第146話 黒き鏡の玉兎。
「俺が小学生くらい? に読んだ絵本なんだけど。多分、どっかの民話でな、」
ビルの二階にある小洒落たバーの窓際席。僕ら二人で、通り過ぎていく人や車をぼんやり眺めながら、ちびちびカクテルを呑んでいた頃。いい具合で酔ってきたのか、
その絵本の主人公は、桃源郷に住む一羽の白い兎だった。一際美しい毛並みをしていて、飼っている仙人からは「
ある日、玉兎は森の中で、黒い手鏡を見つけた。それで初めて自分の姿を見た玉兎は、その素晴らしさに夢中になり、他の仲間にも仙人にも内緒にしようと、茂みの中に隠した。
それから、玉兎は時々黒い鏡を見に行ったという。その回数が増えていって、他の仲間や仙人に怪しまれるようになった。玉兎は、そんな時に初めて嘘をついて誤魔化した。
嘘をついて鏡の所に行くのが当たり前になってきた頃、玉兎は鏡の中の自慢の白い毛に、黒いシミが付いているのを見つけた。しかし、仙人に聞いてみても、そんなシミはついていないと言う。玉兎は、きっと鏡の汚れだろうと気にしなかった。
だが、そんな玉兎の思い込みとは裏腹に、鏡の中の自分のシミは、どんどん増えていく。しばらくして、このシミは、自分が嘘をつく度に生まれるのだということに気が付いた。
このまま嘘をつき続けたら、鏡の中の自分は真っ黒になる。と同時に、自分の体も本当に黒くなってしまう。そんな予感がして、玉兎は鏡の所に行くのを辞めた。
ある時、玉兎は延命の効能のある桃を盗もうとする見たことのない雌の兎を発見した。すぐにその兎を捕まえて、問い詰めると、涙ながらに訴えてきた。子供が病気で、桃を食べさせて助けたいのだという。
玉兎は、この母兎を憐れに思い、桃を持たせたまま解放した。後に、仙人に桃が一つ足りないことを尋ねられた玉兎は、自分が食べたと嘘をついた。
……玉兎は、誰も見ていない隙に、あの黒い手鏡の所へ向かった。鏡の中に映った自分は、かつての面影の無いほど真っ黒になっていた。
自分の本当の手を見ると、そこも墨を垂らしたかのように黒く染まっていく。玉兎は、軽率に嘘をつき続けたことを後悔して、泣き出してしまった。
「――というのが、その絵本のストーリーなんだけど、読み終わった時に、俺は愕然としたんだよね。あまりに理不尽で救いがないって」
お通しのピクルスにつまようじを差しながら、董治が話す。彼の言いたいことは、長年の付き合いで分かっていたので、僕も頷いた。
「誰かのために嘘をついたのに、その所為で真っ黒になってしまうのは、可哀そうだよね」
「そうだよな。結果的に、玉兎は噓をついたことに後悔してるし」
もきゅもきゅとしなびたピクルスを噛みながら、董治が返す。そして、ふっと悲しそうな目をしながら、続けた。
「この民話の教訓って、嘘をついてはいけませんってことなんだけど、嘘をつくのって、そんなに悪い事かね」
悪い事ではないよ。咄嗟に、そう言おうとしたかったが、言葉を飲み込んだ。
金曜日の夜、並んでお酒を飲みながらグダグダ話す男二人は、周りから見たら、きっと親友同士に見えるだろう。だけど、実際の僕らは恋人同士だ。そんな風に嗅ぎつかれないように振る舞うっていうのも、広義の嘘なのかもしれない。
「まあ、何が嘘になるのかって、時代とかで変わってくるから……」
「
董治は、そう言って快活に笑う。からかっているように聞こえるその言葉の裏には、「そういう所が好きなんだけど」という意味が隠されているのを、僕だけが知っている。
顔が赤くなったのを、お酒のせいにするために、僕は残り少ないスクリュードライバーを仰いだ。
□
その日の朝、式場に出勤した僕は休憩室でいきなり受付の
「聞いた⁉
「ほ、本当ですか?」
うちのウエディングプランナーである祝嶺さんの大ニュースに、思わず聞き返した。多良間さんは、力強く頷く。
本人に確認したかったが、休憩室の中に祝嶺さんの姿はなかった。サブプランナーの
「でも、いきなりどうしたんですか?」
「さあ。私も、辞めるってしか……。多分、結婚でしょうね」
「そうですか……」
なんでも短絡的に答えを決めつける多良間さんに呆れる気持ちはあったが、ここでは表情を出さずに、にこやかに返す。
