第141話 これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい


『本日のメールテーマは、酒の席の失敗!』


 カーラジオから、陽気なおじさんDJの声が流れる。夜中にやっているこの長寿ラジオ番組は、毎週異なるテーマでメールを募集するのが特徴だった。

 私は、ハンドルを握って、閑散としている県道を走りながら、自分の酒の席の失敗を思い出す。


 真っ先に浮かんだのは、自分が大学生だった頃の出来事。ラジオどころか、自分の親しい人にも中々話し辛い、とある過ちだった。






   □






 大学一年生の頃、私は自動車教習所に通っていたが、同時にドライブサークルに入部した。将来は、車関係の仕事に就きたいと思っていたので、そこで整備の方法や運転技術を教えてもらって、月末には沖縄県内のドライブに連れて行ってもらっていた。

 先輩方の顔と名前も覚えてきた頃、私には、気になる一人の男性ができた。それは、かっこいいからとか一目惚れしたとかではなく、なんか浮いているなぁと思っている人だった。


 経済学部三年生の彼は、久留米くるめ綾人あやとという名前で、みんなからは綾人先輩と呼ばれていた。色白で、ちょっと背の高い人だったけれど、あまり威圧感は無くて、話しかけたら気さくに答えてくれる良い先輩だった。

 ただ、なんだか私たちの間に壁があるような気がしていた。仲良くなりたいと近付くと、一歩後ろに下がってしまうかのような。本人不在の時に、綾人先輩のそういう雰囲気のことを話したら、三年の英輔先輩が教えてくれた。


「綾人は、今まで飲み会とか来たことないからなぁ」


 うちのサークルは、ちょくちょく飲み会がある。もちろん、ハンドルキーパーを決めたり、未成年飲酒は禁止していたりと、ルールを守った上で、主にドライブ先の居酒屋で開いている。

 だからなのかと、その時の私は納得した。お酒を飲める年齢ではなかったけれど、アルコールと一緒に清濁を飲み込んで、心を開いて仲良くなっていくという感覚を、飲み会で抱いていた。


 そういう場所を共有していなから、綾人先輩は浮いているのだろう。実際、綾人先輩のプロフィールは、英輔先輩も詳しく知らなかった。

 私は、綾人先輩を積極的に飲み会に誘った。しかし、色々理由を付けられて、のらりくらりと交わされてしまっていた。


 最大のチャンスは、サークルの一年全員が免許を取得して、初めてハンドルを任されるドライブの日に来た。一台に男女が二人ずつ乗って、本部もとぶ町の海洋博公園に行く予定だった。

 綾人先輩は、自分の車を持っていって、飲み会に行くタイミングで自宅に帰るのだと言っていた。だけど、私たちも飲み会に行かないから、みんなで帰りましょうと嘘をついて、私が運転する車に乗せることに成功した。


 初めて大人数を乗せての運転に加えて、本部町出身という地理の利を活かし、先輩が気付かないように海洋博公園から居酒屋に向かうという密かなミッションも課されていたため、私はありえないくらいに緊張していた。後ろが詰まるくらいの徐行運転だったが、隣の席の綾人先輩はとても優しく、「ゆっくりでいいよ」と言ってくれた。

 そんな先輩を騙しているという罪悪感はあったが、一緒に飲み会を楽しめば、喜んでくれるに違いないという思い込みがあった。「ここが近道なんです」と、裏道を進んでいくことに先輩は何の疑いを持っていなかったが、もう一つの集合場所だった居酒屋が視界に入ってくると、「ん?」と呟いた。


「みなちゃん、帰るんじゃなかったの?」

「すみません、先輩、あの……」

「折角の機会だからさ、みんなで新入生のねぎらいをしようと思ってね、みなちゃん」

「あ、はい」


 後部座席から英輔先輩が顔を出し、ニコニコしながら綾人先輩を宥めた。バックミラーを見ると、陽菜ひな先輩も笑顔で頷いている。綾人先輩は、完全に怒るタイミングを逸して、黙り込んだ。

