第131話 見知らぬ指輪・前編
その指輪は、白い箱の中のクッションに収まっていた。
色は銀で、幅は細く、緩やかな捻じれのような形の溝が彫られている。その溝と溝の間、指輪の中心には、細い幅よりもさらに小さな紫の石が嵌め込まれていた。
目の前のソファーに座る依頼人の若い女性に許可を得て、指輪を手に取る。私の指よりもやや小さい。
内側を覗き込むと、「Iより」とだけ刻まれていた。贈られた側の名前や日付がないのは珍しい。
「これが、母の遺したチェストの一番奥から出てきました」
今回の依頼人――ウェリア・ジーギストさんが、静かにそう告げた。
彼女の母親であるモニア・ジーギストは、九ヶ月前に病気で亡くなった。享年五十三歳だったという。
ウェリアさんは、母がこの指輪をしている所を見たことがなかった。自分が覚えていないほど小さな頃はしていたのかもしれないと、アルバムを開いて、そこに写っている母の姿に目を通しても見つからなかった。
モニアさんは、ウェリアさんが物心つく前に離婚していた。しかし、その元夫のファーストネームは「I」から始まらないので、婚約指輪ではない。
「この指輪の送り主を、探してほしいのですね?」
私は、最初に依頼した内容を、改めて確認した。こちらを真っ直ぐに見据えるウェリアさんは、無言で力強く頷く。
私立探偵をしていると、私が女性だからと下に見られることは少なくない。しかし、同性であることを差し引いても、ウェリアさんは私に対して全幅の信頼を寄せていることは肌で感じていた。
よって、こちらも真摯に応じなければならない。依頼を受けるか受けないか、それを達成できるかどうかよりも以前に、私はウェリアさんに確認することがあった。
「この依頼によって、あなたの母の秘密を、暴くことになります」
「それは、母が結婚している時に浮気をしていたとか、そういうことですか?」
「その可能性はあります。しかし、それよりももっと、受け入れらない真実が浮かび上がるのかもしれません」
「……」
初めて、ウェリアさんの瞳に逡巡の色が浮かんだ。
だが私は、容赦せず、彼女に対して問い質す。
「それでも、母の秘密を知る覚悟はありますか?」
「……正直に言いますと、覚悟はまだできていないと思います」
ウェリアさんは、視線を箱の中に戻した指輪に注ぎながら、毛糸を丁寧に編み込むように言った。確かにその声にも、不安からくる揺れが現れている。
「でも、私は、母を愛した人に会いたいんです。そして、母の亡くなったことを、直接伝えたいです」
「それは、どうしてですか?」
「……母が入院中、足しげくお見舞いに行っていたのは、私を含めた親族くらいでした。だから、遺品からこの指輪を見つけた時、とても嬉しかったんです。母にも、大切な愛の思い出があったのだと。そして、この指輪を送ってくれた人に、母のことを教えてあげなければならないという、使命感にかられました」
最後にそう告げて、ウェリアさんは私を真正面から見据えた。わずかに波打つ湖畔のような瞳をしていた。
「分かりました。依頼を受けましょう」
「アレクサンドロスさん、ありがとうございます」
彼女は泣き出しそうな顔のまま、微笑みかけた。
◐
指輪を鑑定してもらったところ、とあるブランドが三十六年前に出したものだということが分かった。
嵌められているのはヴァイオレットモルガナイトという希少な種類の宝石で、それが指輪の値段を吊り上げているらしい。当時の価格で算出すると、自動車が一台買えるほどのものだった。
ウェリアさんの母・モニアさんはこの指輪が作られた当時、十七歳だった。その年に高校を卒業したモニアさんは、ファッションデザイナーになるため、故郷の小さな村から上京した。その夢は叶えられず、都市で小さな洋服屋を、病気になる直前まで営んでいた。
この上京する際に、指輪が贈られたのではないかと、私は睨んだ。モニアさんと故郷の関りについて、娘からどう見えていたのかを確認する。
「母が帰郷するのは、親族に何かあった時だけでした。ただ、故郷を嫌っていたのではなく、単純に、お店をやっていたから、帰るタイミングが掴めなかったのだと思います」
電車とバスを乗り継ぎ半日をかけて、私はモニアさんの故郷の村へ辿り着いた。確かに、これほど距離があったら、中々帰りにくいのも頷ける。