すると、多良間さんは「あ、しまった」と言いそうな顔になった。
「
「はあ、ありがとうございます」
何故だか分からないが、多良間さんやここの社長なんかは、僕が祝嶺さんに片思い中だと勘違いしている。確かに、フォト撮影とかで、二人きりになる機会は多かったけれど……。
だが、それに関して、僕は否定も肯定もしなかった。むしろ、この勘違いを都合がいいと思っていたくらいだ。
僕は、この職場で自分のセクシュアリティを公開していない。社長が酷く同性愛者を嫌っているからというのが、一番の理由だった。
だからと言って、祝嶺さんのことを勝手に利用してもいいのだろうか? という後ろめたさは確かにあった。きっと、僕が玉兎と同じ黒い手鏡を見たら、この姿は隙間なく真っ黒に染まっているだろう。
□
うちの式場では、挙式とその前日の写真撮影が一緒になったプランが一番人気だ。その前の準備として、お昼前に祝嶺さんと会社の車に乗り込み、フォトスポットへと走らせる。
「沖縄の青い海を臨む結婚式を!」というのが式場のモットーなので、写真撮影はいつもビーチで行われるけれど、季節によってベストな景色は異なってくる。だから、入念な下準備が必要だった。
「辞めるって本当ですか?」
どこで撮ろうかという相談も一段落した頃、ハンドルを握る手に汗をにじませながら、僕は祝嶺さんに尋ねた。
助手席の祝嶺さんは、「ありゃ」と声を出して苦笑する。
「社長と
「すみません。多良間さんから聞きました」
「盗み聞きされたのかな」
頬を掻きながら、祝嶺さんは困惑の色を浮かべる。秘書の喜舎場さんは物静かなので、あまり噂話を広めることはしないだろうし、社長はおしゃべりだけど、祝嶺さんの辞める理由もしっかり付随して教えそうなので、そう考えるのが妥当なのかもしれない。やっぱり、狭い職場だ。
「ヘッドハンティングですか?」
理由は知りたいけれど、「結婚ですか?」と訊くのはどうも品がないような気がして、そういう言い回しになった。すると、隣で祝嶺さんは「ぷふっ」と吹き出す。
「そう言うのじゃないって。これからはフリーになる予定」
「えっ、ウェディングプランナーのフリーランスって、事ですか!?」
こういう仕事をしていても、聞き慣れない言葉に驚いてしまう。脳裏に、スタイリッシュにスーツを着こなし、バインダー片手にたくさんの部下にてきぱきと指示を出す祝嶺さんが浮かぶ。
結構似合っているかもしれないと思う僕の想像を読み取ったのか、祝嶺さんはまたまた苦笑を浮かべる。
「そんな大袈裟な事じゃないよ。どちらかっていうと、人手が足りていないところを手伝うって形だから」
「そうでしたか。でも、最近はリゾート婚も大分増えてきましたからね」
「うん。私も、離島でのコーディネートもやってみたいと思っていたから、いい機会でね。まあ、それ以前に、彼氏が実家を継ぐから、そことの兼ね合いが大きいかな」
「……ん? 彼氏?」
きゅっとブレーキを踏んで、赤信号なのをいいことに、祝嶺さんを凝視する。彼女は、幸福の頂点にいるけれど、控えめな照れ笑いを――要するに、結婚するような人たちが見せる顔をしていた。
「婚約したの」
「お、おめでとうございます」
「これ、アジちゃんと謝花君にしか言っていないから、内密にね」
祝嶺さんから、恋愛の話を初めて聞いたので、僕は驚きすぎて、変な間で祝福してしまった。人のこと言えないけれど、ここまで秘密にしていたのはすごい。
そう言えば、多良間さんから、祝嶺さんは僕が入社する前までいたカメラマンと付き合っていたと聞いたことがある。それが破局して、なんやかんやあって、一時はマッチングアプリに手を出すくらいに荒れていたのだというのが、多良間さんの話だった。
僕は、多良間さんの主観だらけの話に、別れた後にどうするかは本人次第じゃないかと呆れながら、表面上はにこやかに頷いていた。そして、この職場では自分のセクシュアリティを公開できないなと、そう思ったものだった。
ただ、祝嶺さんが結婚をまだ秘密にするのは当然なのだが、どうして僕には話してくれたのだろう? アジちゃんこと安次富さんは、祝嶺さんの直属の部下だから分かるのだけど。もしかして、もう脈はないよと教えてくれている?
