第127話 鼻先にホイップクリーム


「料理をしてみたい」


 一緒に住んでいるのに、いつも予想外の発言と行動する彼が、そう言い出した時、私は正直ちょっと嬉しかった。

 同棲三年目、ずっと料理は私が担当していて、彼が台所に立ったとしても、せいぜい即席カップ麵かレンチンぐらいしか作ったことがない。別に、料理が嫌になったという訳ではないけれど、こういう日があってもいいかもしれない。


 それからしばらく、彼は自分のタブレットとにらめっこし続けていた。何を作るのかを、レシピサイトを見て決めるつもりらしい。

 ただ、その決めるまでの時間がかかり過ぎている。「ナポリタン……チャーハン……ここら辺はベタかなぁ」「揚げ物は難しそうだし、和食って気分でもないし……」と、ぶつくさ言いながら、気が付くと十二時を過ぎてしまっていた。


「これを作るよ」


 ファストフードのデリバリーで昼食を済ませた後も、じっくりタブレットを睨んでいた彼は、二時にやっと作りたい料理を決めた。

 意気揚々と、彼が見せてくれたタブレットを「どれどれ」と確認して、信じられない気持ちになったまま、彼の顔を見上げる。


「えっ、シュークリーム?」

「そう、シュークリーム」


 我が目を疑って尋ねてみると、彼は自信満々に頷き返す。何がどうなって、シュークリームになったのか、全く想像出来ないのだが、にっこにこの笑顔の彼を見ていると、そこを問い質す気力が湧いてこない。

 まあ、夕食よりもおやつの時間の方が近いから、こっちで良かったのかもしれない。と、無理やりポジティブシンキングに切り替えている私をよそに、彼は腕まくりをして、エプロンをつけ始めていた。


「遅くなったけれど、絶対においしいのをお届けするから」

「それはいいけど、私、あまりスイーツ作ったことないよ? アドバイスとか、無理だよ?」

「ダイジョーブ! 僕だって、初めてなんだから」


 もしも頼られても、助けられないよと教えたかったのに、彼は別の意味でとらえていたようだ。しかも、大丈夫とは到底思えない返答をしてくる。

 私は呆れ返っていたが、彼は冷蔵庫をガサゴソ探って、「あれ? ないのかな?」ということを何度か言っている。シュークリームの材料なんて、そもそも置いていないのだから、彼は慌てて財布と携帯だけ持って買い物に行った。


「ただいまー」

「おかえりー。結構大荷物だねぇ」


 帰って来た彼は、スーパーの大きなレジ袋を持っていた。リビングのソファーで、スマホゲームをしていた私は、その量に面食らう。


「小麦粉とか、バターとか、そういうのだけじゃないの?」

「スーパーを回っていたら、色々インスピレーションが湧いてきてね。ほら、苺をクリームに埋め込んでみるとか」

「それって、マリトッツォじゃない?」

「そうなの? あ、でも、生チョコ入りは、シュークリームでしょ」

「さあ……あれ? ホイップクリーム買ってるよ? カスタードじゃないの?」

「うん。僕の見たレシピは、ホイップクリームのシュークリームだったから」


 いきなりで応用編に挑戦で、絶句してしまう。ホイップクリームよりもカスタードクリームの方が簡単そうだけど、それ以前の問題に気付く。


「うち、電動の泡立て器なんて、気の利いたものはないよ?」

「……平気だよ、僕のこの手で泡立てるから」


 これは想定外過ぎたのか、彼は初めて動揺の色を見せたが、それを取り繕うように、右手に力こぶを作る。……痩せているので、ほんの少しも盛り上がらなかったが。

 今回は、自分で好きなようにやらせて、敢えて失敗を学ばせるパターンなのかもしれない。私は、我が子に接するような気分になって、調理に関してはノータッチで行くことに決めた。


「それなら、大丈夫だよね。私、自分の部屋に戻っておくから」

「あ、うん、そうだね、待ってて」

「本当にヤバくなったら、呼んでね」

「はーい」


 心細そうな彼に背を向けてる。それでも、振り返って、釘を一つ刺してしまったのは、自分の甘さなのかもしれない。

 自室でファッション誌を捲ったり、SNSをチェックしたりしていても、心はここにあらずだった。目の前のことに集中しようとしても、耳は勝手に彼のいるキッチンに向いている。


 「どういうこと?」「ミリリットル?」「おおさじ……おおさじ……」「あ、苺切らなきゃ」「全然泡立たない! 全然泡立たない!」「黒っ! 平たっ!」――調理の音に交じって、そんな彼の声が聞こえてくる。