村は、とても小さかった。外縁を一周しようとしたら、一時間も掛からないだろう。主に農業で立てているため、観光には力を入れておらず、よそのもの私は、好奇な目にさらされた。
しばらくこの村に滞在するため、唯一の宿屋にチェックインする。二十代後半くらいの青年が営む、三階建ての宿だ。
その主人だけが、私のことを普通に扱っていたので、彼も村の外出身じゃないかと思った。もちろん勘であり、確かめようがないのだが。
この村には、モニアさんの姉・アルンさんが住んでいる。ウェリアさんが連絡を取ってもらい、彼女から話を聞く予定になっていた。
宿の外に設置されたテーブルに座り、彼女を待つ。軒先に下がった、おひつじ座の絵が描かれた看板が揺れるのを眺めていると、宿の中から金髪の少年が出てきた。彼はじょうろを持っていて、足元の植木鉢に水を上げている。
しばらくして、宿の中から今度は銀髪を三つ編みにした少女が現れ、私のいるテーブルに「お待たせしました」とコーヒーを置いてくれた。戻る前に、少年の方に声を掛けて、一言二言話していた。
こういうのんびりした光景は、微笑ましく思う。都会だと、従業員同士の親しい会話なんて、滅多に見れないだろう。
「すみません。アレクサンドロスさんですか?」
コーヒーに口をつけたタイミングで、不意に話しかけられた。
横を見ると、五十代の女性が大きな紙袋を持って立っている。ウェリアさん、写真で見たモニアさんと似ていることから、間違いなくアルンさんだろう。私はすぐに立ち上がった。
「はい。わざわざありがとうございます。こちらへどうぞ」
「ええ。失礼します」
私の隣の椅子に勧めてから、それぞれ座った。
水やりが終わって宿に戻る前の少年を呼び、アルンさんの分のホットコーヒーを注文した。多少硬くなっている少年の頬には、横向きの傷があった。
アルンさんには、ウェリアさんの本当の依頼内容を話していなかった。実の姉とはいえ、ずっと隠されていた妹の指輪の話をするのは忍びないためだった。ウェリアさんからの依頼で、モニアさんの足跡を調べているのだと、事前に伝えている。
その為、アルンさんは善意から私の調査に協力してくれる。彼女が嬉しそうに、紙袋から古いアルバムをいくつも出しているのを見ると、良心が痛んでしまう。
開いたアルバムの最初のページの一枚を、アルンさんは指差した。白黒写真の中では、どこかの病室のベッドで、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた女性とその隣に幼い女の子が座っていて、二人ともカメラに笑い掛けている。女性が母親で女の子は自分、そして赤ん坊がモニアさんだと、アルンさんが教えてくれた。
そこから少しずつ、モニアさんが成長していく様子を、写真を通して見て行った。会ったことのない、歴史上の偉人ではない人物の半生を眺めているのは、妙な感覚がした。
「モニアさんは、どんな子供でしたか?」
「おとなしくて、絵と裁縫が好きでした。でも、人付き合いはいい方でしたよ」
「あまり故郷には帰らなかったのは、どうしてですか?」
「きっと、すぐに離婚してしまったので、少々後ろめたかったのでしょうね。田舎では、そういう噂がすぐに広まりますから」
「なるほど、そうでしたか」
モニアさんが故郷に帰らなかった理由の予想が、ウェリアさんとアルンさんとで異なっている。恐らく、二人とも本当の理由を知らなかったのだろう。
そんなことを考えながら、写真を一枚一枚見ていく。しばらくして、モニアさんが高校生くらいの写真になったので、より集中する。
高校生のモニアさんの写真には、友達や家族が写っているものが中心だった。アルンさんが教えてくれた人物の中に、モニアさんの恋人だと言われた人物は出てこない。
もちろん、あの指輪が友達からの贈り物である可能性もあるのだが、その友達の中にも「I」から始まる人物は出てこない。焦燥感を抱きながら見ているモニアさんが自室の机に座っている一枚の中に、ちょっと引っかかるものがあった。
「これ、ライラックですよね?」
「ええ。季節になると、いつも飾っていました」
机の上の花瓶に、紫のライラックが入っているのを指さすと、アルンさんはなんでもないように答えた。
気にかかったのは、指輪に嵌められたヴァイオレットモルガナイトの色とこのライラックの色が似ていることと、ウェリアさんから見せてもらったモニアさんの店の写真にも、紫のライラックが飾られていたのを思い出したからだった。