 駐車場に停めて、車から出ると、綾人先輩は居酒屋のある方向へ行こうとする私たちとは、真逆の方へ歩き出そうとする。英輔先輩は、綾人先輩の腕を掴んでそれを止めた。


「ちょっとちょっと、ここまで来たんだから、諦めろって」

「いいよ。帰る」

「どうやって? バスにしたって、タクシーにしたって、綾人君の家まで結構お金も時間も掛かるでしょ?」

「そうですよ」


 陽菜先輩の言葉を引き継いで、私はここから先輩の住んでいる場所までの大体のバス代を伝えた。しかも、そのバスを何度も乗り換えないといけないし、もう暗くなり始めているから、本数が少なくなっていることも付け加える。

 綾人先輩は、むすっとした顔で黙ったままだった。悩んでいるのかもしれないと思った私は、もう一押しだと話を続ける。


「私、綾人先輩と一度たくさんお話してみたいんです。ちゃんと、先輩の家まで送り届けますから、安心してください」

「ほらぁ、可愛い後輩がこういってんだ。たまには甘えて見せろよ」


 英輔先輩が、そう言いながら綾人先輩に乗りかかるように肩を組む。綾人先輩は嫌そうな顔をしながらも、しょうがなさそうに首を横に振った。


「俺、酒は飲めないからな」

「いいよいいよ。場の雰囲気を一緒に楽しめればそれで」


 英輔先輩が軽い調子でそう言いながら、私と陽菜先輩に目配せする。もちろん私たちも、その一言を力強く頷いて肯定する。

 本人はああ言っていたけれど、サークルのメンバーはみんな、綾人先輩に呑ませたいと思っていた。下戸かもしれないけれど、一杯くらいだったら平気じゃないかと。


 居酒屋内では、私たち以外のサークルメンバーが集合していた。座敷の二つのテーブルを囲んでいる。私たち四人は、端っこの席に、綾人先輩と英輔先輩、私と陽菜先輩とで隣り合うように座った。

 綾人先輩がドリンクメニューを見ようとすると、反対側の席から、幸一部長が首を伸ばしながら、「もう注文しているから」と呼びかけた。「流石部長、準備がいいですね」ともてはやす英輔先輩の隣で、綾人先輩は不安そうに二人の姿を見比べていた。


 綾人先輩の不安は的中した。店員さんが運んできたのは、ビールのジョッキとオレンジジュースのグラスだった。オレンジジュースのグラスは未成年とハンドルキーパーに、二十歳以上のメンバーにはビールジョッキが配られた。

 ゴトンという音を立てておかれたビールジョッキを、綾人先輩は目を大きく見開いて見つめていた。黄金の液体の中を浮かび上がっていく泡とは正反対に、結露した水がゆっくりと流れ落ちていく……それに合わせるかのように、先輩はごくりと生唾を飲んだ。


「……みなちゃん」

「駄目ですよ。私は未成年ですから」


 縋るような綾人先輩の目線から庇うように、私はオレンジジュースのグラスを抱きかかえる。正直、ビールジョッキの方がずっとおいしそうで、そっちが飲みたいと思っていた。


「そう、だよな。ごめん、変なこと言って」


 綾人先輩が苦笑を浮かべたので、私も「いいですよー」と笑顔で返す。この時は、綾人先輩も冗談を言うんだなぁくらいにしか思っていなかった。

 ジョッキとグラスも全員に行き渡ったので、部長が自分のジョッキを掲げた。全員を見回すその恵比須顔を見ていると、私も幸福な気持ちになってくる。


「では、今日一日安全運転してくれた一年生に! はなはな~!」

「はなはな~!」


 宮古島出身の部長に合わせて、ここのサークルでは宮古島の放言で乾杯という意味の「はなはな」という言葉を使う。このはなはなは、乾杯した時のグラスが、上から見るとまるで花のように見えるからそう呼ばれるようになったという。

