第139話 さいわいなことり・後


 昼間は街で緑茶を買うなどの準備をしていたため、全てが整ったのは、魔女の家を訪ねた翌日の夜だった。


「ピュート、これを来たら、出掛けるぞ」

「う、うん……」


 ピュートは困惑を滲ませながら、私から再会の日に着ていたマントを受け取った。

 魔法のかけられた時の格好をしてくるようにという魔女の言う通りに、彼を着替えさせていた。


「おじいちゃん、どこへ行くの?」

「魔女の所へ、魔法を解いてもらうためだ」

「えっ!」


 マントを着終えたピュートは、驚きのあまり素っ頓狂な声を出した。

 昨日の出来事を、私はピュートに全く伝えていなかったため、この反応も仕方ない。出来るだけ、出発の瞬間までは、ピュートにいつも通りに過ごしてほしいと思っていたからだった。


「実は、昨日の朝、町ではなくて、魔女にピュートを戻してほしいと、相談するために出掛けていたんだ」

「そんな……別に、ぼくは平気なのに……」


 ピュートは、あの泣き止んだ時に言っていた時と、同じ言葉を口にする。

 しかし、もちろん私は、それが彼の強がりだということは分かっていた。


「無理をしないでくれ。私は、ピュートが幸せなら、それでいいのだから」


 私は本心を話しても、まだピュートは納得していないようだった。


「でも、人とインコとは色々違うから、きっとぼくは、おじいちゃんとの思い出を、忘れてしまうと思うよ」


 その一言に、私の決意が大きく揺らぐのを感じた。

 ピュートが元に戻っても、大丈夫だろうと、その実私は楽観的に捉えていた。


 気に入ってくれたサンドイッチの味も、寝る前に読んだ絵本の内容も、ラジオから流れた奇妙な歌に笑い合ったのも、一緒に見上げた空の青色も、すべて忘れてしまう。まるで、私という存在が、根元から崩されていくような苦しみだった。

 それでも、私は、必死に笑みを浮かべて、ピュートの本当の願いのために、首を振る。


「大丈夫だ。私が代わりにすべて、覚えている。そして、インコのピュートも、変わらず愛し続けよう」

「うん……、ありがとう……」


 ピュートは目を赤くしながら、両手を広げて、私に抱きついた。

 私は背を丸めながら、自分の両手で彼の小さな背中を包み込んだ。


 しばらくして、私たちは一緒に外へ出た。私は左手で鳥籠を持ち、ピュートは左手で抹茶の入った手提げ鞄と懐中電灯を持ち、どちらも右手を繋いだまま、歩き始めた。

 久しぶりに直面する夜の闇を恐れて、ピュートの右手には力が入っていった。それを、大丈夫だと言う代わりに、私は彼の手を優しく握り返す。


 昨日の内に木の幹につけていた炭のしるしを元に、私たちは森の奥へと進んでいた。時折、蝙蝠が頭上を飛んでいくが、曇りのない空の上に浮かぶ半月が見守っているようで、不思議と安心感があった。