 最初は心配で、出て行こうとは思ったが、ある程度まで行くと、逆に面白くなってきてしまった。ラジオコントを聴いている気分で、笑いをこらえるのに必死になる。


「出来たよ!」


 ノックもせずにドアを開けて、彼が叫んだ。眩いばかりの満面の笑みをこちらに向けている。

 その顔やエプロンは所々白く汚れている。変な話だけど、その頑張りを慮ると、ぐっと涙が出そうになってしまった。幼児の初めて体験ドキュメンタリーのようだ。


「ほんとに、おいしそうに出来た?」

「うん。我ながら、あっぱれ」


 胸張る彼に続いて、リビングに足を踏み入れる。キッチンの上の大災害――からは目を背けて、テーブルの上の大皿に乗った六つのシュークリームを見る。

 その全てに、はみ出るほどのホイップクリームが詰め込まれていた。そのうちの二組はそれぞれ、苺入りと生チョコ入りだ。生焼けか黒焦げも覚悟していたが、生地は綺麗なきつね色をしている。


「おー。どうなることかと思ったけれど、結構おいしそうじゃない」

「そうでしょ? とはいえ、四つは焼いた時点で生地が駄目になったんだけどね」

「元々は十個のつもりだったんだ? 多くない?」

「そうかな? 小ぶりだから、それくらいでもいいかなって思ったけれど」

「夕食も近いからね。お互い、大食いじゃないし」


 ツッコミたいところはあるけれど、食べられる時点で落第点だ。見た目も悪くない。私は、手を洗う前にと、スマホで写真を撮った。

 「じゃあ、食べてみよう」と、彼と向き合うように座る。「いただきます」と手を合わせて、ホイップクリームだけが入ったシュークリームを手に取った。そんな私の様子を、彼はじっと見詰めている。


 はむっと、一口目を齧る。自分の視界の下方で、ホイップクリームがむにゅりと飛び出るのが出た。

 シュークリームの生地は、ちょっとパサついていたけれど、たっぷりのクリームのうるおいでカバーされている。むしろ、計算したじゃないかと思えるくらいのいいバランスだ。彼が一生懸命泡立てたクリームは、意外にもふんわりと柔らかい。


「うまっ」

「良かったー!」


 思わず零れた正直な賞賛に、彼は顔を綻ばせた。シュークリームの出来に自信があったみたいだけど、やっぱり味の感想を聞くまでは安心していなかったみたい。


「めちゃ旨いよ。早く食べてみて」

「うん。でもちょっと待って」


 自分が作ったかのように、分厚い顔で薦めると、彼も頷いたが、シュークリームを手に取らない。

 どうしたんだろうと訝しむ私に向かって、彼は手を伸ばし――鼻先をそっと撫でた。戻ってきたその人差し指にはホイップクリームが付いていて、私は「あっ」と声が出る。


「付いていたんだ」

「さっきね」


 恥ずかしさに顔を赤くしながら笑うと、彼も釣られたように笑う。一口目が豪快だったから、その時にホイップクリームが付いたらしい。まるで、漫画の喰いしん坊キャラみたいだ。

 一方、彼は、指先のホイップクリームを凝視している。そうして、寝起きみたいな曖昧な声で呟いた。


「これ、どうしよ」

「舐めちゃえば」

「えっ、そんな、」


 面白いくらいに動揺する彼を前に、シュークリームを食べる。変な優越感が出てきた。


「気持ち悪くない?」

「恋人同士なんだし」

「そう言うのって、いわゆるイケメンしか許されないムーブでしょ」

「気にしすぎだって」


 そこら辺のイケメンなんて、どうでも良くなるくらいに好きなんだから。そう言いそうになるのを、堪えて笑う。

 やっと決心がついたのか、彼はホイップクリームの付いた指を、口に含んだ。途端に、「ぶふふ」と、変な笑い声を漏らす。


「あ、今のキモい」

「え、気持ち悪がらないって、言ったのに」

「行為じゃなくて、笑い方が気持ち悪い」

「手厳しいー」


 今度の彼は大口を開けて笑う。その口に、えいっとホイップクリームのシュークリームを詰め込む。

 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で、彼はシュークリームを咀嚼した。私は、ゲラゲラ笑いながら、シュークリームを引っ込める。


「おいしいでしょ」

「初めてにしては、中々」

「あ、付いているよ」


 今度は、私の方が彼の鼻先のホイップクリームを掬い取り、自然な調子で、それを舐めた。


「今のが、正しいお手本」

「なるほど。勉強になった」


 彼は大真面目な顔で頷きながらも、頬を赤く染めていた。










































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