の足元にあるアタッシュケースを持ち上げて、開く。中には、白い粉が入った袋が、ぎっしりと詰まっていた。
「ああ、それ、全部ベーキングパウダーなんです。一瞬、本物に見えますね」
「へー、そだね」
「横溝さんには、それを持ってもらいます」
「はい。分かりました」
一言ごとに、口調もイントネーションも変化する、横溝と呼ばれた男は、黙々と自分の持っていたビジネスバッグの中身をそのアタッシュケースに移す。それらは、自動回転式拳銃の弾込めを一瞬で行えるスピードローダーだった。
そんな、現実的とは思えないような光景を、青年は運転しながらも、ちらちらと眺めている。改めて、横溝の顔立ちや髪形など、普通過ぎる雰囲気を見て、溜息を吐いた。
「あなたが殺し屋だなんて、未だに信じられませんよ」
△
数日前、横溝という殺し屋と同じ車に乗り合わせることとなる青年は、あるマンションの一室にいた。椅子に座った彼は、まるで、私塾の授業のように、ホワイトボードの前に立つ男と向き合っていた。
ホワイトボードには、一番大きな文字で「麻薬取り引き」と書かれていた。他には、「半グレA」「半グレB」「郊外廃工場」「おおよその金額・一千万」などの文字がある。
「麻薬強奪チームは四名で、配送中を襲う。で、今井には、取引現場である廃工場の方に潜入してもらいたい」
「分かりました、東田さん。でも、僕一人だけなのですか?」
自信満々の東田を見て、その青年、今井はまだ不安そうな顔をしていた。東田は、その質問を飲み込むように何度も頷く。
「薬を運んでくる側が大人数だと怪しまれるからな。俺たちからは、お前ひとりだ。しかも、相手側は銃を四丁も購入している。いつも以上に危険な仕事だ」
「ええ……」
「その代わり、こちらも外部から一人雇っている」
不安さを通り越して不信さをにじませる今井に背を向けて、東田はホワイトボードに新しい文字を書いた。その「横溝要」という名前を、彼は黒のペンで指し示す。
「横溝っていう、殺し屋だ」
「殺し屋⁉ ほ、本当にいるんですね」
「犯罪者相手の盗みや詐欺とはいえ、うちのチームにもそんなパイプがあるんだよ」
単純明快に驚く今井の反応を見て、東田は満足そうに言い切った。
「この横溝はな、言動の全てが映画の真似だ」
「……どういう意味です?」
「そのまんまだ。口を開けば、映画の台詞、歩き方も、どっかの俳優のトレースで、定まった個性というのが一つもない。口調も毎回変わるが、ギリギリ会話は出来るから安心しろ」
「はあ」
「殺しの仕事も、まるでアクション映画のワンシーンのように動くことで、完遂する。圧巻だったな。普通の大学生のお前には、信じられないだろうが」
その瞬間を思い出したのか、うっとりと遠くを見つめて目を細める東田。対して、今井は、奥歯に何かが挟まっているかのような、煮え切らない表情を作る。
「この『英会話教室』でも、殺し屋の手を借りることはあるんですね」
「ケースバイケースだ。今回のような、こちらの命がかかわる時はな。当然、相手はボディガード役で、こちらのポリシー通り、殺しはしないという約束を交わしている」
「……それなら、大丈夫ですよね?」
「ああ。強烈な毒も、使い方次第では薬になるからな」
どうにか飲み込んだ様子の今井を見て、東田も、マジックを両手で挟みながらにやりと笑った。
そして、作戦決行の当日。
今井は、送られてきた例の殺し屋の写真を元に、待ち合わせ場所である某駅前をうろついていた。しばらくして、それらしき相手を見つけ出した。
東田から、「写真の雰囲気ではなく、顔をちゃんと見ろ」と言われなければ、見落としていただろうその男は、ハイブランドのスーツ以外は目立つものはなく、人ごみにまみれたら一瞬で見失いそうな、中肉中背の人物だった。
スマホに写った、根本が黒くなっている金髪にスカジャン男の写真と、目の前の人物を見比べつつ、今井は恐る恐る「横溝さんですか?」と尋ねてみた。
すると、彼は爽やかな笑顔を浮かべて、「初めまして、こういうものです」と、スーツの内側から、一枚の名刺を取り出した。
あまりに丁寧な物腰に、今井はしばらくぽかんとしていた。名刺に書かれた「横溝要」という文字を見るまでは、動けないほどに。
△
「遠路はるばる、お疲れさん」
取引先の廃工場、一階の作業部屋と思しき場所は空っぽで、代わりに七人の男が待ち構えていた。その全員が、少しずつデザインの異なる灰色のツナギを着ていた。
今井とアタッシュケースを持った横溝を出迎えたのは、襟足だけを金色に染めた青年だった。気さくな口調だが、目つきは鋭く、二人を見定めている。
本来の取引先とは別組織であることと、気付かれてはならない。今井は、ぎこちない笑顔を作りつつ、後ろの首筋では脂汗を掻いていた。