 私も、先輩たちとグラスをぶつけ合って、テーブルの上に花を咲かせた。みんなが楽しそうに笑い合いながら、グラスやジョッキを仰ぐ。私も、よく冷えたオレンジジュースを口にしようとしたが、綾人先輩の姿が目に付いた。


「綾人先輩? どうしました?」


 青い顔をして、綾人先輩はジョッキを固く握り締めているだけだった。位置が先程と全く動いていないのを見ると、きっと乾杯にも参加していないのだろう。みんながビールを飲んで幸せそうな空間で、そこだけが書き割りのように異様だった。

 私の呼びかけも、聞こえていないような綾人先輩だったが、反応したのは英輔先輩の方だった。おいおいと首を振りながら、仕方なさそうに肩を竦める。


「何だよ、綾人、飲んでいねぇじゃねぇか。ほら! 俺の酒が飲めないのか!」

「やだー、英輔、セクハラ親父みたいー」


 英輔先輩は、ビールを見つめたまま微動だにしない綾人先輩の肩を無理やり組んだ。それを見て、陽菜先輩がケタケタ笑う。私も、陽菜先輩の例えがピッタリ過ぎて、一緒になって笑った。

 それを受けて、調子に乗った英輔先輩は、ますます「セクハラ親父」のように振る舞う。自分のジョッキを、「飲め! 飲め!」と言いながら、綾人先輩の口元に近付けた。


「やめろ!」


 魔法が解けたかのように、綾人先輩は大きな声を挙げて、英輔先輩のジョッキを叩き落とした。ジョッキは割れなかったが、中のビールをぶちまけて、畳の上を転がる。

 このサークルの座敷は、しんと静まり返っていた。一部始終を知らない他のテーブルのメンバーも、何事かと驚いた表情でこちらを見ている。誰も何も言わず、動きもしない中、これまでとは逆に、綾人先輩がゆっくりと自分のジョッキをテーブルに置いて、荷物をまとめ始めた。


「俺、帰るよ」


 淡々と、他人と目を合わせないように俯いたまま、綾人先輩はそう言い切った。そして、零れたビールを拭きに入ってきた店員さんとすれ違うように、座敷から出て行った。

 私は、車もないのにどうやって帰るんだろうと心配になり、綾人先輩を追いかけようとした。しかし、それは陽菜先輩に止められた。


「綾人、ああいってるけど、一人で冷静になったら戻ってくるって」

「そう……ですよね」


 こんな酷いこと、綾人先輩がするはずがない。きっと気の迷いだったんだ。私はそう信じたくて、陽菜先輩の言葉に頷いた。

 しかし、英輔先輩と部長が、零れたビールを拭き終えても、綾人先輩は戻ってこなかった。運ばれてくる料理やお酒をかき分けて、部長が駐車場を見てきたが、綾人先輩はいなくなっていて、連絡も無視されてしまうという。


「何だよ、アイツ。雰囲気ぶち壊しやがって」


 英輔先輩がむすっとした顔で、泡盛をちびちびやりながら呟いた。私も陽菜先輩も、綾人先輩のあの態度には腹を据えかねていたので、そうだそうだと同調する。

 その夜の飲み会は、綾人先輩の悪口で盛り上がって、お開きとなった。


 ……のだが、私にはまだモヤモヤする気持ちがあって、週明けの大学で、この話をした。相手は、同じ工学部の女子たちだ。

 全員、性格や趣味が違くて、高校の同じクラスだったら別グループなんだろうと思える子たちだったけれど、女学生は少ない学部なので、自然と集まることが多い。その日も、私たちは次の授業まで一コマ空いたので、カフェテラスでおしゃべりしていた。


 私が、綾人先輩と飲み会のことを話すと、大体の子が、「そんな態度はありえない」と怒ってくれた。こうやって共感してくれたことに安心して、私も「だよねー」と苦笑する。

 ただ、唯一、デザイン科の侑美ゆみだけが、青い顔をして、首を横に振っていた。


南子みなこ、駄目だよ、綾兄にお酒飲ませちゃ」

「え、どうして?」


 そう言えば、この子の親友は、綾人先輩の妹だったけと思い出す。私がドライブサークルに入ったと言った時、「久留米綾人って先輩いるでしょ?」とニコニコしながら訊かれて、随分驚かされた。