「ライラックがお好きだったんですね」
「そうですね。ああ、でも、飾るようになったのは、高校生になってからでした」
「花屋で買っていたのでしょうか?」
「いえ、生えているを持ってきてました。でも、どこに自生しているのか聞いても、いつも、内緒だとはぐらかされてしまいましたね」
ここで初めて、姉も知らないモニアさんの秘密が飛び出した。これが、指輪とは無関係ではないのだと、探偵の勘が告げている。
とはいえ、それ以上のことは写真やアルンさんの話からは分からなかった。高校生の時のモニアさんの写真が無くなってしまったので、今度は卒業アルバムを開く。
「村の中には高校が無いので、隣の町の高校に通っていました」
「ああ、だから人の数が多いのですね」
これまで見てきたアルバムよりも、ぐんと登場人物が増えたのは、町や他の村の生徒を含めている為だった。この中に、アルンさんが知らないモニアさんの恋人がいても可笑しくない。
しかし私は、指輪の贈り主はこの村の中にいるのではないかと、予想していた。あまりモニアさんが村に帰りたがらなかったのは、村の中に残っている指輪の贈り主と顔を合わせたくなかった、という理由もあるではないだろうか。
「この中に、現在も村で住んでいる方はいますか?」
「ええ。数人ほどですが」
卒業生一人ずつの顔写真が並んでいるページで、私がそう尋ねると、アルンさんは穏やかに頷いた。それから、村に住んでいる人を指差して教えてくれた。
「あと、この方も」と、アルンさんの爪の先にいた人物の名前を見て、私ははっとした。「イヴァ・シャニライズ」……アルンさんが語る、村で住んでいる人の中で唯一、「I」がつく名前の人物だった。
「すみませんが、彼らの住所などを教えてもらえませんか? モニアさんのお話を聞いてみたいので」
「構いませんよ」
アルンさんが話してくれた、その人たちの住所をメモしていく。そして、「イヴァ・シャニライズ」の番になった。
……高鳴る胸の鼓動を抑えて、努めて平穏に、アルンさんの顔を見上げながら尋ねる。
「シャニライズさんは、どのような方なんですか? モニアさんとの関係は?」
「一年生の頃、同じクラスだったみたいですけれど、それ以外はあまり関りがありませんでしたね。住む世界が違いましたから」
「どういうことですか?」
「シャニライズさんはこの村一番のお金持ちなんです。家もすごく立派なお屋敷で」
「今現在も、その屋敷に?」
「はい。シャニライズさんが相続しました。とはいっても、未婚のままなんですが」
ちょっと困ったように、アルンさんは笑った。その反応は少々引っかかるが、このような田舎の村では、未婚の五十代というのはそんな扱いなのだろう。
ともかく、「イヴァ・シャニライズ」の住所を手にすることが出来た。アルンさんとの話が一段落したら、この屋敷に行ってみることに決めた。
◐
村のはずれの方、野山にほど近い位置に、シャニライズ家のお屋敷があった。遠目から見ても大きいと思ったそこは、目の前で見ると圧倒されてしまう。
壁は薄い黄色の石造りで、グレーの屋根が覆いかぶさっている。玄関側の窓を数えると、少なくとも三十六部屋あるらしい。黒い柵で出来た、三メートルほどある門の中には、芝生が青くて広々とした庭があった。
これほどの屋敷だと、維持するのは大変そうだと、庶民感覚で素直に思う。とはいえ、シャニライズ家は少しずつ傾いており、使用人の数は全盛期よりもずっと減っていると聞いた。
他の村人の話によると、シャニライズ家は土地の貸し借りで財産を築いた、貴族出身ではない成り上がりの家らしい。貧しい人の困窮を汲んで、お金を貸してくれたり、返済日を伸ばしてくれたりしてくれたため、村人との仲は円満だったという。
屋敷には、駐車場もあったが、車が一台も停まっていない。どうやら、イヴァさんは外出中のようだ。
庭の方に眼を移す。イヴァさんはガーデニングが趣味なのか、手入れされた花壇がある。
その中に、ライラックの木が一本、満開の紫色の花を咲かせているのを見つけて、はっとした。
ヴァイオレットモルガナイトが嵌められた指輪、高校生以降のモニアさんのすぐそばにあった紫色のライラック、そして、シャニライズ家の庭のライラック……すべてが、一つの線で結ばれた瞬間だった。
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