第142話 透明人間と午後の珈琲を


 祝日の午後は、何も考えずにのんびり過ごすのが一番。

 私はソファーの上で体育座りをして、背もたれに体を預けつつ、膝上に乗せた雑誌を捲っていた。キャベツを丸ごと使ったロールキャベツのページに目を止めて、おいしそうだなぁ、作りたいなぁ、でも難しいかなぁ……なんて、とりとめもなく思っている。


 ベランダに繋がる左手側の窓からは、レースカーテンを少しだけ揺らす程度の微風と、快晴の日光が入り込んでくる。ぽかぽか陽気に、あくびまで出た。

 こんな時は、珈琲でも飲みたい。そう思うのだが、下手な淹れ方をしてしまうと同棲中の恋人がうるさいので、我慢する。今、彼は買い物へ出かけていて不在だけど。


 その時、玄関の鍵が開く音、廊下を走ってくる音が連続して聞こえて、勢い良く、このリビングダイニングの入り口ドアが開く音が響いた。


「みーさん、ただいま!」

「あー、おかえりー」

「これ、見てよ、これ!」


 意外と帰りが早かった彼に、投げやりな返事をしたのだが、ずっと興奮している彼は、何度も私を呼ぶ。なんだろうと、いぶかしげに私は雑誌から顔を上げた。

 まず、隙間なく包帯を巻いて、色の薄いサングラスをかけた顔が目に入る。しかし、透明人間である彼にとってはそれが普通の恰好なので、特に気にせず、ドーンと印籠のように突き出している茶色い袋に目を向ける。ペンギンの親子が横向きに並んだステッカーが貼られていた。


「どうしたの、それ?」

「寒冷珈琲! 商店街で最近オープンした珈琲ショップで売っていたんだ!」

「ああ、なんか、昔話題になっていたねぇ」


 一年前のテレビのニュースで、品種改良や温室の技術がどうのこうので、北極圏でも育つ珈琲の種類が出来たと放送していた。私は、「すごいなー」くらいの反応だったけれど、カフェで働くほどの珈琲好きの彼にとっては、雷に撃たれたくらいの衝撃だったらしい。

 その日のうちに、ネットショッピングでその「寒冷珈琲」を買おうとしたのだが、直輸入経路がまだできていないため、運送費がとんでもない値段だった。哀れなほどがっかりしていた彼を、「まあ、いつか近所でも買えるようになるさ」と慰めたのを覚えている。


「みーさんの予言通り、近所でも買えたよ!」

「予言のつもりじゃなかったんだけどね」


 本当に本当に気休めのつもりで言った言葉を拡大解釈されてしまったので、苦笑してしまう。ただ、彼は全く気にせずに、キッチンへ入って、早速珈琲を淹れる準備を始めた。

 私は雑誌を読むのを再開しつつ、作業中の彼に話しかける。


「寒冷珈琲って、北極圏でも育つっていうのがウリでしょ? ペンギンは南極だから違うんじゃない?」

「まあ、気温は同じ、ってことで、一緒にされたのかもね」

「いいの、それって? 現地の人が怒らない?」

「現地の人って、誰? ペンギン? シロクマ?」

「さあ?」


 肩を竦めて、我ながら身のない会話をしているなぁと思ってしまう。嫌いではない時間だけど。

 いい匂いとジュウジュウという音が漂ってきたので、キッチンを見ると、彼が珈琲を炒っているところだった。料理をする時は、危ないのでいつもつけている手袋を外す。そのため、木べらが空中に浮いてひとりで出動いているような不思議な光景になっていた。


「ええと、匂いが変わってきたから……」


 ぶつぶつと彼が包帯を覆われた口で言う。美味しい淹れ方を、ショップの店員さんから聞いてきたらしい。

 焼きの作業が終わったら、コーヒーミルに豆をかけていく。ゴリゴリと音を立てて、ミルのハンドルが回る。一見、誰も触れていないのに、勝手に回っているようだ。


「私、あなたが珈琲淹れている瞬間好きだよ」

「ええ、そう?」

「うん。魔法みたいで」

「うーん。できれば、味を評価してほしいな」


 表情が分からずとも、困っているのは彼の声で分かった。

 だから、「おいしいのは分かっているから」とからかうように言ってみると、彼は無言になってしまう。包帯の下の頬は、きっと真っ赤に染まっているのだろう。


「本当は、プレスを使いたいんだけどね、早く飲みたいから」


 そんな言い訳を、誰からも責められていないのに彼がして、コーヒーフィルターを使った珈琲が出来上がった。彼はどこか満足そうな顔で、カップを差し出すので、私はソファーから立ち上がった。

 キッチンカウンターを挟んで、彼と向き合った。本来、私は珈琲に砂糖を入れたい羽だけど、ここは彼の顔を立てて、ブラックで試飲する。とはいえ、彼の腕のお陰で、ブラックも平気になっていたが。


「では、いただきます」

「いただきます」


 何かの儀式のようにかしこまった彼とコーヒーカップを掲げて、それを口に付けた。鼻から抜ける香り、下に降れた苦み、嚥下した味……そのどれもが、おいしい、けれど……。


「何か、物足りなくない?」

「……」


 正直な私の感想を、彼は黙って聞いていた。怒っているのではなく、同意した上で困っているのだと、付き合いが長いから雰囲気で分かる。


「いつも飲んでいるのの方が、良い気がするなぁ」

「淹れ方が悪かったのかも」

「でも、店員さんに教えて貰った通りに入れたんでしょ?」

「いや、コーヒーフィルター使ったから……」

「正直、他の珈琲豆をフィルターで淹れた時よりもあれだよ」

「あー、でも、まあ、今後の発展を狙った設備投資だと思えば、こそ、だよね」

「それ言っちゃったら、味の不満を認めたようなことじゃない」


 私がそれを言うと、彼はぐぐっと言葉に詰まった。弱い者いじめのようだけど、この隙に、どうしても確かめたいことがある。


「ちなみにだけど、それ、いくらだった?」

「……いつもの二倍……」


 ああー、と、天井を仰ぎたくなった。彼が味の不足感を認めたくないのもよく分かる。ついでに、もう一つ確認したいことを問い詰める。


「これ買ったから、夕飯の買い出しのお金が無くなっちゃったの?」

「あ……」


 それに関しては、完全に忘れていたらしい。彼の間抜けな声が、リビングに放たれて、行く当てもなく漂っているようだった。

 こんな時、私は怒るべきだろうが、先に笑い声が出てしまった。彼の好きなものに対して夢中なところに惚れたんだから、もうそれはしょうがない。


「今日は、私が夕食を買ってくるね」

「ごめんよー」

「いいよ、今度、何か奢ってくれたら」


 この上なく申し訳なさそうにしている彼に対して、私はまだ笑いながら、財布の入った買い物袋を持って、部屋を出た。






















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