自慢するつもりは全く無いけれど、僕は女性には結構モテる。それは、僕が女性を恋愛対象としてみていないので、全員平等に接することが出来るからだった。よって、僕を巡って女性二人が修羅場を演じたことがあるけれど、嬉しさなんてこれっぽっちもなく、本当に勘弁してくれというのが正直な気持ちだった。
それに、僕は職場の人たちの、「謝花君は祝嶺さんのことが好き」という噂を、否定も肯定もしなかった。そのことが祝嶺さんの心に引っかかっていたのならば、流石に申し訳なく感じてくる。
この勘違いを正して、謝るのなら、今がチャンスじゃないのか。そんなことを肌で感じながらも、目的地のビーチに着いてしまい、僕はほど近い駐車場に社用車を停めた。
一歩車から出たら、僕らは完全に仕事モードに切り替わる。一切の無駄口を叩かずに、祝嶺さんをモデルに、ビーチのどこがベストポジションなのかをじっくり定めていく。
「……僕は、こっちの方がいいと思います。ちょっと、バックは緑の方が多めですが」
「いいよ。ドレスがブルー系だからね。とりあえずは、こっちかな」
「あ、あと、提案ですが、ブルーのドレスなら、サンセットで撮るのも、アリだと思いますよ」
「おっ、ナイスアイディア。とはいえ、現実問題、天気との兼ね合いになっちゃうけどね。一度、クライアントに伝えてみるよ」
「お願いします」
祝嶺さんは、僕のアイディアをほぼ受け止めてくれる。ただの思い付きの、ちょっと無理のありそうな考えでも、折衷案を出してくれるし、何よりもお客さん第一主義を忘れないので、僕も安心して発言できる。
雇われカメラマンが集まると、クライアントからどれだけ無茶ぶりをされたのかという不幸自慢合戦が始まるので、僕は本当に恵まれている方だなと実感する。祝嶺さんが辞めた後に、この仕事引き継いでくれる安次富さんも、彼女に憧れてその背中をしっかり見ているので、今後もきっと大丈夫だろう。
そんな風に、大体の撮影ポイントは決まったので、十二時ちょうどにお昼を摂ることになった。ビーチの近くには、人気のある地元密着型のお弁当屋さんがある。すでに人が並んでいたけれど、折角だからと僕らもそこでお弁当を購入した。
今日は薄曇りで、風も涼しい。駐車場からビーチへ降りる幅の広い石段に、祝嶺さんと並んで座った。僕は、
「謝花君、好きな天ぷらの具って何?」
「玉子ですね」
「へぇ! 滅多に見ないけど、おいしいよね」
「祝嶺さんは?」
「私はイカ。ちなみに、アジちゃんはもずくが好きだって」
「ああ、よく居酒屋でも注文していますね」
普通のことを話しながら、二人でご飯を食べる。青い海がどこまでも広がり、その上を吹き渡る風が、
「天気もいいし、最高の日だねぇ」と、同じ景色を見ていた祝嶺さんが、穏やかに呟くのを聴いて、僕の胸はいっぱいになった。彼女と過ごすこんな時間、きっと
「うちの職場で、僕は祝嶺さんに片思いしてるんじゃないかって噂になっていたじゃないですか」
「あー、そうだったね」
「すみません。それを知っていて、わざと乗っかっている部分がありました」
「えっと、それってつまり……」
「実をいうと、僕はゲイなんです」
祝嶺さんの言葉を最後まで訊かずに、締まりかけのエレベーターに滑り込むように一言差し込むと、彼女は大きく口を開けたまま固まってしまった。
何か間違えたかもしれない。その恐ろしさに
「誰にも、気付かれたくなかったんです。でも、恋人がいると言っても、いないと言っても、悪い方に転がりそうで。だから、社長たちの思い込みに乗っかって、祝嶺さんのことが好きだと勘違いさせ続けていました。そのせいで、祝嶺さんがどんな気持ちなのかも考えず……とにかく、すみません!」
「あ、別に、そこまで謝らなくてもいいよ」
祝嶺さんは、たじたじといった様子で頭を下げ続けた僕を宥めた。顔を上げると、彼女は、「そっか、そうだったんだ」と納得するように、前を向いて、気を取り直すように、ポーク玉子おにぎりを頬張った。
「ちょっとびっくりしただけで。まさか、ゲイだったなんてね……」
「黙っていて、すみません」
「それはしょうがないよ。社長、酷く同性愛者を嫌っているからねぇ。その分、納得できた部分もあったから」
「納得? どうしてですか?」
