第133話 悪への手向け
「明日葉さん、今日が最後なんですよね?」
隣のロッカーから、夏木君からそう尋ねられた時、ぼんやりとしていた俺は、はっとして「ああ、うん」と答えた。
「あと半日が経てば、スーツアクターじゃなくなるんだよな。実感が全然ないよ」
背中のチャックを閉めながら、苦笑を漏らす。着慣れた戦闘員のスーツも、これで終わりだと思うと、ちょっと感慨深い。
「十年、なんですよね、すごいですよ」
「無駄に足掻いてきただけさ」
しみじみとした夏木君の声に対して、爽やかに返すことが出来た。アクション俳優になってから、十年。長くも、あっという間だった。
横目で、夏木君を見る。彼が着ているのは、グリーンのスーツだ。現役世代の年齢が高めのこの業界で、五年目の立ち位置としては、文句が無いだろう。
結局、ヒーローのスーツは、一度も着れなかった。怪人も、数回しか演じたことがない。お鉢が回ってくるのは、いつも戦闘員だ。
このままではまずいと、焦っている内は、まだ良かった。事務所の後輩に抜かされても、嫉妬心が起こらなかった時、自分の中の情熱が消えたのだと、悟った。
「……これから、どうするのですか?」
手袋を嵌めながら、夏木君が、声を潜めてそう尋ねる。
「専門学校行って、介護職を目指すよ。鍛えた体を、活かせそうだからさ」
「この業界には、残らないのですね」
夏木君の確認の言葉が、胸をえぐる。当の本人は、そんな残酷なことを言ったことなど気付かないような、真っ直ぐな瞳をしていた。俺も、こんな目をしていたのだろうか。
「無理だよ。キャリアも中途半端だし、指導者にはなれない」
大げさなくらいに肩を竦めた。未だに納得のいっていない様子の彼の肩を叩く。
「これからは、お前がどこまで行けるのかが楽しみだからさ、テレビの前で、応援してるぞ」
「はい。ありがとうございます」
俺の強がりに、夏木君は頭を下げる。そのまま、戦闘員用のヘルメットを手にして、更衣室を出た。
□
今日の撮影の、ラストシーンは廃工場での戦闘だった。入り口から入ってきたレンジャーたちを見て、怪人が身振り手振りで何か言う。そして、両手を大きく広げた合図で、ドラム缶や段ボール箱の後ろから、俺たち戦闘員が出てくる。
間髪入れずに、大人数の戦闘となる。俺の待機場所は入り口よりも後ろ側だったので、戦うのは後半だ。
声やSEは後から付けるので、ここでの戦闘は、驚くほど静かだ。パンチやキックも当てるふりだけなので、足音や、ふっとばされて倒れる音だけが響く。
俺は、グリーンにやられる予定だったので、夏木君の様子をしっかり見ていた。彼の立ち回りは、キレがある。カメラに映っていようがいまいが、一切手を抜かないところに、好感を持っていた。
いよいよ、俺がグリーンの前に出る。これが最後の仕事。そう思ったのは、一歩足を踏み出した時だけで、その後は、目の前のことだけに集中していた。
グリーンが、右側の敵を蹴り飛ばした隙に、俺が死角から襲い掛かってくる。しかし、グリーンは振り返りながら、俺の正面突きを受け止めて、カウンターを食らわせて倒す。その手順だった。
しかし、グリーンは、いや、夏木君は、俺のパンチが顔に当たったように、一瞬そむけた。「え?」と戸惑っている間に、彼のカウンターが伸び、咄嗟にぶつかったふりをして後ろに倒れた。
仰向けになったまま、今の瞬間を思い返す。戦闘員をしていて、ヒーローにパンチが当たったのは、これが最初で最後だった。
□
「あ、明日葉さん、お疲れ様です」
「うん。お疲れ」
着替え終わったタイミングで、夏木君が更衣室に入ってきた。隣のロッカーを開けた彼に、「ちょっといいか?」と話しかける。
「なんであの時、俺のパンチを受けたんだ?」
「あ、あれは、僕からの明日葉さんへの手向けみたいなものです」
脱いだヘルメットを抱えて、夏木君ははにかみながらそう言った。だが、俺には納得できない部分もある。
「なんで、そんなことを」
「明日葉さんは、どんなに現場が長くなっても、文句も言わず、一生懸命で、俺、明日葉さんみたいになりたいと思っていたんです。だから、明日葉さんは、俺の憧れで、俺だけのヒーローなんです」
「……戦闘員に対して、ヒーローなんて、滅茶苦茶だよ」
照れを誤魔化して、豪快に笑ってやった。夏木君も、言ってしまった後で、赤面しながらブーツを脱いでいる。
「気持ちは嬉しいけどな、雑魚戦闘員にグリーンがやられちゃ、ちびっ子びっくりするだろ。残念だが、カットされるだろうな」
「そこは、監督に言いましたよ。アドリブ入れてすみません、でも、明日葉さんはこれがラストなので、出来れば使ってくださいって。監督も、明日葉さんのことだから、上に掛け合ってみるって言ってました」
「お前は、ほんと余計なことをするな」
苦笑しているのに、鼻の奥がつんとした。
才能が無かった。努力が足りなかった。そんな言い訳は、いくらでもあるけれど、俺が真摯に戦っていたことは、周りに伝わっていた。それだけで、この十年が報われる気がした。
「ありがとな」
ここまで来て、寂しさを滲み出している夏木君に、涙を堪えながら礼を言うだけで、精一杯だった。
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