第129話 恋よりも恋に近しい
土曜日の昼下がり。昨晩の宴会が嘘みたいに、実家のリビングは静かだ。網戸越しに、湿った空気が入ってきて、レースのカーテンをのっそり揺らす。
ソファーに仰向けになって寝転んで、子供の頃に集めた漫画を読んでいた。自分の部屋にいても良いけれど、結構埃臭くなってしまっているので、こっちに来ている。
その時、二階から、ゴロンと何かが落ちたような音がした。びっくりして、顔を天井に向ける。音は、綾兄の部屋からだった。
慌てて二階に上がり、綾兄の部屋を開けると、思った通り、彼はベッドのすぐ下で、痛そうに背中を抑えて悶えていた。
「……綾兄、またベッドから落ちたの?」
「うぐぅ……初江か……。お前が結婚前にこんな姿、情けねぇ」
「ほら、手、貸して」
申し訳なさそうにしている綾兄の手を握り、引っ張って起こす。立ち上がった綾兄は、寝癖で髪の毛が直立している頭を振った。
私がこの部屋を出ると、綾兄も後についていく。もう午後になっているから、流石にご飯を食べるつもりらしい。
「もう大人になってるのに、ベッドから落ちるなんて。隼兄が聞いたら、笑いが止まらなくなるだろうね」
「頼む、このことは内緒にしていてくれ」
「冷凍庫のハーゲンダッツ、食べていい?」
「……いいよ」
一階に降りると、私はリビングの元いたソファーに、綾兄は隣のキッチンへ入った。あちこちを開け閉めして、食パンの袋やバターやりんごジャムを用意して、ダイニングテーブルに運ぶ。
うちで唯一の、朝はパン派の綾兄のために、食パンは買い置きされている。社会人になってから、綾兄は朝のパンにこだわっていて、高級なジャムやふわふわなトーストにする便利グッズを買ってきたりしている。
「そういや、今日は午前から出かけるんじゃなかったか? ほら、ゆーみーと」
食パンにバターをベッタベタに塗りながら、綾兄が尋ねてきた。私は、一度読み通した漫画本をパラパラ捲りつつ、その質問に答える。
「そのつもりだったんだけどね、ゆーみーの子供が熱出しちゃって、キャンセルになっちゃった」
「はー、大変だな」
「うん。でも、病院行って、もう落ち着いているってよ」
地元にいる私の親友も、子供のいるママなんだなぁという実感を込めて話す。ちなみに、隼兄は、奥さんと子供を連れて昨晩の内に帰り、私の夫になる和也は、友人がプロレスの試合に出るというので、それを応援しに帰っていた。両親は、運送会社を経営しているので、朝早くからいない。
つまり、今日は休みだった綾兄と、大分久しぶりな二人きりの時間だ。今更緊張することはなくても、ちょっとこそばゆい。しかし、綾兄自身はあまり気にしていないようで、キッチンのトースターをいじっている。
「いよいよ、お前も結婚かぁ」
「そうだねぇ。目が回るほど大変だから、しんみりしている暇はないけどね」
昨日は、親戚たちへの結婚の挨拶、今夜も、地元の友達とちょっとしたパーティーを開く予定だ。この後も、式の打ち合わせとか、新居探しなどが待ち構えている。
しかし、もっと忙しくなるのはこれからだということを、隼兄の奥さんの響子さんに言われていたことを思い出す。ただ、結婚生活や子供を持った未来の自分を、まだ思い描くことは難しい。
「とは言え、大分時間がかかったな」
「そうだねー」
「お前らが付き合って……十年? もっと経つか?」
「十二年だよ」
「就職したら、すっと結婚するもんだと思っていたから、意外だったな」
「いやー、そうしたくても、現実は甘くないよ。お金のこととかさ」
「そっか。そうだよな」
甲子園出場を果たした野球部のエースピッチャーだった和也と、同級生で野球部マネージャーだった私が付き合いだしたのは、高校二年の時だった。自分で言うのもなんだが、学校内で一番目立つカップルだったので、あれこれ言われることもあったけれど、それらがどうでも良くなるくらい、私たちは深く愛し合っていた。
でも、結婚するまでに時間がかかったのは、お金のこともあるけれど、他にもある。その原因は、綾兄自身だった。
