第130話 捨て猫


 雨がしとしとと降っている日だった。天気予報では、今日から梅雨入りだと言われていて、これからしばらく雨だなんて、嫌だねーと、友達と話したのを覚えている。

 小学四年生だった私は、青い傘を差して、家路の途中の住宅街を一人で歩いていた。じっとり湿った運動靴で、コンクリートの塀を一つ曲がったところで、それに出くわした。


「にゃー」


 電柱のすぐ下に、開いたままの段ボール箱が置かれていて、その中から、か細い声がする。走り寄ってみると、ミルクのように真っ白な、子猫が蹲っていた。

 子猫は、体全体が濡れていて、ぶるぶる震えている。きっと、長い間ここにいたのだろう。私は可哀そうに思い、よしよしと頭を撫でてあげた。


「みゃう」


 嬉しそうに、猫が私の手に甘えてくる。まだ元気が残っているみたいで、ほっとした。

 でも、どうしようと、私は思う。うちは、両親とも動物嫌いで、ペットを飼ったことがない。そう言っても、こんなところにずっと置いているわけにもいかない。


「拾うつもりなのか?」


 その時、後ろから声を掛けられた。

 はっと振り返ると、金髪に眼付きの鋭い、高校生くらいのお兄さんが立っていた。サファイアのように蒼くて綺麗な瞳を、私は瞬きしながら見つめ返すだけで、何とか答えたらいいのか分からなかった。


「気を付けろよ。そいつは優しさを喰う」


 お兄さんは、険しい顔で、はっきりと言い切った。

 どういう意味だろうと考える直前に、お兄さんに対する違和感の正体に気付いた。このお兄さんは、傘を差していないのに、一切濡れていなかったのだ。


 「あの」と声に出そうとすると、私を呼ぶように、また子猫が「にゃあ」と鳴いた。

 目線を戻すと、子猫は金色の瞳でこちらを見上げている。あれと思ったのは、その猫の体が、ちょっとだけ大きくなっているように見えたから。


 その原因を、お兄さんなら知っているかもしれないとまた振り返ったが、お兄さんの姿はなかった。立ち去る足音も聞こえていなかったのに、周囲を見回しても、人影すら見えない。

 きょろきょろしている私を急かすかのように、子猫が「にゃあ、にゃあ」と鳴いていた。






   □






 結局、私は子猫を連れて帰った。自分の部屋で、こっそり飼おうと決意して。

 子猫の入った段ボールごと、両親が仕事中で誰もいない家の、自室に持ち込んだ。机の下に、その段ボールを隠すように置く。


 朝と夜、こっそりキッチンから盗んだ食パンとミルクを与えた。子猫は、それらを美味しそうに食べたり飲んだりしていた。

 子猫は、とても甘えん坊だった。私が、学校から帰ってきて自室に入ると、すぐに机の下から出てきて、ごろごろと喉を鳴らしながら、膝に身を擦ってくる。勉強中も、夜寝る直前も、朝起きる時も、いつでも私に寄ってきた。


 私も、そんな子猫のことをたくさん構ってあげた。正直、ゲームしている時とかは、ちょっと邪魔だなぁと思うこともあったけれど、うるうるとした金色の瞳で見つめられると、しょうがないなぁとなでなでしてしまう。

 子猫の毛は、いつも柔らかかった。拾った時から、ずっと雨の日が続いていたのに、お日様に当たった蒲団のように、ふんわりとした毛並みで、いつもちょっとだけ逆立っていた。私が撫でても、すぐに立ち上がってしまう。


 私は、ご飯をあげたり、遊んであげたり、トイレの世話したりして、甲斐甲斐しく世話をした。友達とも遊ばなくなったくらいだ。

 だけど、この子猫の存在は、誰にも気付かれていなかった。服に毛が付いているはずなのに、声も漏れていて可笑しくないのに、母が部屋を掃除しに来ているのに、家族は怪しんでいる様子もない。


 だが、そんなことよりも、重大な問題が現れた。猫が、どんどん大きくなっていくのだ。

 最初は、猫ってこんなに早く成長するんだなぁと、ペットに飼ったことのないので、そう思っていた。そんな私でも、拾って一週間後には、大人の猫くらいの大きさになった時にはさすがに変だと気付いた。


 すぐに、段ボールや机の下には収まらなくなり、机自体や私の身長も追い越し、猫は、この部屋の天井に耳が届くほどまで、大きくなっていた。

 外から見えないように、カーテンを閉めた窓の前、この猫を見上げたまま、私は唖然としていた。長い梅雨は明けきらず、今日もしとしと雨を降らす。


「にゃー、にゃー」


 猫の声だけは、見つけた時と同じように、幼いままだった。私に甘えているのだということが分かり、胸が痛くなる。

 あの日、お兄さんが言っていた、「優しさを喰う」という言葉を思い出す。その意味を、私は気付いていた。


 ミルクのように美しい、猫の毛に顔を埋める。視界は真っ暗になったが、怖くはなかった。お日様の匂いを、胸いっぱいに吸い込む。


「ごめんね……」


 私がそう呟くと、猫は泣くのをぴたりとやめた。私の言葉を聞こうとしている、そう思ったので、そのままの状態で続ける。


「あなたが、優しさを食べているというのは、なんとなく分かっていた。でも、中途半端に優しくして、ずっとこんな毎日を過ごしたいと思ってた」


 楽しかった、これまでの日々を思い出す。雨続きの毎日でも、この部屋が明るく、温かいのは、この子がいてくれたからだった。


「でも、もうそれも叶わないんだね。ごめんね……」


 零れた涙は、すぐに猫の毛に吸い込まれて消えていった。

 直後、窓が開く音がした。涼しい風が一陣、部屋に入ってきて、カーテンが揺れる。


 顔を上げると、猫はいなくなっていた。

 眩しい光が溢れる窓の外では青空が広がり、大きな虹のアーチが架かっていた。




























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