第128話 貴方の声は朝日のように


 以前に私が投稿した「#推しのお墓に行ってみた」が、思った以上にバズってしまい、色々な質問が届くようになった。

 それらにまとめて答えるのも大変なので、ここでブログを開設して、私がエル・ドルフィンとレイさんのファンになるまでの経緯を全部書こうと思う。


 きっかけは四年前。私が中学一年生になったばかりの時だった。

 その時の私は、毎日をなんとなく、もやもやとした気持ちで過ごしていた。別にいじめられているわけでもないし、家族とも円満。ただ、うっすらと、誰とも分かり合えないんじゃないかという不安を抱いていた。


 ある日の夕食の時間。うちでは、食事中にスマホを触ってはいけないというルールがあって、例え動画でも見せてもらえなかったので、母がつけているテレビを眺めていた。

 放送していた番組は、タイトルはうろ覚えだけど、日本のスーパーボーカリストベスト100みたいなものだった。知ってるアーティストにはおっ、と思ったりしたけれど、基本知らない人が出てくるので、あんまり興味なかった。


 だけど、あるバンドの歌を聞いた時、ご飯を食べる手が止まった。

 柔らかいのに力強く、とても温かい。初めて聞くのに、耳や心にすっと入ってくるような、不思議な歌声に聞き惚れた。


 それが、エル・ドルフィンの「明日」という曲で、レイさんとのファーストコンタクトだった。

 歌っているボーカルの男の人は、マイクをぎゅっと握り、それに口が見えないくらいに近付けていた。メイクもしていて、初めて見るヴィジュアル系バンドだったと思うから、その見た目も衝撃的だった。


 「明日」の中で、特に印象的だったのは、次の歌詞だった。


  どんなに夜型を気取っても

  朝日を浴びると 僕の心は喜び震える


 ああ、何か分かるなぁと思った。

 周りの好きなものに合わせて「好き」と言っているけれど、嬉しいという気持ちは、もっと純粋な根っこのところにあるのかもしれない。


 この曲がリリースされたのは、三十年くらい前だと聞いて、とても驚いた。確かに、どっかの音楽番組っぽいその映像は、なんだか古そうだとは思ったけれど、自分が生まれるよりもずっと昔だとは思えなかった。

 違和感のない新しい音と、普遍的なレイさんの歌声が、きっとそんな錯覚を起こさせたのだと思う。私はこの時にはもう、エル・ドルフィンに夢中だった。


『ボーカルのレイは、その年に自らの命を絶った』


 直後、聞こえてきたナレーションに、その日二回目の衝撃を受けた。

 こんなに優しく歌う人が、自殺するなんて。ショックに打ちひしがれていると、同じ食卓に座っている母が、何やら訳知り顔で「ああ」と呟いた。


「この人が死んだ後、ファンの子が何人も後追い自殺して、大変だったのよ」


 私は正直、後追い自殺した子たちの気持ちが、ちょっとわかる気がした。

 その子たちは、レイさんがいない世界に耐えられなくなったわけじゃない。レイさんが否定した世界に、価値を見出せなくなってしまったんだと感じた。


 夕食後、自分の部屋に戻ってから、すぐにエル・ドルフィンについて調べてみた。この時はまだ、サブスクとかはなかったけれど、動画サイトには公式のMVがいくつもあって、それを片っ端から聞いていった。

 それから、私はエル・ドルフィン漬けの毎日になった。MVを全部聞いた後は、ネットショッピングでCDを購入したり、古本屋さんでエル・ドルフィン関係の本を探したり、エル・ドルフィンのファンのブログを読んで彼らのエピソードやライブの雰囲気を味わったりした。


 当然、私の友達の中には、エル・ドルフィンのファンはいなかった。それどころか、名前も聞いたことがないという人の方が多い。

 でも、私は気にせずに、みんなでカラオケに行った時は、エル・ドルフィンの曲を歌った。友達からの反応は、正直微妙なことだったけれど、私はあまり気にしなかった。


 これは、私にとっては結構大きな変化だった。自分の好き・嫌いよりも、みんなが知ってることを把握する、周りで流行っているというのを追いかけるのが、一つのステイタスのように感じていたから。