 家から出発して三時間半後、魔女の家の前まで辿り着いた。早速、ポストの上の風見鶏が、こちらの方へ頭を向け、嘴を動かした。


『おう。思ったよりも、早く来たな』

「ああ」


 私は風見鶏に対して頷く。

 ピュートはびくりとして、私の腕にしがみついてきた。


「魔女を呼んでくれないか?」

『任せろ!』


 怖がるピュートの髪を撫でながら頼むと、風見鶏は家のドアの方に振り返った。


『クニフェーーーーー、また、あの爺さんが来たぞーーーーー』


 近くの木々で休んでいた鳥たちが逃げ出すほどの大声が響いた。また、パタパタと慌ただしい足音がして、ドアが開かれる。

 玄関に立つ魔女の姿を見て、ピュートが息を呑んだ。


 若葉色のストライプのワンピースを着た魔女は、今夜は豆電球の形の頭をしていた。

 どういう仕組みなのか全く見当もつかないが、人の頭よりも大きなそれは、本物のように暖色の光を発している。


「昨日の今日で来るとは思わなかったわ」


 魔女の首が、ピュートの方向へと動かされた。

 どんな表情をしているのか一切分からない彼女に、ピュートは口を一文字に結びながら、会釈をする。


「どうぞ、中へ」


 風見鶏とは正反対の囁き声に誘われて、私たちは手を繋いだまま、家へと入っていった。

 私の家とは雰囲気の異なるそこを、ピュートは物珍しそうに見回している。


「ピュート、それを渡しなさい」

「うん」


 私に促されて、ピュートは鞄の中からこけしの絵が印刷された抹茶の缶を取り出して、魔女に渡した。

 魔女は、嬉しそうに缶を眺めている。時折、電球の光がちかちかと点滅するのは、彼女の瞬きと対応しているのかもしれない。


 魔女は台所の食器棚に、缶を大事そうに閉まった後、棚にこけしと一緒に置かれていた燭台の蝋燭に火を付けた。

 それから、燭台を持ち、キッチンと棚の間にある扉を開けた。中は蝋燭の灯りでぼんやりとしているが、暗くてほとんど何も見えない。


「インコ君だけ、ここへ来て」


 魔女に呼ばれたピュートは、不安そうに私を見上げた。

 私は、しゃがんでピュートの目線を合わせた。


「おじいちゃん、今までとっても楽しかったよ」

「まるで、別れのように言わないでくれ」


 私は、ピュートの両手を握った。胸ではその一言が、鐘のように響いている。

 ピュートよりもずっと、私の方が泣き出したい気持ちだと、その時始めた気が付いた。


「ごめんね。でも、今しか、自分の気持ちは伝えられないから……。おじいちゃん、本当にありがとう」

「私も…………ありがとう」


 ピュートに同意したところで、私は彼の何に感謝しているのかは分からなかった。

 人間になった後で、うちへ戻ってきてくれたことだろうか。人間になりたくなかったことを隠して、私と一緒に暮らしてくれたことだろうか。それとも、私自身が知らなかった感謝の気持ちが、あるのだろうか。


 誰からともなく、私たちは抱き合った。

 最後のハグは、長かったが、ピュートの方から離れていった。


 床に置いてあった、鳥籠を持って、ピュートは魔女が立つ扉の前へ向かう。そのまま、部屋に入る。

 魔女が扉を閉め切る直前、ピュートが振り返って手を振った。泣き出しそうな顔ながらも、口元には笑みが浮かべていた。


 閉め切られた部屋の中では、ごうごうと風の吹く音が聞こえて、扉の隙間から、白や赤の強い光が漏れ出していた。

 私は茫然と立ったまま、その様子を眺めていた。まるで、目の前の出来事と自分とが切り離されてしまっているようだった。


 時間にしたら、五分も満たなかっただろう、部屋が静かになった後、がちゃりと扉が開いた。


「……お待たせ」


 くたびれた様子で、魔女が言った。

 彼女の持つ鳥籠の中には、水色のセキセイインコに戻ったピュートが、止まり木と格子の間を絶えず移動していた。小さな嘴から、美しい歌声が漏れる。


「ありがとう」


 私は震える手で、ピュートのいる鳥籠を受け取った。そのまま踵を返して、ふらつく足取りで、歩き始めた。家を出て、森の中へと向かう。

 別れの挨拶は無かったが、風のない中で風見鶏が一人で動く音がした。こちらの方を見ているのだろう。


 服はどうしようか、売ることは出来るだろうか。ベッドは買う前で良かった。この状況とは関係なく、あの絵は完成させなければならないだろう。

 そんな日常のことを考えながら、黙々と歩を進めた。ピュートは絶えず囀って、その唄を、私の耳は聴くとはなしに聞いている。


 ふと、頭上が明るくなった気がして、私は足を止めた。

 左手を見ると、以前にピュートと訪ねた広場だった。昨日と、行く時には気付かなかった。


「……オジイチャン」


 突然、ピュートが歌うのを止めて、そう言ったのが聞こえた。

 私は驚いて、籠を抱えて、その中のピュートを見る。


「オジイチャン、オジイチャン」


 以前は覚えられなかったその言葉を、黒い瞳で私を見詰めながら、ピュートは何度も繰り返していた。


「そうか、覚えていて、くれたんだな」


 視界が段々と滲んでいく中で、私はそう呟いた。

 白い月光を浴びて、羽を青く輝かせながら、ピュートは嬉しそうに、歌うように「オジイチャン」と言ってくれた。



















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