第140話 はばたきの軌跡


 奥行きのある白一色の空間、時折小さな光が瞬くそこは、まるで色が反転した宇宙のような場所だった。

 どこが上なのか下なのかすら分からないその空間を、ただ流されるがままに漂っていたつややかな黒い箱は、四方についたカメラの一つに眩い光が掠めたことに、はっと「意識」を覚醒させた。


 心許なく揺れているこの箱は、名前を『次元探査機・はばたき』といった。

 その目的は、『はばたき』が作られた次元から、全く別の次元へと渡ることである。


 元いた次元から出発して、一体どれくらいたったのだろうかと、『はばたき』に内蔵されたAIは計算してみる。しかし、八七六九四四五六七一〇三七八九七六四五六〇一一秒過ぎた頃から突然の再起動が発生するようになったので、正確な時間がカウント出来なくなっていた。

 先程も、強制的に人間の「意識」に当たる部分が落とされていたので、『はばたき』は自分の時間が多くないことを冷静に把握する。


 自分の体は他の機械よりもずっと丈夫に作られていることは分かっていたが、それにも限界がある。おかしな話だが、『はばたき』にはすでに覚悟や諦めに近い感情があった。

 だが、この体が機能を停止する前に、この「次元の狭間」と呼ばれる空間を通り抜けて、新たな次元に到達しなければならない。『はばたき』の存在意義は、その事ただ一つだった。


 「次元の潮」と呼ばれる流れのうちの一つに乗ってから今現在まで、四方のカメラで確認するが、まだ目ぼしい変化は見られない。この流れが止まれば、別次元の壁に辿り着いたことになるのだが。

 周囲を隈なく観測してデータ送信を終えた『はばたき』は、またいつものように、過去のデータを思い出リプレイしていた。







   ◇







「――つまり私は、この『はばたき』によって、全人類の夢の一つである、異なる次元の到達を実現しようと思ったのです」


 たくさんのカメラと記者に囲まれて、壇上の博士は熱弁を振るっていた。

 当時四十代と、まだまだ若手だった博士は、「時空間研究業界で歴史を変える可能性を持つ男」として、研究者内外でも有名であった。


 博士は未だ誰も成し遂げていない、「別次元へ到達する探査機」の開発に成功し、その発表記者会見の途中だった。

 難しい専門用語による解説が続き、記者たちは少々げんなりした様子だったが、依然博士の目の輝きは失われていない。


 一先ずの説明が終わり、質疑応答の時間に入った。

 進行役が記者たちに質問を求めると、一斉に手が上がる。その内の一人が選ばれ、マイクを持って立ち上がった。


「別の次元へは、どのようにして入るのでしょうか?」


 質問を聞いた博士は、非常に嫌そうな顔をした。数分前に、同じことを説明していたからだ。

 しかし、その事を口に出さず、改めて机の上にあったマイクを持った。


「簡単に言いますと、この次元から、『次元の狭間』と呼ばれる空間へ出る方法は先人の研究によって確立されています。特殊な音波によって、次元にゆがみを生み出し、その中へ入るのです」

「このゆがみは、私たちの世界に影響を与えないのでしょうか?」


 尚も重ねられる記者の質問に、博士はさらに苦い顔をしたが、改めて答える。


「空間には、開いた穴を自然に塞ごうとする力を持っています。『はばたき』ほどの大きさの穴ならば、影響が現れる前に、あっという間に塞がるでしょう。

 えー、この音波の周波数は、次元ごとに異なるのではないのかという仮説もあります。その事を考慮し、『はばたき』は内蔵されたAIによって周波数を変え、次元が開くまで何度も挑戦します」


 博士が付け加えられた説明に、記者は何度も頷きながら手にしていたタッチパネル式端末にメモを取っていた。

 次の質問者は、真剣な眼差しをしていた。


「もしも『はばたき』が別次元に到達した後に、こちらに帰ってくることは可能なのでしょうか?」


 それを聞いた博士は、少し目を伏せて、ゆっくりと首を横に振った。


「帰ってくることは想定していません。『はばたき』が到達した次元から、こちらの次元への復路があるかどうかは不明ですから」

「では、どのように『はばたき』が別次元に到達したことが我々にも分かるのでしょうか?」

「次元を超えることのできる電波はすでに開発済みです。偉大なる先人たちが作り上げた探査機は、これによって、次元の狭間の写真や映像を、私たちに送ってきました。『はばたき』も同様に、別次元の写真やデータを、こちらに送ることになっています」