 だけど、不思議と、エル・ドルフィンへの好きという気持ちは、誰にも恥じずに表へ出せた。こんなに一つのものを推し続けるのは、私にとって初めてのことだった。


 でも、エル・ドルフィンへの愛は深くても、リアルタイムで追いかけていた人のようにもうライブへ行くことは出来ないし、今のアーティストのように新譜発表の瞬間に立ち会うことが出来ないというのが、とても辛かった。

 エル・ドルフィンはレイさんが亡くなった後に解散してしまって、ギターのソウジさんは作曲家として活動していて、ドラムのハイスさんはサポートミュージシャンとして活躍しているけれど、ベースのユズさんは引退しているから、この三人が集まる機会もない。


 どうしても埋めない隙間を感じながら、推し活をつつけている内に、私には一つの夢ができた。

 それは、レイさんのお墓参りに行くこと。


 ただ、レイさんのお墓は、彼のふるさとである宮崎にあって、これを思いついた当時の高校生だった私には、簡単に行ける場所じゃない。お金のこともあるけれど、大学受験も結構難関を目指していたから、早めに塾に通っていて、時間も無かった。

 それでも、一度夢見たことは中々諦めきれず、大学生になったらバイトをして、宮崎へ行くというのが、私の最大の目標になっていた。


 大学一年の冬休み、大体一月くらい前に、私は初めての一人旅行へ出発した。

 行先は、レイさんの故郷の町で、今、レイさんが眠っている場所だ。


 宮崎についた一日目は、レイさんの痕跡を辿る旅をした。街の雰囲気や風や日光を感じるだけでもすごく高揚した。

 例えば、レイさんが初めてステージに立ったライブハウスに行ってみたり、レイさんのサインが飾られているラーメン屋さんに行ってみたり(そこはレイさんの同級生のお店だった)。本当は、エル・ドルフィンのファンが集うバーにも行ってみたかったけれど、未成年だからまた次の機会にと我慢した。


 泊まったホテルは、海沿いに立つ、太平洋側が見える部屋だった。私はすごく疲れていたけれど、日の出前に起きて、バルコニーに出た。

 理由は、宮崎で朝日を浴びたいと思ったから。レイさんがインタビューで何度も語った、あの太平洋を臨む日の出を、私も目にしたかった。


 水平線の向こうから登ってくる太陽は、夜の闇を切り裂いて、この世界の全てのものに光を投げかけていた。美しいものも、醜いものも、平等に照らし出すようだと感じた。

 「朝日を浴びると 僕の心は喜び震える」――思わず、「明日」の歌詞の一部を口ずさんでいた。レイさんの優しい目線と声は、この景色が育んだんだろうなぁと考えた。


 二日目、旅行の最終日、一番の目的地であるレイさんのお墓へ行った。ちょっと小高い丘の上に立つそのお墓には、新しい花やお供え物がいくつかあった。

 大学の中でも、エル・ドルフィンのファンの人は見つけられなかったけれど、こうして、忘れ去られることなく、人が訪れていることが嬉しかった。私も、お花を瓶に入れて、レイさんが好きだと話していた缶のココアをお供えしてから、手を合わせる。


 最初に思い浮かんだのは、「ありがとうございます」という感謝の言葉だった。

 毎日が息苦しいと思っていた私に、エル・ドルフィンは寄り添ってくれました。レイさんの声は、朝日のように暖かく、私を照らしてくれました。たくさんの素晴らしい歌と言葉を、ありがとうございました。


 最後に、「また必ず来ます」と約束してから、私はレイさんのお墓を後にした。

 キャリーバッグを転がしながら、イヤホンから聞こえてくるエル・ドルフィンの歌に耳を傾ける。


 足りないもの、追いつかないことはたくさんあるけれど、エル・ドルフィンのファンになれて本当に良かった。そう、心から思える旅行だった。




























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