第143話 二階からの風景
私が就職した会社は、古いビルの二階に位置していた。
そのビルには、エレベーターがない。一階のホールを入って、正面にある幅の広い階段を上って、踊り場で折り返して、次の階段をまた上った先には、廊下、その向こうに大きな窓がある。
最初に、この階段を上った先にある窓を意識したのは、就職した最初の日だった。会社の面接の時も目にしていたはずだけど、その時は緊張していたためなのか、窓のことをちゃんと見ていなかった。
窓の外は、南国のビーチのように太陽が燦燦と降り注ぐ、良い天気になっていた。気温も高そうで、気のせいか、この下に広がる普通の家々も、車道を通る車も、道行く人々も、どこか陽気な格好と雰囲気をしている。
ただ、そんなことはありえないと分かっていたから、私は愕然とした。何故なら、今日は肌寒い曇り空で、雨が降り出しそうだからと、傘を持ってきたくらいなのだから。
もしかしたら、これがただの窓ではなく、何かの宣伝のためのスクリーンなのかもしれない。そう思って、窓枠を触って確かめてみるが、特に変な所もない。
「あの窓のところ、見た?」
お昼休み、先輩に誘われて、同期の子たちと一緒に近所の食堂でテーブルを囲んでいると、先輩からそう尋ねられた。
私たちは、何のことだろうと思いつつ、それぞれ頷く。すると先輩は、なんだか満足げに、何が見えたのかを訪ねてきた。
「私は、よく晴れた、南国っぽい風景でした」
「え? 僕は、雨が降っていたけれど」
「私の方は、晴れと雨が半分ずつの、変な天気です」
私以外の同期二人は、私が見たのとは全然違うのを言ってくる。まさかと疑いそうになるが、そんな嘘をつくわけがない。
疑心暗鬼の目線を交わす私たちを眺めて、先輩は種明かしをするマジシャンのように、自慢げに教えてくれた。
「あの窓は、見た人それぞれの心を示しているの」
「え、何ですか、それ」
「そのまんまの意味。いつの頃からか分からないけれど、そうなったみたいで。貴方たちの、希望とか不安とかが、そのまんま窓の外の天気に出ていたんだろうね」
「えー」「へえーすごい」「そうなんですか!」
私たちは、ほぼ同時に口々違う反応をする。薄かったり大袈裟だったりはするけれど、多少の動揺は全員しているはずだ。
自分の心の中が、抽象的にだけど他人に伝わってしまうのは、どうだろうと思ってしまう。現に私は、自分のうきうきした気持ちを告白してしまって、十分すぎるほど恥ずかしくなっていた。
〇
それから、二階に上がる度に、窓の外の風景が変化する日々を過ごした。
一段一段登っていくと、少しずつ窓の外がせりあがってくる。そして、先輩の言う通り、風景は毎日変化する。
例えば、初めての健康診断で緊張している時は、雨が降っていないけれど黒い雲の間でゴロゴロと雷が光っている風景。
好きだった俳優の結婚発表を見た後は、外が真っ白になるほどの大吹雪。
給料日やボーナスが支給される日は、雨あがりのキラキラした街並みに、大きな虹の架かっていた。
私って、分かりやすいなぁと、二階からの風景を見ながら思ってしまう。自分が二階からの景色を見た瞬間、ちょっと苦笑してしまうのが、私の癖になっていた。
他の会社の人は、どんな風景を見ているのだろうかというのは気になる。だけど、その話を聞いてみると、あなたの方は? と尋ね返されそうなので、その話題をしないのが暗黙のルールだった。
「おはよー」
「あ、おはよー」
同期の子が、一階のホールで歩いているのを見て、声を掛ける。当然、おしゃべりしながら、一緒に階段を上がる。
彼女は、どこか落ち込んでいるようにも見えた。大丈夫かな、と思うけれど、どこまで踏み込んでいいのか分からない。
そう考えていると、二階の窓が少しずつ見えてきた。今日の私は、とてもニュートラルな気持ちだったので、秋晴れに羊雲が並んでいる空模様だった。
彼女はどうだろうと、そっと隣りを窺う。じっと外に目を向けた同期は、ちょっと目を伏せて、聞こえるか聞こえないかくらいのとても小さな溜息を吐いた。
「あ、今日の仕事って――」
そんな私の視線に気付いたのか、同期は急に明るい顔になって、私に仕事の話を振ってきた。「ああ、あれはね、」と言いながらも、やっぱり心配になってくる。
言わないでおこうと決めたのなら、こちらもこれ以上踏み込むことが出来ない。今のことは忘れてしまおうと決めて、彼女に合わせた。
〇
入社して半年も経つと、二階からの風景の変化が、天気だけには留まらなくなってきた。
街並みまでもが、大きく変化するようになり出したのだ。
カレーが食べたいと思った日は、インドの街並みに変化していた。
ハリウッドのアクション映画を見て、興奮していた時は、舞台となったニューヨークに。
友達がヨーロッパ旅行に行った時の写真を見た時は、それと全く同じヴェネチアの風景になっていた。
ここまで、自分の見聞きしたものに変化するのかと、苦笑を通り越して、吹き出してしまうようになっている。私の前に進んでいる人が、怪訝そうに振り返って、思わず顔が赤くなってしまうことも、何度もあった。