 珍しく否定の言葉を言った侑美だったが、その理由を話すのを躊躇しているようだった。だが、私たちの好奇心いっぱいの瞳に見つめられて、ぼやかしながらも言ってくれた。


「綾兄、子供の頃にお酒に関するトラウマがあるから……」

「ふーん」


 ただ、それだけでは納得は出来ず、投げやりな返事になった。それでも、あの態度はありえないと思う気持ちの方が強かった。

 侑美に、これ以上言及しても教えてくれなさそうだったので、綾人先輩の話題はここで終わった。それでも妙に気になってきて、私は、その日、家に帰ってから、ネットで調べてみることにした。


 最初は、「久留米綾人」という名前で検索してみた。しかし、綾人先輩のSNSや私たちのサークルしかヒットしない。

 少し考えて、「久留米綾人 酒」で調べてみた。お酒の名前や居酒屋名を差し引くと、完全一致ではなかったが、古い新聞の記事がヒットした。その見出しには、「飲酒運転」と書かれている。


 読んでみると、反対車線から乗り越えてきた飲酒運転の車と正面衝突して、飲酒運転のドライバー、ぶつかった方の車の運転席と助手席にいた夫婦が亡くなり、その夫婦の息子が重傷を負ったという。そして、亡くなった夫婦の姓は「久留米」だった。

 息子の名前は書いていなかったが、その年齢と記事の年を計算すると、綾人先輩の年齢と一致する。私は、全身の血の気が引いていくのを感じた。


 あの夜、居酒屋での綾人先輩の態度を思い出す。あんなに怯えたのも、あんなに怒ったのも、飲酒そのものに強い抵抗があった理由も、やっと理解できた。

 と同時に、優しさのつもりだったそれが、先輩をどれほど苦しめたのかも、分かってしまった。






   □






 綾人先輩は、その後も普通にサークルに顔を出し、みんなとドライブをした。しかし、その後の飲み会には来なかった。そして、あれ以降、誰も誘わなかった。

 綾人先輩が、居酒屋での態度を謝ったら、反故ほごにしてやるという雰囲気が、サークル内にはあった。だが、綾人先輩は話題にすらしなかった。それに対して皆怒っていたため、綾人先輩はますますサークルで浮いた存在となった。


 私も、謝らなかった。謝ってしまえば、綾人先輩は「大丈夫だよ、みなちゃんのせいじゃないから」と言ってくれるのかもしれない。その言葉に安心して、あの夜の出来事を忘れてしまうような気がしたからだった。

 綾人先輩には、私のことを恨んでいてほしかった。そうやって、自分の抵抗のやり方は、大袈裟ではなかったのだと思ってくれても構わなかった。


 言い訳を許されるのなら、私たちは若くて、そして、ちょっと想像力が足りなかった。みんなでお酒を飲むのは楽しいことだと思い込んでいて、酒を飲むのがどうしても駄目だという人がいることを、考えもしなかった。

 沖縄県の飲酒運転による事故率は、全国ワースト一位だ。そのことを事実として知っていて、自分たちは気を付けていても、いざ、被害に遭った人に対してどうすればいいのかを、知らなかった。


 あれから十年以上経ち、私も大人になり、仕事もして、結婚もした。

 私の夫はお酒が大好きで、事ある毎に飲み会に参加する。そんな時、今みたいに私が車で迎えに行くのが当たり前になっていた。


 そのことは、別に苦ではない。元々車を運転するのは好きだったし、夫が取り返しのつかない過ちを犯すのを未然に防げているのだから。

 大学卒業後、綾人先輩は育ての親が営業している運送会社のドライバーになったという。トラックと擦れ違うたびに、綾人先輩を探すのも、夫を迎えに行く時の癖になっていた。


 そうやって、今夜も車を走らせる。流星のように通り過ぎていく一台一台が、無事に家に帰れますようにと願いながら。






















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