一方、横溝は涼しい顔をしている。むしろ、周囲の男たちよりもリラックスしている。そのまま、アタッシュケースを出迎えた青年に差し出す。
「では、こちらを」
「待ってくれ。今、こっちは金を持っていない。別の部屋のボスに渡してくれ」
「そうでしたか」
「ただ、ボスは別の用事をしている。ちょっと世間話でも」
「いいですよ」
舐めるように訪問者を見定めながら、その青年は提案する。今井は、ぎこちない笑顔がはっきりと引き攣ったが、横溝はにこやかに応じる。
「どうだ、そっちのボスの様子は」
「ぼちぼち、ですかね」
「足の調子は?」
「雨の日は、古傷が痛むようで……」
一瞬、水を打ったように静まりかえった。直後、ツナギの男たちが全員笑い出す。
横溝の後ろで、今井は不安そうに周囲を窺っていた。そして、まだ苦笑を浮かべている横溝の鼻先に、青年がさっと取り出したナイフを突きつけた。鋭く、目の前の不審者を睨む。
「そっちのボスは、水虫だよ。……お前ら、何者だ?」
息を呑む今井。しかし、横溝は表情も変えずに、左手のアタッシュケースを手放した。
ゴンと音がして、ケースは卵のように上から開く。零れた白い粉を見て、青年は眉を顰めた。
「おい。もったいないだろ」
今度は、パンと短い銃声がした。横溝が、背中に隠し持っていた拳銃で、ナイフだけを撃った。割れた窓ガラスから差し込む自然光を反射して、ナイフがくるくると宙を飛ぶ。
間抜けな表情で口を開く青年を、横溝は右腕で抱き寄せ、ツナギの男たちの側に顔を向かせる。右腕で青年を締めつつ、拳銃は相手の左こめかみに当てた。
「動くな。……お前らの――リーダーと、金を持って来い」
「……無理だ。牛河さんは、俺たちのことを、ホルモンの名前で呼ぶほど執着してない。こんな脅しなんて、通じないぞ」
「そうか」
いつでも飛び掛かれるように腰を低くした男たちに対して、横溝は淡々と返した。そして、青年をそのまま前方に突き飛ばした。そのまま、彼の左肩を一発、撃ち抜いた。
「タンさん!」と、誰かが叫ぶ。それに弾かれるように、飛び出した一人の男に、横溝は拳銃を向けた。三十前半らしき小柄なその男は、一度立ち止まり、彼を制するように手をあげる。
「待て。こいつを止血させたいだけだ」
「まあ、それなら」
構えていた銃を上に向けた横溝。それを確認して、彼の死角から、別の銀髪の男が走り出した。横溝は、そこに顔と拳銃を向けて、
だが、そちらを見ている横溝に対して、仲間の止血を申し出た男は屈みこんだまま、落ちていたナイフを拾って投げた。今井が息を呑む。対して横溝は、それを見ずに、ナイフを撃ち返した。
「は?」
一瞬で、訳が分からないという顔をしたその男を見た横溝は、その膝を撃つ。男は、どくどくと流れる血を抑えて、蹲った。
突然、緊張感を破ったかのように、残った四人の男が走り出した。今井は、その勢いに押されて後ずさる。だが横溝は、冷静に彼らに銃を構えていた。
「あと一発だ! 全部使わせて、隙を作れ!」
走ってくる男の一人がそう叫ぶ。横溝は、そんな男たちを左から右へと銃口を向けて、最後に、アタッシュケースの中身に向けて、引き金を引いた。
ベーキングパウダーが、濛々と白い煙を巻き起こす。横溝のすぐ目の前まで寄っていた男たちは急停止し、「ヤバい! 吸い込むな!」と服の袖で自分の鼻や口を覆った。
その隙に屈みこんだ横溝は、前を睨んだまま、今井へ小声で言う。
「先に逃げろ」
「……でも、」
「すぐ追いつく」
スピードローダーで手早く弾倉に弾を込める横溝に対して、何もできない今井は、頷き、踵を返した。
そのまま、二人で潜った出入り口から飛び出すが、すぐに、後ろ歩きしながら戻ってくる。その足音を聞いた横溝は、怪訝そうに振り返った。
「パンパン聞こえると思ったら、随分舐めた真似してんな」
「……ジョアンナ! 大丈夫か?」
廊下から現れた黒いツナギの男に、自動拳銃を付きつけられて、青白い顔をした今井は、首を横に振った。自分の名前が間違って横溝に呼ばれたことに対しても、言い返せない。
ギリッと奥歯を噛みしめながら立ち上がった横溝だったが、黒のツナギに拳銃を構えても、撃つことが出来ない。その様子を黒のツナギはせせら笑いながら、今井の背中を優しく押して、誘導する。
「さあ、応接間に来てくれ。牛河さんが待ってる」
「ジェイコブ!」
「あ! これ、ヤクじゃねえぞ!」
「クソッ! 行けっ!」
「ジャニス! 待ってくれ!」
薬だと思っていたものの正体に気付いた男たちが襲い掛かってくるのを交わすのに必死で、横溝はそこから動けなかった。
そのまま、口を噤んだ今井は、黒のツナギの男と共に、横溝の視界から外れてしまった。
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