そう言えば、そんな人たちだって、二階からの風景を通して自分の心を見ているはずだった。あまり動揺しないくらいに、見慣れてしまっているのだろうか。
もう一つ、気になるのは、前に一緒になった時に、階段の上で溜息を吐いていた同期の子だった。
彼女は、仕事はいつも通り、てきぱきとこなす。むしろ、楽しそうな気がするくらいに。
だけど、何度か出社中に見かけると、いつも暗い顔をしていた。あの時と同じような溜息も、一緒になると必ず聞いている。
半年の間、何かあったんだろうかと思うけれど、やっぱり聞きそびれてしまう。そんな
「私、最近ずっと、曇り空なの」
一瞬、何の話か分からなかったが、階段を上っていく彼女が見ているのが、二階の窓の風景だったので、それのことかと分かった。
彼女の告白に驚きつつ、階段を上り切る。私の目に映るのは、眩い真夏の光を浴びて花開く、一面のひまわり畑だった。週末、彼氏とデートの約束をしたので、完全に浮かれていた。
「何か、あったの?」
「ううん。特に何も。だから、余計に困っているの」
思い切って尋ねてみると、彼女は言葉通りの困惑を浮かべて、そう言った。そして、二階の窓のすぐ前まで近付くので、私もその隣に並ぶ。
「最初にあの窓の外を見た時は、晴れと曇りが半分半分だったんだけど」
「うん。そう言ってたね」
「それがだんだんと、雲の割合が多くなっていってね、」
「そうなの」
「その内、ずっと曇り続きになっていてね」
彼女は、今も曇っている空を見て、憂鬱そうな表情も変えずにぽつぽつと話し続けた。
「もしかしたら、仕事を辞めたいのかなぁって」
「え、でも、いつも楽しそうじゃない。ここも、第一志望だって言っていたし」
「うん。それは間違いないよ。だから、余計に可笑しくて……」
彼女は俯いた。どう声を掛けようかと、悩んだ私は、ふと、自分も窓の外に目を向けた。
清々しいほど晴れていた空だったのに、地平線の彼方の方から大きな入道雲がもくもくと湧き上がっている。天気が崩れる予兆が出ているのは、私の正直な気持ちなんだろうなと思った時に、ピンとくるものがあった。
「ねえ、肩こりの由来って知ってる?」
「肩こり? 何の話?」
私が振った話題に、彼女はびっくりして目を瞬かせる。
「夏目漱石が、小説の中で表現した言葉から、人は肩がこるようになっていったらしいよ」
「えー、本当かなぁ?」
彼女は疑いの目をこちらに向けてくる。この語源に対してのものであったが、同時に、どうしてこの話を? と言いたげだ。
私は、満を持して、自分のアイディアを口にした。
「言葉がきっかけに、感覚が生まれるように、この風景がきっかけで、自分の気持ちが定まるってことも、あるんじゃない?」
「うーん、そうかなぁ」
彼女は小首を傾げる。だけど、浮かべた苦笑には、もしそうだったらいいけれどという期待が滲んでいる。
あともう一押しだと、私は力強く提案した。
「試してみない? 明日、出勤した時、目を瞑って、階段を上ってみる、とか」
「そうだねぇ……」
彼女は、ちょっと迷っている様子だったが、ちらりと外を見ると、黒板けしで文字を消したかのように、一瞬で苦笑が消えてしまった。彼女の目に映る風景は、まだ曇りだったらしい。
私も、そんな表情に不安を感じつつも、「明日、他の人の邪魔にならないように、早めに来てね」とお願いしながら、彼女と会社に向かった。
〇
いないかもしれないと思いつつ、いつもよりも十五分早く出社すると、彼女はビルの入り口前で待っていた。
表情は暗いけれど、まずは来てくれたことにほっとして、彼女に挨拶をした。
「こういうことしても、関係ないと思うよ」
「ま、物は試しだからね。私も、気になるから、やってみるよ」
やっぱり後ろ向きな彼女を、明るい声で励ましつつ、階段を上る。踊り場で、彼女は手すりを掴み、しっかりと目を瞑って上り出した。
私も、そのすぐ後ろで同じように足を踏み出していく。真っ暗な中で、何が目の前に広がっているのだろうというドキドキに、気持ちが高まっていった。
足音で、彼女が階段を上り切ったことが分かった。私も、同じように二階へ進む。
手を前にして歩いて、彼女の背中に触れた。ごめんと謝りながら、その隣へ移動する。
「じゃあ、開けよう」
「うん」
私の提案に、彼女も硬い声で頷く。そうして、ぱっと、目を開いた。
……まず見えたのは、白い色だけだった。何も書かれていない、自由帳のように、白一色で、平坦な世界。
「真っ白」
彼女が、そう呟いた。私と同じものを見ていると思いながら、隣を見ると、急に顔がだんだんと明るくなっていく。
私も、自分の風景を見た。まるで、映画のCGのように、いつもの街並みがぱっ、ぱっと現れてくる。なんだか楽しいと思っていると、立っている木は全て花開いた桜に変わり、空も朗らかな春のものへと変わっていった。
「私、やっぱり、この仕事好きかも」
彼女が、自分だけの風景を見ながらそう呟く。声も温かくて、私は心から良かったと呟いて、安堵の息を漏らした。
メジロらしき緑の鳥が、春風に乗るかのように、窓の外を飛び去って行った。
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