私と隼兄は、綾兄と本当の兄弟ではない。綾兄は、父方の伯父の子供なので、正確には従兄弟だ。さらに言うと、綾兄は伯父の再婚相手の連れ子なので、私たちとは血の繋がりもない。
綾兄が八歳のある夜、家族三人が車で移動中、飲酒運転の車が反対車線を乗り越えてきて、彼らの車と正面衝突した。後部座席の綾兄は無事だったが、運転席の伯父さんと助手席の伯母さんは、帰らぬ人となってしまった。
事故の一報を受けて、私たち家族は綾兄が入院している病院へ駆けつけた。彼自身の怪我は軽かったのだが、心の傷は深く、誰とも会いたがろうとしなかった。そのため、私たちが彼と対面したのは、事故から数日後だった。
青白い顔で、綾兄はベッドの上に座っていた。みんなが声を掛けても、返答がなく、反応も薄い。ドキュメンタリーで見た、人に捨てられてしまった犬を思い出した。自分を心配している人に対しても、唸ってしまう犬のように、綾兄は世界の全てに怯えていた。
彼がこの状態でも、いずれ退院の日は来てしまう。その前に、誰が綾兄を引き取るのか? あとから聞いた話だけど、それを議題にした親戚の会議は、とても長かったらしい。
結果、経済的な余裕があること、両親の会社が自宅の隣にあるので、何かあってもすぐに駆け付けられること、綾兄の一つ年上で、一番仲のいい隼兄がいることを鑑みて、私たち家族が綾兄を引き取った。
だが、綾兄の心はすぐに回復しなかった。私たち家族と雑談できるまで二年、外に出掛けるようになるまで四年、学校に通えるようになるまで五年かかった。
大きな口を開けて笑う綾兄を久しぶりに見た時は、本当に嬉しかったなと、トーストにりんごジャムを塗りたくる彼を見ながら思う。何も知らない人が見たら、綾兄の壮絶な過去は想像もつかないだろう。
だけど、これは表面上の話で、綾兄の心の傷は、完全に消え去ったわけではない。お酒を一滴を飲まないのも、ドライバーへのアルコールチェックのアウトラインが通常のよりも厳しいのも、あの事故の影響だろう。事情を知らないドライバーからは、その厳しさが煙たがられていると、父がかつて零していた。
ベッドからよく落ちてしまうのも、悪夢を見て、魘されているからかもしれないと、密かに心配している。それに関しては、綾兄が何も言わないから、私もわざと茶化している節もある。
そういう綾兄の事情もあってか、うちは一般的な家族よりも仲が良いと思う。隼兄が家庭を持ち、私も実家から車で1時間半ほどかかる場所に住んでいても、年中行事は必ず集まる。加えて、誰かの誕生日も集合するので、周囲からは不思議がられる。
特に綾兄は、ここまで育ててもらった恩を感じているので、何よりも家族を優先している。家を出た隼兄の代わりに、うちの会社を継ぐと決めたくらいだ。「もっと、自分のやりたいことをやってもいいのに」と、母が溜息交じりに呟いていた。
話を戻すと、そんな我が家の特異点である綾兄の存在が、私の婚約者である和也の最大の懸念点でもあった。束縛をせず、男友達と会うことも許してくれる和也が、綾兄の話題を出すだけで、むすりとしてしまう。
和也は薄々気づいているのだろう。私と綾兄が、一緒に育った兄妹のような関係……とは言い切れないことを。
とはいえ、私が綾兄に向けている感情は、恋愛でいう所の「好き」とも違う。恋ではない。でも、恋に限りなく近い、親愛の感情……上手く言葉に出来ずに、胸がざわざわする。
そんなことをごちゃごちゃ考えている私をよそに、ダイニングテーブルの綾兄は、椅子から立ち上がり、冷蔵庫を開ける。こんなに甘いトーストを食べているのに、カフェオレを飲むつもりらしい。あまりに暢気すぎて、ちょっとムカついたので、綾兄に禁忌ともいえる質問をぶつけてみる。
「ねえ、綾兄」
「ん?」
「私のこと、好きだった?」
「ぶふっ」
驚きすぎて、綾兄はパックから直接飲んでいたカフェオレを噴き出した。口元から、茶色い液体を垂らしながら、私のことを凝視する。
「いきなり、何を言い出すんだ、お前は」
「別にー。結婚する前に、確かめたかっただけ」
口を尖らせながら言うと、溜息を吐きながら綾兄は首を横に振った。