 改めて、質問した記者の顔を見据えて、博士は堂々と答えた。

 記者は納得したように頷いたが、もう一度口を開いた。


「それはいつになるのでしょうか?」

「……分かりません。少なくとも、私が生きている間ではないと思います。しかし、受信装置は私の後輩たち、そして後の世の研究者によって守られていくと思っています」


 予想外の長期計画に、記者たちからどよめきが広がった。

 博士はそれを予想していたので、無言でマイクを机の上に置いた。


 これが時間的に最後の質問ですと進行役の声で、再びたくさんの手が上がる。

 選ばれた記者は、博士も思わず目を止めてしまうほど、生き生きとした笑顔で尋ねてきた。


「以前に、『はばたき』の表面には文字が書かれていると聞きました。それは別次元の住民に対するメッセージなのですか?」

「はい。そうです。この世界の、あらゆる言語によって書かれています」


 事前に調べていたこの記者に好感を覚えながら、博士はそう答えた。

 すると、記者は驚いた表情で続ける。


「別次元でも、ここと同じ言語が使われているのですか?」

「ああ、これは希望的観測です。もちろん、我々が全く知らない言葉を使っている、あるいは言語そのものがない可能性もありますが、それは低いでしょう。それに関しては、タツタ博士による『隣の次元の観測』という研究を元にしていますが、長くなるので省略しましょう」

「分かりました。では、改めまして、『はばたき』に刻まれたメッセージとはいったいなんでしょか?」


 記者の言葉に、博士はこの記者会見中で初めて、にっこりと笑った。


「実を言うと、それは『はばたき』には秘密にしておきたいのです。ここに、本人が来ているのですから」

「え!? いるのですかっ!」


 記者がマイクを持ったまま叫んだので、ハウリングが起きてしまった。

 そのひずんだ音と、記者たちのざわめきが止んだ後に、博士は改めてプロジェクターが投影された白い壁を指した。


「改めまして、紹介しましょう。これから長い旅に出る、『はばたき』くんです!」


 今まで、博士に言われてプロジェクターの繋がったPC内に待機していた『はばたき』は、白い壁に自分の言葉を打った。


『初めまして・私の・名前は・はばたき・です』







   ◇







 『はばたき』が、何度もそのデータを思い出すリプレイ《《》》たびに、満足感を抱いた。

 今まで何度も博士と話していたが、ああして人の前に出るのは初めてだったからだ。


 しかし、博士が『はばたき』の体に刻んだという、別次元の住民へのメッセージとは何だろうか。

 様々な憶測を立てたが、内容は全く分からなかった。


 ただ、博士がこのアイディアを思いついた瞬間は、はっきりと記憶している。







   ◇







「僕は酷い研究者だよ」


 その時、珍しく博士は弱気だった。丁度、研究室で『はばたき』と二人きりの時だった。

 その一言に疑問を持った『はばたき』はパソコンの画面上に文字を打った。


『なぜ・ですか・博士の・功績は・後世に・誇れる・ものですよ』


 『はばたき』の本心の言葉にも、博士は力なく首を振るだけだった。


「君を送り出すことしか考えていない。結局君は、偉大な功績を成し遂げたとしても、ここに戻ってきて祝福されることは無いんだ」

『人工知能の・私には・祝福される・喜びが・わかりません』


 自分は戻れずとも、送ってきたデータが後の研究に大いに役立つことは深く理解していた。

 このデータ自体に価値があるものだから、『はばたき』自身はこの体がどうなろうと、関係なく思っていた。


「いや、それでも無責任だよ。覚悟はしていたつもりだけどね、それでもやはり、罪悪感を抱いてしまうというか……」


 博士は椅子の上で項垂れてしまい、彼の気持ちを理解できない『はばたき』は、博士を慰めることも出来ずに黙っていた。

 しばらくそうしていた博士だったが、突然「そうだ」と言って立ち上がった。


「君の体に、文字を入れよう。別次元の人間が、それを読んでくれるように」

『なんと・書くの・ですか?』


 再び、目の輝きを取り戻した博士に、『はばたき』はそう尋ねた。

 すると、博士は子供のような笑顔を、『はばたき』に向けた。


「それは、その時までのお楽しみだ」







   ◇







 博士の刻んだ言葉の候補は、優に一万近く考え出していたが、どれが正解なのかをまだ『はばたき』は知らなかった。

 今回もそれを考えようとしたときに、『はばたき』の体が何かに当たって止まった。


 『はばたき』は、即座に大量の音波を当てる。見えない次元の壁は、びくともしない。

 何パターンの音波を試して試して、試して試して、そうして、壁に、ひびが入った。


 そこから溢れ出る太陽の光を、『はばたき』は久しぶりに浴びた。







   ◇







 春の海は静かで、ゆったりとした波が何度も浜に打ち寄せていた。


 少女は浜辺を歩きながら、青く広がる海を横目に眺めていた。

 陽光は暖かく降り注ぎ、南から吹く風が優しく少女の髪をなぜる。


 ふと、砂浜の前方に、黒い何かが落ちているのを少女は見つけた。

 近寄ってみると、砂に四分の一ほど埋まった、黒い箱だった。


 少女が両手でそれを持ち上げてみると、見た目よりもずっしりとした重さがあった。

 さらに、箱の周りには様々な文字が書かれている。その中から、少女は知っている言葉を見つけて、黙読した。


 『おめでとうと言ってあげてください』


「……おめでとう」


 歓声とは程遠い少女の呟きを、穏やかな春の海とその箱だけが聞いていた。























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