こっちを向いた祝嶺さんは、ペットボトルのさんぴん茶を飲もうとする僕の手が止まってしまうほど、怪しげな微笑みを浮かべた。
「謝花君が、私のこと好きじゃないの、気付いていたからね」
「あ……そうでしたか」
独り相撲を指摘されたようで、余計に恥ずかしい。赤くなってさんぴん茶をがぶ飲みする僕を見て、祝嶺さんは「ふふふ」と笑った。
「ほら、謝花君が入りたての頃、私も別れたばっかりでね、社長が『付き合ったらどうだ?』と言った時があったでしょ?」
「えーと、あんまり覚えてないですね」
「その時ね、謝花君、ほんの一瞬だけど、嫌そうな顔をしていたから」
「え、それは、すみませんでした」
正直、言われても思い出せない程度の二年前の出来事だった。言われた時は、傷ついて怒って、董治相手に愚痴りながらいっぱい呑んで、本当に忘れてしまったのかもしれない。
あの時は、社長がどうも同性愛者が嫌いらしいと分かり始めていて、自分を守ることに精一杯だった。だから、一瞬の態度が祝嶺さんをずっと苦しめていることが分からなかった。
「最初は、十歳も上の人なんて、恋愛対象ではないんだろうなぁと思っていたけれど、さっきの告白でそうだったんだぁと思ってね」
「はあ……」
「でも、その後の謝花君は、片思いの噂を否定しなかったから、もしかしたら気を遣わせてしまったのかなぁって気になってて。と同時に、それを私も利用していて」
「え、祝嶺さんも?」
信じられない気持ちで尋ねると、彼女ははっきりと首肯した。
異性愛者なのに、どうして恋愛に関して、嘘をつく必要があるのだろう。僕は単純に、そんな疑問を浮かべていた。
「あの狭い職場で、社内恋愛をしていたせいなのか、付き合ったり別れたりを色々言われるのが嫌になったのよ。だから、恋人ができたのも、結婚するのも、ギリギリまで黙っていようと思っていて。そうなると、私と謝花君の付き合いそうでまだ付き合っていない微妙な関係という筋立てのドラマは、丁度いい隠れ蓑だったのよね」
「つまり――僕らは、利害が一致していたのですね」
「うん。だから、先に結婚のことを話したのも、もう気を遣わなくてもいいよって教えたかったから。あとね」
祝嶺さんは、隠し事をしていた生徒を怒る先生のように、眉を吊り上げて、僕の顔を指差して言った。
「嘘をついていたみたいだから、後ろめたくなって、謝り過ぎちゃダメ。案外ね、大人は嘘や勘違いを利用し合いながらうまく生きていくものなのよ」
「……はい。よーく分かりました」
祝嶺先生の有り難いお説教に、僕は平伏することしか出来なかった。ただ、態度はコミカルでも、この人には敵わないなという気持ちが滲み出ている。
心地よい風に吹かれながら、残りの弁当を食べていると、この話を董治にしてみたくなった。噓つきは断罪されるという話を読んで愕然とした彼なら、僕と祝嶺さんの奇妙な関係を、大笑いしてくれそうな気がしたからだった。
□
「あの後な、気になって玉兎の民話を調べてみたんだよ」
週末、映画館に向かう車の中で、運転席の董治はそう言い出した。
「そしたら、あの結末に続きがあるパターンも見つけてな」
嘘をついて真っ黒になってしまった玉兎は、手鏡を持って仙人を訪ね、事の顛末を正直に話した。仙人は、玉兎が正直に教えてくれたこと、そして、最後の嘘は誰かのためについたことを考慮して、玉兎の体の黒い汚れを一部取ってくれた。
玉兎は、黒にちょっとだけ白の混じった毛色になったけれど、これでいいと自分を受け入れて、幸せに暮らしましたとさ……というのが、董治を見つけた別パターンの話らしい。
「じゃあ、小学生の董治が読んだ話は、途中までだったのかな?」
「いや、どうやら、あの続きは民話が伝わっていく内に、付け加えられた部分らしい」
「このままじゃ、玉兎が可哀そうだと思った優しい人がいたんだね」
「ああ。昔も、悪い事ばかりじゃないだろ」
董治がにやりと笑う。黒と白の毛並みを誇った玉兎のように、嘘ばかりの自分の人生もそんなに悪くないと肯定したい気持ちなんだと感じた。
僕は、祝嶺さんとのこの前の会話が、玉兎の民話とオーバーラップするように思えていた。話すのなら、ここなのかもしれないと、映画館までまだまだ距離のある車内で、僕は口を開いた。
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