特に返答は求めていなかったけれど、綾兄は口元をティッシュで拭い、雑巾を引っ張り出して、床に飛び散ったカフェオレを拭きつつ、話し出した。
「初江、あの漫画、知ってるか?」
綾兄が唐突に名前を挙げたのは、私たちが十代の頃、流行した少年漫画だった。確か、普通の男子高校生だった主人公が、不思議な少女から超能力を貰い、異空間から現れる敵と戦うという内容だ。
どうして、この漫画の話を出したんだろうと思ったが、床を拭いている綾兄の姿はテーブルの陰になっていて、表情が見えない。私は、腑に落ちない気持ちを抱えながら、返した。
「知ってるよ。でも、最終回までは、読んでいないなぁ」
「最終回はな……」
綾兄は、その漫画がどう完結したのかを、教えてくれた。最後の強敵を倒した数年後、主人公は自分に片思いしていたクラスメイトと結婚し、一方で超能力をくれた不思議な少女は、幼馴染と結ばれたという。
「そうだったんだ。そっちで結婚するなんて、思わなかった」
「俺も最初はそう思ったが、最近、主人公の気持ちも分かるようになってきた」
床を拭き終わった綾兄は、立ち上がって、ぞうきんを流し台で洗い始めた。その背中を見つめる私に、静かに語りかけてくる。
「主人公にとって、その少女は、とても大切な存在だ。彼女の危機には、自分の命を顧みずに、助けに行くほど。でも、結婚はしなかった」
「うん」
「その『大切』という気持ちは、恋愛と違う。この人がいなかったら、今の自分は存在していなかった……そういう意味での、『大切』なんだと思う。いわゆる、恩人だな」
「……」
丁寧に、ぞうきんを絞る動きと同じように、綾兄は言葉を紡ぐ。流し台の上の小さい物干し竿にそれを掛けて、両手もしっかり洗ってから、ダイニングテーブルに戻ってきた。
「俺にとって、初江も、そういう存在だ」
「……そっか」
じっとこちらを向けられる真剣な眼差しに頷く。ちょっと性質が違っていても、恋とは違う、だけど恋以上にとても恋に近い感情を、私たちはお互いに抱いた。そのことが嬉しいのだけど、表情には出さずに、そっけない顔で、開いた漫画に目を落とす。
綾兄も、トーストの残りを食べ始める。それも終わり、カフェオレも飲み切った音がしたのに、綾兄はまだダイニングテーブルに残っている。どうしたのだろうとまた顔を上げると、彼は何もせず、しかし、妙に緊張した面持ちで、こちらを見ていた。
「ど、どうしたの」
「いや……実は、お前だけに、言っておきたいことがあって」
「う、うん」
緊張が移った私が頷くと、綾兄は恥ずかしそうに目を逸らし、口元を右手で隠しながら、ぼそりと呟いた。
「好きな人ができた」
「えっ!?」
驚きすぎて、ソファーから立ち上がった。それを告げた当の本人は、途端に慌てだす。
「大袈裟だよ」
「でも、でも……」
胸がいっぱいになって、言葉も詰まってしまう。油断すると、涙さえ出てきそうだ。
綾兄も、何度か女性と付き合ったことがある。だけどそれは、全て相手からのアプローチであり、一年も持たない短い恋ばかりだった。
恋に積極的になるのが怖いと、綾兄は言っていた。大切な人を目の前で失った経験から、自分が大切な人を持った未来を思い描けないのだと。
そんな綾兄に、好きな人ができたんだ。驚かずに、感激せずに、受け止めるのは無理な話だった。
「お袋には言うなよ。赤飯どころか、ちらし寿司を作り出しそうだからな」
「確かに、お母さんならやりかねないね」
苦笑する綾兄の言い訳は、とてもよく分かった。多分、ちらし寿司だけでは収まらずに、私や隼兄も呼び出してからのパーティーになりそうだ。
改めて、私はソファーに座り直し、綾兄と向き合い、頭を深々と下げる。
「おめでとうございます、綾兄」
「ありがとうございます。初江も、おめでとうございます」
綾兄もつられて頭を下げて、お互いにかしこまった、変な空気になった。それに耐え切れずに、私も綾兄も、ほぼ同時に笑いだした。
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